閑話 白金の聖騎士
その男には忘れられない女がいる。
忘れようにも、その心につけられた傷がずっとジクジクと膿んで広がり、やがて、体そのものが傷になったように思えるほどだ。
朝の冷たい井戸水をかぶり、身を清める。
春めいて暖かくなってきてはいるものの、山間の立地で朝の時間帯はまだまだ寒い。
そこに通年で温度の変わらぬ井戸水を頭からかぶれば、ほとんどの人間はその冷たさに暖を求めて走り回ったことだろう。
しかしこの男は違った。
下履きだけの半裸の状態で冷水を浴びせてもまったく動じた様子はなく、鍛え上げられた肉体は美しく隆起し、かといって無骨ではなく、しなやかな柔軟性を感じさせた。
その佇まいだけで男が只者ではないことがよくわかる。
それに加えて、水の滴った白金の長髪。
形の良い碧玉の瞳。
整いきったその面は、先ほど被った井戸水よりも清廉で冷え冷えとした美しさがあった。
大きく呼吸をし、吐息が白くなって頬を少しだけ温める。
目を瞑ると、瞼の裏に焼きついたあの面影が過ぎる。
それだけで男の胸は熱くなり、熱を抑えようと再び水をかぶる。
あれから10年以上、ずっと続けている習慣だった。
「アルベール様。…朝食の用意ができております」
従士の声を聞き、深く息を吸う。
滴った水を払い、アルベールと呼ばれた男は立ち上がる。
水を吸って重くなった髪を手でかるく絞りながら、ようやく朝日が昇り、温められた石畳に歩みを進めた。
タオルを受け取ると頭から順に拭き取っていく。
その隙間に、山間から顔を出した朝日を横目で見る。
眩しい。だが自分はもっと眩しいものを知っている。
闇夜に浮かぶたった一つの瞬きのような星を。
たった一度だけ、夜を共にした女。
彼女は夜を纏うようなその出立で、日の光よりもなお鮮烈にアルベールの瞼の裏に、焼き付いて離れない。
今も胸の奥に燻る何かがじりじりとアルベールを灼いている。
ずっと探して続けている。
あれからずっと。彼女を求めている。
それが恋などという生易しいものではないことをアルベールは知っている。
もし再び出会った時、どうなってしまうのか自分にも想像がつかない。
ただきっと、今の自分が壊れてしまうだろうということは、なぜだか確信できた。
壊れるために求めるのか。
壊すために求めるのか。
それらは似ているようでどこか違う。
うっすらと朝靄のかかる山間を見つめながら、アルベールは静かに動き出した。
◇
「最近この近くに、はぐれの死霊術士が出るって噂があるんですよ」
従士のひとり、ノアが食事の合間にそのようなことを言い出した。食事中に喋るという行為にいまだに慣れないアルベールは、黙ってその話を聞く。
「…死霊術士は基本、はぐれだろう。被害が出ているのか?」
もうひとりの従士であるガストンが、アルベールに代わりその話を受けた。騎士の訓練を積んでいるが平民出身の彼には礼儀作法の方が難しいようで、食べながら話すことも訳はなかった。
「いやそれが不思議なんですよね。死霊の姿はあるのに、何も被害が出てないっていうんです」
「死霊は無作為に周辺を荒らすからな。隷属されているのか。…だが目的もなく徘徊させているだけ? 誘いか?」
ガストンとノアはトントン拍子に話を進める。
アルベールも何も言わず食事を続けた。
「まあでも誘いに乗らざるを負えないというか、この辺りに死霊を浄化できる人なんて、やってくるかどうか…」
死霊を問答無用で祓える神聖系ジョブはおおよそが教会の管理下に置かれている。
総本山の教国ははるか禁域の彼方。
ゲートがなければ大陸を回り込む必要がある。
こんな地方では大金を払って呼び寄せることも叶わないだろう。
「それはそうなんだが。…どうされますかアルベール様」
二人の従士は主であるアルベールの意向を仰いだ。
二人がどう言ったところで最終的な決定権はアルベールにある。
死霊術士と戦うことは命がけだ。
いくらこちらが死霊相手に有利をとれるからといって、油断はできない。
静謐に眠る死者を、怨念で呪い、意のままに操る外道。
彼らはそのほとんどが、自らの呪いによって滅びる。
放っておけばやがて自死する存在だが、稀に生き延び、死を食らい続け膨張していく災害へと成り果てる場合もあるという。
だから、死霊術士は見つけ次第、殺す。というのが教会の総意だった。
もう、かつての大国のように、禁域のような惨状を生み出さないように、と。
アルベールの手に自然と力が入る。
かつて、物見遊山で軽率に禁域へと立ち入ったあの時を、否が応でも思い出してしまう。
史上最年少で聖騎士へと段階を昇った己を過信していた。
己惚れていたのだ。
この世の地獄を体現したかのような死霊の群れ。
死霊同士が喰い合い、さらにその怨念を増幅し強力になっていく悍ましさ。
死霊とは術士に操られるだけの哀れなもの、という認識が一息で吹き飛んだ瞬間だった。
あれは人間が制御できるものではない。
そうして、無様に逃げ惑ったのだ。
だが、まだ若く腕も未熟で、心まで負け犬になっていたアルベールを助けたのは、死霊術士の女だった。
死を傍らに置きながら、なお生に満ちている。
異様な女だった。だが、美しかった。
長い黒髪を絡ませ、夜闇のような瞳でこちらを覗く、その孤独な目をアルベールは知っていた。
アルベールと同じ目だったのだ。
「命を助けたのだから――相応の対価をいただこうかしら」
そう言って、傷つき身動きのとれぬアルベールにしなだれかかり、しかし彼は抵抗できなかった。
今まで感じていた空虚が、埋まっていくような心地だったのだ。
夜が明けると、女の姿はどこにもなかった。
死霊術士は禁域へ、その手駒を増やすために訪れるという。
しかしそれは術士自体も危険にさらす行為。滅多には現れない。
ここで張っていても、彼女と会える可能性は低い。
そもそもアルベールも禁域への滞在は許されていない。
ならば、探すしかない。
それからは、死霊術士の噂を聞きつければ、すぐさま駆けつけ、確認し、違えばこれを倒す。
それをひたすらに繰り返した。
もはや時が経ちすぎて、彼女はもう滅んでいるかもしれない。
ありもしない面影を追い続ける、己の無様さを嘲笑しながら。
それでも、アルベールは歩き続ける。
あの日、偶然に出会い、別れた。
魂が惹かれ合うような相手を求めて。
死霊術士を求める聖騎士とは、なんとお笑い種だろう。
それをこの従士たちは知らない。
アルベールの都合に巻き込む、申し訳なさを感じながらも、止まることはできない。
だから今回も、わずかな可能性に賭けて、歩いていくのだ。
「…行こう」
アルベールのその言葉に、二人は分かりきっていたことだと、うなずく。
何年も教国を離れ、放浪を続けて、各地の問題を手当たり次第に解決して去っていく。
吟遊詩人にも唄われる白金の聖騎士。
それが二人の主、アルベール・ルクシオなのだから。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
ちょっと雰囲気の違うお話でした。
次回はいつもの調子に戻ります。




