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紙は手放さなかった。食事の間も、身支度の最中も、眠るときでさえ指先で触れていた。少しでも離せば、侍女の声が揺らぐ。「お嬢様——」「……様」音が欠ける。掴み直すと「シュア様」に戻る。繰り返すうちに、呼ばれること自体が鎖になる。呼ばれ続けなければ形を保てない。呼ばれるたびに、形を保つために縛られていく。
侍女は最初、求めに応じて何度も名を呼んだ。「シュア様」「シュア様」。だが回数が増えるほどに、声に僅かな躊躇が混じる。発音がかすかにずれる。「シュ、ア様」「……ア様」。気づかぬふりをする。訂正もしない。ただ紙を強く握る。指先の血が止まり、白くなる。それでも離せない。
夜、鏡の前で口にする。「シュア」。自分で呼ぶ。薄い。輪郭は保たれない。誰かの声でなければ、世界は自分を固定しない。ならば他人に依存するしかない。そう理解した瞬間、胸の奥で何かが静かに壊れる。
翌朝、紙の文字がわずかに薄れているのに気づく。昨夜は確かに濃かった線が、ところどころ途切れている。指でなぞると、凹凸はまだある。だが読むと、ほんの一瞬、音が引っかかる。「シュア」。遅れる。遅れて、形になる。侍女を呼ぶ。
「呼んで」
「……シュア様」
今度は最初から少し遅い。音が組み上がるまでに間がある。紙を胸に押し当てる。戻る。戻るが、完全ではない。世界はもう、元の速さでは自分を認識しない。
昼、予定表の最上段は完全な空白になる。侍女はそれを不思議とも思わない。「本日のご予定はこちらでございます」。誰の、という問いは無意味になった。机の上の翡翠の髪留めは、また消えている。探してもない。問いただしても「存じ上げません」。記録が先に消え、物が後から消える。順番すら、もう信用できない。
紙の文字はさらに痩せる。「シュア」の中の一画が欠ける。「シュ……」。読むたびに違う形になる。侍女の声も追随する。「シュ……様」「……様」。呼び名が滑る。主語が落ちる。やがて呼ばれなくなる時間が増える。呼ばれない間、輪郭は薄くなる。椅子に座っているはずなのに、座面の感触が遠のく。足元の床が一段下がったように感じる。自分の重さが、世界に残らない。
「もう一度」
頼む声がかすれる。
侍女は困ったように微笑む。「……様」
それだけでも少し戻る。だが完全ではない。呼び名が欠けた分だけ、戻りも欠ける。
夜、紙を灯りにかざす。透ける。文字の骨だけが残る。「……ア」。最初の音が消え、最後の音だけが浮く。読む。「……ア」。音が空を切る。形にならない。胸の奥が冷える。冷えたまま、静かに理解する。呼ばれ続けることが苦しいのではない。呼ばれるたびに、足りない部分を自覚させられるのが苦しい。欠けた名で固定されるたびに、自分の欠損が確定していく。
「……呼ばなくていい」
初めてそう言う。侍女は安堵したように頷く。「承知いたしました」。その一言は、もはや名前を伴わない。にもかかわらず、少しだけ楽になる。呼ばれない時間、輪郭は薄いが、欠けを数えずに済む。
紙を見下ろす。残っているのは、最後の一画だけ。触れれば崩れるほどの細さ。これを守れば、まだ繋がる。だが、それを守るために他人の声に縛られ続けるのなら、その繋がりは自分のものではない。依存している限り、消失は遅れるだけで、終わりは同じだ。
シュアはゆっくりと息を吐く。指先の力を抜く。紙を持つ手がわずかに下がる。怖さはある。だが、それ以上に静かな安堵がある。自分で選べる。最後だけは。
紙を二つに折る。薄い音がする。さらに折る。残った一画が視界から分断される。読めなくなる。読めないまま、形も意味も失う。
扉の向こうで侍女が何かを言う。「……様」。誰を指すでもない呼びかけが、空気に溶ける。シュアは応えない。応えるための名が、もうない。
鏡の前に立つ。映っているはずの少女は、光の具合で輪郭が曖昧になる。顔はある。だが、それを指し示す言葉がない。言葉がないものは、やがて記憶から落ちる。
紙をそっと卓上に置く。触れない。戻らない。戻らせない。
「もう、いいわ」
声は小さいが、確かに自分のものだった。最後の確かさは、誰にも観測されない形で、ただそこにある。
窓の外では暗雲が変わらず空を覆っている。朝と夜の境は曖昧なまま。部屋の中の気配は薄くなり、やがて均される。足音も、呼び声も、ここを通り過ぎるだけになる。
それでも、静かに理解する。
わたくしは、最初から誰でもなかったのだから。




