表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Ms,unknown  作者: 非常食
3/5

3

封蝋に爪をかけ、躊躇いなく割る。乾いた音が小さく響く。中には一枚の紙。装飾も印もない、ただの白。けれどそれを開いた瞬間、喉の奥が震えた。


そこに書かれている。


自分の名前が。


はっきりと、歪みなく、削られていない形で。


シュア。


指先でなぞる。インクの凹凸が確かにある。読める。読めてしまう。胸の奥に押し込めていた何かが、一気に持ち上がる。次の瞬間、廊下の向こうから声がした。


「シュア様!」


反射的に顔を上げる。空気が変わる。重かった室内が一瞬だけ軽くなる。鏡に映る自分が、はっきりと輪郭を持つ。視界の端で、机の上にあったはずの小物が戻っているのが見えた。翡翠の髪留め。昨日のままの位置に。


「シュア様、失礼いたします」


扉が開く。侍女が入ってくる。その視線は迷いなくこちらを捉え、口元にはいつもの礼がある。


「お目覚めでございますね、シュア様」


その一言で、すべてが繋がる。名前。呼称。認識。存在が一つに固定される感覚。足元が安定する。息がしやすい。心臓の音が、やっと身体の中に収まる。


「……ええ」


声が出る。自分の声だと分かる。侍女は微笑み、朝の支度を続ける。主語が戻る。視線が合う。言葉が繋がる。すべてが正常だ。


だが、それは長く続かなかった。


紙から指を離した瞬間、世界がわずかに軋む。


侍女の動きが一拍遅れる。


「お嬢様——」


呼びかけが途中で揺らぐ。シュアは咄嗟に紙を握り直す。指先に力を込める。すると再び、


「シュア様」


音が整う。呼び名が戻る。呼吸が戻る。存在が戻る。


「……」


理解する。


これは、鍵だ。


名前が書かれたこの紙が、自分を固定している。


手を緩める。紙を少し離す。侍女の視線が曖昧になる。


「お嬢様、本日は——」


まただ。戻らない。戻りきらない。シュアは再び紙を引き寄せる。


「シュア様、本日は——」


音が整う。


繰り返す。


離す。揺らぐ。掴む。戻る。


離す。消えかける。掴む。繋がる。


何度も、何度も。


やがて、シュアは紙を胸に押し当てた。


「……名前」


呟く。


名前を呼ばれることで、存在が保たれる。


ならば。


名前がなければ、自分は消える。


簡単なことだった。


あまりにも、簡単で、残酷なこと。


侍女が不思議そうにこちらを見る。「いかがなさいましたか、シュア様」その言葉に安堵が滲む。まだ呼ばれる。まだ繋がっている。


だが同時に、恐怖が形を持つ。


この紙を手放した瞬間。


自分は、なくなる。


「……離せない」


小さく呟く。


誰に向けたものでもない。


理解してしまったからこそ、もう戻れない。


シュアはゆっくりと椅子に腰を下ろし、紙を見つめる。そこにある名前は、ただの文字列ではない。輪郭であり、錨であり、最後の証明だ。


けれど、それに触れている間しか保てない。


指先が震える。


握りしめる力が強くなる。


「……呼んで」


無意識に零れる。


侍女が一瞬戸惑いながらも答える。


「シュア様」


それだけで、胸の奥が満たされる。


「もう一度」


「シュア様」


繰り返す。


何度も。


呼ばれるたびに、形が整う。


呼ばれないと、崩れる。


シュアは目を閉じる。


そして、理解する。


自分はもう、“自分だけでは存在できない”。


「……シュア」


自分で自分の名を口にする。


音にすることで、少しだけ保たれる気がした。


だが、それは薄い。


他人に呼ばれるそれとは、決定的に違う。


だから。


シュアは紙を離さない。


指を緩めない。


呼ばれることを求める。


それだけが、ここにいる証だから。


窓の外では、暗雲が変わらず空を覆っている。


時間の感覚も、朝と夜の境も曖昧なまま。


その中でただ一つ、確かなことがある。


「名前を呼ばれないと、輪郭が保てない」


その事実だけが、静かに、深く沈んでいく。


シュアは紙を抱きしめる。


まるで、それが自分そのものであるかのように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ