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残想  作者: 森村征爾
10/16

第九話 帰る場所


修学旅行二日目。

朝からバスの中は賑やかだった。


「桜島見えるかな!」「お土産何買う?」「夜は部屋行くね!」

友達同士ではしゃぐ声が飛び交う中、向日葵ひまりは窓際の席で外を眺めていた。

頭の中にいる玄太郎は珍しく静かだった。


『……九州か』


「玄ちゃん?」

言葉にできない感情が流れ込んでくる。


やがてバスガイドの声が響いた。

「これから知覧特攻平和会館へ向かいます」


その瞬間だった。

玄太郎の感情が大きく揺れる。

胸の奥が強烈なまでにざわつき始めた。

「玄ちゃん?」


『知…覧……』

震える声だった。


『全て…』


『思い出した…。』

向日葵は思わず胸を押さえた。

館内へ入ると、生徒たちの声は自然と小さくなった。


若い兵士たちの写真、遺書、家族へ宛てた手紙。

静かな空気が流れている。

向日葵も展示を見ながら歩いていた。


その時…

一枚の写真の前で足が止まった。

玄太郎の感情が凍り付く。


『……あ』


写真の中の青年は真面目そうな顔、そしてどこか不器用そうな表情。

「玄ちゃん……?」


『……おれだ』

向日葵の身体から力が抜けた。


そして次の瞬間。

大量の記憶が流れ込んできた。

油の匂い、暑い格納庫、海から吹く風。エンジンの音


そして…笑い声。

「玄太郎、戦争が終わったら酒屋を継ぐんだ」


『山下か……』

明るい青年が笑っている。


「お前も遊びに来いよ!」


「酒は飲めんが、羊羮なら食べに行く」

皆が笑った。


別の青年が言う。

「俺は教師になる」


「子供たちに勉強を教えるんだ」


「先生、先生って呼んでやるよ」

再び笑い声。


「中村は?」


「俺は田んぼを守る」


「妹が嫁に行くまでは頑張らないとな」


「だから早く戦争が終わってほしいよ」


誰かが玄太郎を見る。

「玄太郎は?」

若い玄太郎が少し照れながら笑った。

『娘が生まれる』


「おお!名前は?」


『まだ決めておらん』


「帰ったら皆で祝いだな!」


「山下が祝い酒を持ってきて」


「将来は先生が勉強教えて」


「中村が米を持ってくる!」

「おれだけおかしくないか?祝いたいんだよ、玄太郎の為に!」


「ならばもち米で祝い餅だな!」

格納庫に笑い声が響く。

誰も死ぬ話などしていなかった。

誰も英雄になろうとしていなかった。

皆、戦争が終わった後の話ばかりしていた。


『山下……』『村上……』『中村……』

玄太郎の感情が震える。


『皆、生きて帰るつもりだった』

向日葵の目から涙が零れた。


『誰一人、死にたかった者などおらん』

『皆、故郷へ帰る話ばかりしていた』

そして呟く。

『……皆、帰れたのだろうか』


向日葵は胸が締め付けられた。

玄太郎だけではない。

あの場所にいた青年たちにも、それぞれ帰りたい家があった。

待っている家族がいた。

好きな人がいた。

夢があった。

その時、玄太郎の感情が再び揺れた。


『娘を……』

向日葵は息を呑む。


『抱き締めたかった……』

娘の温もりを知らない。

抱き上げることもできなかった。


『毬……すまない…』

苦しさが胸いっぱいに広がる。

玄太郎の感情なのか、自分の感情なのか…。


「ひまり!?」

友達の美咲が心配そうに駆け寄る。


「大丈夫?」


「う、うん……」

涙を拭きながら笑う。

館内を出ると鹿児島の空はどこまでも青かった。

穏やかな風が向日葵ひまりの髪を揺らしている。


しばらく黙っていた玄太郎が静かに呟いた。


『毬には幸せになって欲しかった』


『八十年も一人にさせた…』

『もっと幸せな人生が過ごせただろうに』


後悔、後ろめたさ、贖罪の意識を強く感じる向日葵。玄太郎の気持ちが流れてくる。


『おれなんかと結婚して、本当に良かったのだろうか……』


向日葵は首を横に振った。

「私が知る限り、毬おばあちゃん幸せそうだよ」


『……そうか』


「いつも玄ちゃんの話をする時笑ってたから」


『……。』


『おれなんかに…。』

初めて感じる穏やかな感情だった。

向日葵は青空を見上げた。

「玄ちゃん」


『なんだ?』


「帰ろう」


『どこへだ?もうおれの帰る場所は…。』

向日葵は笑った。


「毬おばあちゃんのところ」

すると玄太郎も少し笑った気がした。


『そうだな』

『おれの帰る場所は……そうだな…。』


鹿児島の空の下で。

八十年前、帰れなかった青年。

戦友たちを想いながら、ようやく帰る場所を見つけ始めていた。


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