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星陽高校バリスタ部  作者: やた
第24話 桜の約束

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1.旅立ちの朝

 3月下旬、桜川市。


 私立星陽高等学校の校門を潜ると、そこには視界を埋め尽くすほどの淡いピンク色の世界が広がっていた。例年よりも少し早く満開を迎えた桜の木々が、春の柔らかな風に揺られて、まるで未来を祝福する雪を降らせているようだ。花びらはアスファルトの上を滑るように舞い、卒業生たちの黒い学生服や、在校生たちのブレザーの肩に、そっと名残惜しそうに止まっている。


 この学び舎で過ごした時間は、ある者にとっては瞬きのようであり、またある者にとっては永遠に続くかのような長い旅路であった。


 その光景を、1年生の日向蒼太は中庭の片隅から、眩しそうに見上げていた。


 一年前の自分を思い出す。入学したばかりのあの頃、彼は極度の人見知りとコミュ障で、クラスの輪に入ることもできず、ただ地面を這う影のように生きていた。休み時間は人気のない場所で息を潜め、誰からも見つけられず、自分でも自分を透明人間だと思い込もうとしていたあの日々。


 そんな彼の閉ざされた世界の扉を、「ねえ、君。ちょっといいかな?」と強引に、けれど驚くほど温かくノックしたのが、当時バリスタ部部長だった橘楓だった。


「……あの時、楓先輩に声をかけられなかったら。僕の世界は、今もモノクロのままだったんだろうな」


 今の自分は、ここでこうして、誰かのためにコーヒーを淹れる喜びを知ることはなかっただろう。自分には何の価値もないと思い込んでいた少年が、今では誰かの「美味しい」という一言のために心血を注げるようになっている。その変化は、奇跡と呼ぶに相応しいものだった。蒼太は胸に去来する熱いものを押し込めるように、深く、そして長く、春の香りを吸い込んだ。


 体育館では、卒業式の予鈴が厳かに鳴り響いていた。重厚な扉の向こう側には、期待と寂しさが入り混じった独特の緊張感が充満している。


 3年生の橘楓、河合翔、香西美咲の三人は、制服の襟を正し、少しだけ緊張した面持ちで整列している。


 楓は、周囲を安心させるような穏やかな微笑みを絶やさなかったが、その指先は卒業証書を授与される際の手順をなぞるように、かすかに動いている。彼女にとってこの三年間は、かつての蒼太と同じように極度の人見知りであった彼女が、バリスタ部に入り、仲間を集め、今の「木漏れ日テラス」という居場所を築き上げるまでの、孤独で、それでいて情熱的な格闘の日々でもあった。彼女が流した人知れぬ涙が、今のテラスの輝きを作っていることを、後輩たちは知っている。


 副部長の河合翔は、いつものように冷静沈着な面持ちを保っているが、眼鏡の奥の瞳には隠しきれない寂寥感が滲んでいた。彼が毎日、我が子のように磨き上げてきたエスプレッソマシンの蒸気の音、金属が熱を帯びる独特の質感。それらと離れることが、自らの魂の一部をもぎ取られるように感じているのかもしれない。彼の鍛えられた指先は、マシンのレバーを握る感触を、祈るように無意識に思い出していた。


 メニュー開発担当の香西美咲は、式の前からすでに目元を赤く腫らしていた。隣のクラスメイトに「まだ早いよ、美咲。メイクが落ちちゃうよ」と小声で笑いかけられながらも、彼女は何度も何度もハンカチで涙を拭っていた。彼女が考案した数々の独創的なドリンクやスイーツ――例えば、冬の「淡雪キャラメルラテ」や秋の「黄金カボチャのスムージー」――は、この学校の生徒たちの放課後にどれだけの救いと彩りを与えてきたことだろう。


 式典が始まると、体育館は張り詰めた静寂と、冷たい床から伝わる微かな震えに包まれた。


 校歌斉唱、校長による卒業証書授与の声が朗々と響き渡り、送辞の言葉一つ一つが、在校生たちの心に深く刻まれていく。


 2年生の沢村陸は、在校生席で背筋を真っ直ぐに伸ばし、楓たちの凛とした背中を見つめていた。楓から部長を引き継ぎ、来月からは誰も頼れる先輩がいないという重圧と責任感が、彼の胸を熱く、そして心地よく重くさせる。


 彼の後ろの列では泉真琴が、普段の厳しい表情を崩さず、しかし潤んだ瞳で前を見据え、そのさらに近くでは望月雫が、いつになく真剣な眼差しを向けていた。彼女は「卒業生が退場するまでの残り時間」を計算するのではなく、その一瞬一瞬が自分たちの記憶というハードディスクにどうアーカイブされるかを、深く噛み締めているようだった。


「卒業生、退場」


 吹奏楽部の演奏が、旅立ちを祝う力強い旋律を奏で始める。


 一列になって歩き出す卒業生たち。楓が蒼太たちの座る列の横を通りかかる際、ほんの一瞬だけ、示し合わせたわけでもないのに視線が重なった。


 楓は、すべてを見守ってきた慈愛に満ちた表情で優しく頷き、その瞳は「あとは任せたよ。君たちなら、もっと素敵なテラスにできるはず」と語っているようだった。蒼太は思わず椅子から立ち上がりそうになるのを必死に堪え、ただ静かに、これまでの感謝のすべてを込めて、深々と頭を下げた。彼らを見送る背中に、舞い散る桜が降り積もっていた。

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