表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Ms,unknown  作者: 非常食
2/5

2

侍女を呼ぶベルを鳴らす前に、シュアは一度だけ自分の手を見た。白く細い指先は、震えを隠しきれていない。握りしめれば爪が食い込む痛みがある。それだけで少しだけ安心した。まだ、感覚はある。まだ、自分はここにいる。


やがて控えめなノックが二度鳴る。

「お嬢様、お目覚めでいらっしゃいますか」

聞き慣れた侍女の声に、胸の奥がわずかに軋む。シュアはいつも通りを装って返事をした。

「ええ、入ってちょうだい」

扉が開き、侍女が銀盆を手に入ってくる。湯気の立つ紅茶と、薄く焼かれたパン、果実を添えた簡素な朝食。何も変わらない朝の光景のはずだった。だが侍女はベッド脇まで来たところで、ほんの一瞬だけ眉を寄せた。すぐに整えたものの、その小さな間をシュアは見逃さない。

「……どうかして?」

問うと侍女は曖昧に首を振る。

「いいえ。ただ、少し、お顔色が優れないように見えましたので」

嘘だ、とシュアは思う。今の間は、そんな種類のものではなかった。もっと根本的な、目の前のものを認識するのに僅かに手間取った、そういう沈黙だった。


侍女がカーテンを整え、室内シューズを揃え、洗面の支度を進めていく。その一つ一つは正確で、何年も繰り返してきた習慣そのものだ。けれど、名前を呼ばない。いつもなら「シュア様」と口にする場面で、今日は一度もそれがない。

「髪を整えます」

「お召し物はこちらでよろしいでしょうか」

「本日はご気分が優れないようでしたら、後ほど医師を」

主語だけが綺麗に抜け落ちている。まるで最初から、そこに名を差し挟む必要がなかったかのように。


鏡台の前に座ると、侍女が櫛を入れる。長い黒髪が静かに流れ落ち、鏡の中の自分はいつもと同じ顔をしていた。白い肌、真紅の瞳、整いすぎて感情の滲みにくい輪郭。それなのに、何かが違う。シュアは鏡の端に映る小物へ目をやった。いつも置いてある翡翠の髪留めがない。昨日、自分で確かにそこへ置いたはずのものだ。

「髪留めは?」

侍女の手が止まる。

「髪留め、でございますか」

「ええ。翡翠の。昨日ここに置いたでしょう」

侍女は鏡越しに目を伏せた。

「申し訳ございません。そのようなお品は、私は存じ上げません」

すっと血の気が引く。叱責したいわけではない。責めたいわけでもない。ただ、その答えがあまりにも自然で、作りものに見えなかった。侍女は本当に知らないのだ。昨日まで確かに存在していたものを、まるで最初からなかったものとして受け取っている。


「……そう」

それ以上は言わない。言えば、壊れる気がした。何が壊れるのかは分からない。ただ、この国でずっと頭上を覆っていた暗雲のように、触れれば濃く広がってしまう何かがある。


身支度を終えた後、侍女が机の上へ今日の予定表を置く。毎朝同じ時刻、同じ紙質、同じ筆跡で記される一覧。シュアはそれを受け取り、視線を滑らせた。午前の読書、昼前の刺繍、午後の礼法、夕刻の音楽。いつも通りだ。だが最上段に記されるはずの名前がない。本来なら「シュア様 本日の予定」とあるはずの場所が、今日は空白のまま残されている。

「これは誰の予定かしら」

問いは自分でも驚くほど静かだった。

侍女はきょとんとした顔で答える。

「お部屋におられる方の、でございます」

お部屋におられる方。その曖昧さに、シュアは一瞬呼吸を忘れた。侍女に悪意はない。ただ、もう彼女の中で“シュア”という名前は、輪郭を保てなくなりつつある。名前を失うことが、これほど冷たいとは知らなかった。


侍女が部屋を出ると、シュアはすぐに机の引き出しを開けた。中には鍵付きの日記帳がある。銀の小さな鍵を差し込み、急くようにページを繰る。昨日の記述、その前の日、そのまた前。書いたはずの文字が、所々抜け落ちている。文章は残っているのに、自分の名だけが不自然に空いていた。

――本日、__は北の回廊を散歩した。

――母君は__に微笑まれた。

――__は夢を見た。

空白だけが白々しく広がっている。紙を指でなぞっても、削られた跡すらない。初めから書かれていなかったように、ただそこだけが空いている。


シュアは日記を閉じ、きつく抱えた。来たのだ。夢でも思い込みでもない。自分は今、世界から“固有”を剥がされ始めている。死ではない。終わりでもない。もっと曖昧で、もっと残酷な消失。記録から抜け、記憶から滑り落ち、呼ばれる名を失い、やがて「誰かいた気がする」という薄い痕跡に変わっていく。その果てにあるのが、unknown。


喉が焼けつくように乾く。もう一度水を注ごうとして、瓶に触れた手が止まる。卓上の銀盆の端に、微かな指紋が一つも残っていない。さっき自分が触れたはずのグラスにも、何も。シュアは恐る恐る自分の指先を見つめた。白く、細く、震えている。確かにそこにある。だが、触れた痕だけが世界に残らない。


ふいに廊下から、侍女たちの話し声がした。

「今朝のお部屋、もうお支度は済んだの?」

「ええ、済ませました」

「お一人で?」

「……ええ、そうですけれど」

短いやりとり。だが十分だった。シュアは椅子から立ち上がる。膝が笑う。それでも扉のそばまで歩き、音を立てないように耳を寄せる。

「最近、変ではありません?」

「何が?」

「いえ、その……あのお部屋、前から少し寒かったかしらと思って」

「暗雲が濃い日が続いておりますから」

会話はそこで途切れ、足音が遠ざかっていく。


あのお部屋。もう“誰の部屋か”すら曖昧になっている。シュアは扉にもたれ、ゆっくりと目を閉じた。恐怖は確かにある。けれどそれ以上に、奇妙な納得があった。あの胸騒ぎは、この瞬間を知っていたのだ。世界の歯車が動き出すとは、こういうことだった。誰かが死ぬとか、国が滅ぶとか、そんな派手な終わりではない。たった一人の存在が、静かに名前を失っていく。音もなく、抵抗の形すら与えられないまま。


シュアは再び鏡の前に立つ。鏡の中の少女はまだ美しい。真紅の瞳も、長い睫毛も、整えられた髪も、何一つ欠けていない。けれど美しさは証明にならない。顔が残っても、名が消えれば、それはただの像だ。誰にも呼ばれず、誰の記録にも留まらないものは、存在していても存在しないのと同じだ。


「わたくしは、誰」


掠れた声はすぐに部屋の空気へ溶けた。答える者はいない。壁も、鏡も、暗雲に覆われた窓も、何一つ。だが次の瞬間、シュアはゆっくりと息を吸う。恐怖に飲まれている時間はない。まだ声がある。まだ思考がある。まだ、自分だけは自分を知っている。ならば消える前に確かめなければならない。なぜ自分なのか。いつから始まっていたのか。そして、この国を覆う暗雲と、自分の消失がどこで繋がっているのか。


机の引き出しから、古びた封筒を取り出す。誰にも見せたことのない、母から託された一通。表には何も書かれていない。ただ封蝋だけが、見慣れない紋で閉ざされている。これを開ける時が来たのだと、シュアは直感していた。名前を呼ばれなくなる前に、自分が何者だったのかを掴まなければ、本当に世界の空白になってしまう。


震える指先で封蝋に爪をかける。

もう、始まっているのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ