6.いつものお礼、これからの光
テラスの片隅では、部長の陸がようやく数百個に及ぶクッキーの袋詰めと、一枚一枚丁寧に綴ったメッセージ書きを終え、精根尽き果てたようにパイプ椅子に沈み込んでいた。
「……終わった……。もう、一生分のリボンを結び終えた気がする。指がリボンの形に固まって、もう箸も持てねえよ……。真琴、あとで俺の指をリセットしてくれ……」
真琴と雫は、そんな陸の横で、最後のお礼を配り終えたリストを冷静に整理していた。陸の「誠実な疲労」を、彼女たちは言葉では揶揄しながらも、心の中では誰よりも高く評価していた。
「お疲れ様、陸。これでようやく、不備のない会計報告と在庫管理が完結できるわ。あなたの『人徳』という名の膨大な負債も、これで一時的にキャッシュオフね。少しは身軽になったんじゃない?」
「陸、あなたの作業後半におけるパッキング速度は、前半の2.4倍に達していたわ。最初からその集中力を維持していれば、これほどの残業は発生しなかったのだけれど。……まあ、誰一人妥協せずに完遂したことだけは、部長としての責任感としてログに記録しておいてあげるわ」
毒を吐きながらも、二人の口元には微かな、けれど確かな笑みが浮かんでいた。
陸は、よろよろと立ち上がると、カバンの中から、他の義理返しとは明らかに装丁が違う、少し高級感のある、けれど質素で洗練された小さな袋を二つ取り出した。
「……あー、それと。これ。忘れてたわけじゃねえぞ」
陸は、顔を背けて照れ臭そうに頭を掻きながら、その袋を真琴と雫に、放り投げるようにして差し出した。
「二人には、『いつものお礼』だ。義理じゃない、本気の感謝な。……俺さ、部長として突っ走ってるけど、実際は二人なしじゃ、この部活は一日も持たないし、俺自身も迷子になってただろうからな。いつも支えてくれて、本当にサンキューな。……来年も、俺の隣で走ってくれよ」
それは、恋人同士のような甘い言葉ではない。けれど、三人の間で共有されてきた、泥臭い努力と、背中を預け合う鉄の信頼の証だった。それは恋愛よりも重く、友情よりも鮮烈な絆の形。
「…………あら。生意気ね。私を泣かせようとしてるなら、計算違いよ」
「…………心拍数が微増しているわ。このクッキーの糖分が脳に届く前に、この感情の揺れを分析しなきゃいけないけれど……今はただ、味わうことに集中するわ」
普段は冷静沈着な雫が、思わず手元のクロスをぎゅっと握りしめ、真琴も眼鏡の位置を不自然に直しながら、耳元まで赤く染めていた。
「……まあ、せっかくの好意だから、受け取っておいてあげるわ。来年はもっと計画的に、私のスケジュール管理下で動くこと。わかったわね、陸?」
「部長、このクッキーに含まれる糖分は、私の次回の高度なマシンメンテナンスのエネルギー源として、大切に、有効に活用させてもらうわ。……本当に、ありがとう」
2年生トリオの、気心の知れた、けれど何物にも代えがたい「部隊」のような絆。
それぞれの「返礼」が幕を閉じ、テラスには穏やかな夜の帳が、宝石を散りばめたように降りてこようとしていた。
顧問の香月涼子は、そんな部員たちの様子を、職員室へ戻る廊下の影からそっと眺めていた。彼女の瞳には、かつての自分が見落としていた、日常の輝きが映っていた。
ロンドンからの誘いを断り、この不完全で、正解のない、けれど眩しいほどに愛おしい日常を選んだ自分の選択。それが、どんなに高度な数学的証明よりも正しい「解」であったことを、彼女はこの光景を見て確信する。
コーヒーの心地よい苦みの後に訪れる、長く、体温のように温かな甘い余韻。そんなホワイトデーの夜を、彼女は満足げに、そして誇らしげに噛み締め、静かにその場を去った。彼女の歩みは、以前よりもずっと軽やかだった。
春はもう、すぐそこまで、……いや、もう彼らの心の中に、満開に咲き誇っていた。




