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封蝋に爪をかけ、躊躇いなく割る。乾いた音が小さく響く。中には一枚の紙。装飾も印もない、ただの白。けれどそれを開いた瞬間、喉の奥が震えた。
そこに書かれている。
自分の名前が。
はっきりと、歪みなく、削られていない形で。
シュア。
指先でなぞる。インクの凹凸が確かにある。読める。読めてしまう。胸の奥に押し込めていた何かが、一気に持ち上がる。次の瞬間、廊下の向こうから声がした。
「シュア様!」
反射的に顔を上げる。空気が変わる。重かった室内が一瞬だけ軽くなる。鏡に映る自分が、はっきりと輪郭を持つ。視界の端で、机の上にあったはずの小物が戻っているのが見えた。翡翠の髪留め。昨日のままの位置に。
「シュア様、失礼いたします」
扉が開く。侍女が入ってくる。その視線は迷いなくこちらを捉え、口元にはいつもの礼がある。
「お目覚めでございますね、シュア様」
その一言で、すべてが繋がる。名前。呼称。認識。存在が一つに固定される感覚。足元が安定する。息がしやすい。心臓の音が、やっと身体の中に収まる。
「……ええ」
声が出る。自分の声だと分かる。侍女は微笑み、朝の支度を続ける。主語が戻る。視線が合う。言葉が繋がる。すべてが正常だ。
だが、それは長く続かなかった。
紙から指を離した瞬間、世界がわずかに軋む。
侍女の動きが一拍遅れる。
「お嬢様——」
呼びかけが途中で揺らぐ。シュアは咄嗟に紙を握り直す。指先に力を込める。すると再び、
「シュア様」
音が整う。呼び名が戻る。呼吸が戻る。存在が戻る。
「……」
理解する。
これは、鍵だ。
名前が書かれたこの紙が、自分を固定している。
手を緩める。紙を少し離す。侍女の視線が曖昧になる。
「お嬢様、本日は——」
まただ。戻らない。戻りきらない。シュアは再び紙を引き寄せる。
「シュア様、本日は——」
音が整う。
繰り返す。
離す。揺らぐ。掴む。戻る。
離す。消えかける。掴む。繋がる。
何度も、何度も。
やがて、シュアは紙を胸に押し当てた。
「……名前」
呟く。
名前を呼ばれることで、存在が保たれる。
ならば。
名前がなければ、自分は消える。
簡単なことだった。
あまりにも、簡単で、残酷なこと。
侍女が不思議そうにこちらを見る。「いかがなさいましたか、シュア様」その言葉に安堵が滲む。まだ呼ばれる。まだ繋がっている。
だが同時に、恐怖が形を持つ。
この紙を手放した瞬間。
自分は、なくなる。
「……離せない」
小さく呟く。
誰に向けたものでもない。
理解してしまったからこそ、もう戻れない。
シュアはゆっくりと椅子に腰を下ろし、紙を見つめる。そこにある名前は、ただの文字列ではない。輪郭であり、錨であり、最後の証明だ。
けれど、それに触れている間しか保てない。
指先が震える。
握りしめる力が強くなる。
「……呼んで」
無意識に零れる。
侍女が一瞬戸惑いながらも答える。
「シュア様」
それだけで、胸の奥が満たされる。
「もう一度」
「シュア様」
繰り返す。
何度も。
呼ばれるたびに、形が整う。
呼ばれないと、崩れる。
シュアは目を閉じる。
そして、理解する。
自分はもう、“自分だけでは存在できない”。
「……シュア」
自分で自分の名を口にする。
音にすることで、少しだけ保たれる気がした。
だが、それは薄い。
他人に呼ばれるそれとは、決定的に違う。
だから。
シュアは紙を離さない。
指を緩めない。
呼ばれることを求める。
それだけが、ここにいる証だから。
窓の外では、暗雲が変わらず空を覆っている。
時間の感覚も、朝と夜の境も曖昧なまま。
その中でただ一つ、確かなことがある。
「名前を呼ばれないと、輪郭が保てない」
その事実だけが、静かに、深く沈んでいく。
シュアは紙を抱きしめる。
まるで、それが自分そのものであるかのように。




