第六章 土
待ちに待った休日。ではあるが、今日は朝早くから起きている。アオリと芝桜まつりに出かける約束をしているからだ。一応寝癖ぐらいは直しておくか、と洗面台へ向かうと姉がヘアアイロンを器用に髪へ通していた。
「げっ。あんたが起きてくる前に出かけようと思ったのに。休みはいつも昼まで寝てるじゃん」
「また彼氏とデートかよ」
「ほらそうやって茶化してくるう」
姉の女の姿を見るのはこちらとしても勘弁願いたい。受験生がそんな浮かれてて大丈夫か?
「ちゃんと平日勉強してるからいいんですー。今日は部活休みだし久しぶりなの」
そうかいそうかい。
……とはいえ俺も少々浮かれ気味ではあった。去年は受験だ何だで遊ぶ余裕なんてほとんど無かったし、こうしてアオリと出かけるのも久しぶりな気がする。
おめかしした姉が家を出ていった。俺も支度を済ませる。しばらくすると玄関のチャイムが鳴った。
扉を開けると、学校で見慣れた制服姿とは違うアオリが立っていた。
白いTシャツに淡い水色のカーディガンを羽織り、膝丈のスカートに白いスニーカー。髪の片側を耳に掛けているせいか、見慣れた顔のはずなのにどこか新鮮に映った。
いかにも休日らしい私服姿だが、肩から下げたショルダーバッグが小洒落て見える。
なんだかいつもより目が合わない。
「ええっと……そんじゃ、しゅっぱーつ!」
アオリはくるりと背を向け元気いっぱいに歩き出した。
休日だからか駅前はいつもより人が多かった。この人混みも、半分くらいは駅前の大型ショッピングモールへ向かう客だろう。俺たちは学校とは反対方向へ向かう電車へ乗り込んだ。
車内は思ったより空いていて、並んで座ることができた。発車を告げるベルが鳴り、ゆっくりとホームが後ろへ流れ始める。
「こっち側の路線に乗ることなんて、ほとんどないよな」
「まあね。別に用事ないし」
窓の外へ視線を向けると見慣れた駅前の景色が少しずつ遠ざかり、見慣れない住宅街が流れてくるのが見える。
「あでも、去年顔漫骸の県大会を応援しに行く時にこっちの路線乗ったわよ」
「それはアオリだけの話だろ?俺は部活のバスで向かったから」
「あ、確かにそっか」
アオリは少しだけ照れたように笑った。
電車は街を抜け、瀬戸内海沿いを通っていく。
「去年はお互いに受験勉強で忙しかったし、そもそも出かけることも少なかったからな」
何気なく言うと、アオリはこちらを向いて
「お互いにって言うけど、私がほとんど教えたんじゃない」
「あー……まあ、それもそうか」
この件に関しては全く頭が上がらない。首筋に手をやると、アオリは小さく吹き出した。
「数学なんて毎回泣きそうな顔してたもんね」
「あー、そんなこともあったな。実際泣きたかったよ」
「あはは。あの時の顔、写真撮っとけばよかったなぁ」
「やめろ。黒歴史を増やすな」
他愛もない話をしているうちに、電車は山の中に入っていた。その山を抜けると、次の街が見えてくる。
それからおよそ二十分。俺たちは目的の駅に着いた。もっとも、芝桜まつりの会場はここからさらに山の方らしい。駅前のバスへ乗り換え、揺られること三十分。住宅街はいつの間にか田んぼへ変わり、気づけば窓の外は緑ばかりになっていた。
バスを降り、少し歩いて会場へ足を踏み入れる。目の前に広がっていたのは一面の芝桜だった。
濃いピンクを中心に白や紫の花々が斜面を埋め尽くしている。色の境目は波みたいにうねりながら山肌へ広がっていて、遠目には巨大な絨毯を敷き詰めたみたいだった。
「わー!綺麗ー!」
アオリは分かりやすくテンションが上がっている。
緑の匂い。遠くから聞こえる子どもの笑い声。斜面いっぱいに広がる芝桜の上を春の風がゆっくり撫でていく。
人は多いはずなのに不思議と騒がしさは薄かった。山の上だからだろうか。聞こえる声も風に流されてどこか遠く感じる。
少し前を歩くアオリのカーディガンが風に揺れた。
「顔漫骸ー! はやくー!」
こちらを向いて手を振っている。
春の日差しが強すぎて、目の前の景色は少し露出を上げすぎた写真みたいに見えた。
会場にはキッチンカーもあった。焼き芋を売っているらしい。歩き回って腹が減った俺たちはその列に並んだ。
ん?この白衣姿、見覚えが……。
「あれ?はんぺんさんじゃないですか」
「え?剣道くん?」
俺たちの一つ前に、偶然にもはんぺんが並んでいた。
「この前化学室にいた人?」
アオリが少し小さい声で俺に尋ねてくる。
「そう。科学部の、」
「私が科学部部長のはんぺんです!」
はんぺんは腰に手を当て胸を張った。
「……」
空虚な沈黙が流れる。
どのくらいの月日が流れただろうか。アオリがその沈黙を破った。
「……三年生、ってことですか?」
「いや、二年生だ。うちの部は私一人しかいなくてね」
「はあ。なるほど」
はんぺんは次に俺たち二人を交互に見て、
「で?君たちはどういう関係?彼氏彼女?」
「違います違います!」
「ただの幼馴染ですよ!」
二人して必死に否定する。それを見てはんぺんは笑った。
「なーんだ。良かった、私がお邪魔になるかと思って」
そうして、はんぺんにアオリのことを紹介していると列の先頭になった。
「剣道くん。私の分も買っておいてよ」
そう言うとはんぺんはこちらの返事を聞こうともしないで列を抜けていった。はあ?ふざけんな。
渋々キッチンカーの店員に指を三本立てて見せ、焼き芋を受け取った俺たちは座れそうな場所を探した。
と思ったが空いている席がどこにもない。子連れの家族や体を動かしに来ている老夫婦で席は溢れかえっている。アオリはというと隣でもう焼き芋に食らいついているし。
「剣道くーん。こっちこっち」
声のした方向を見るとはんぺんが手を振っている。言われるがままその場所に行くと、いい感じの木陰に座れそうな石垣が積み重なっていた。
なるほど。ここなら周りに人もいなくて良さそうだ。俺たちは腰を下ろし、二個持っていた焼き芋の片方をはんぺんに手渡した。
「ありがとう」
はんぺんはそう言って焼き芋を受け取ると、まだ口はつけずに俺たちを見た。
「ところで君たちはさ、芝桜まつりには来たことがあるのかい?」
俺は頷く。
「ありますよ。なあアオリ、小学生の時だったよな」
「うん。親に連れてきてもらって」
アオリは手元の焼き芋から目を離さずに答えた。俺はそんな横顔を見ながら笑う。
「あの時お前迷子になってなかったっけ」
「ちょっ、違うもん!みんながいきなりいなくなっちゃったんだもん」
「お前が勝手に走ってったんだろ」
「だから違うって」
はんぺんは焼き芋を齧りながら笑う。
「幼馴染ってやつだねえ」
「あとさ、あの時……」
アオリがふっと止まる。見ると、アオリは焼き芋を持ったまま動かなくなっていた。
「……雪降ってたっけ」
「は?」
「ほら、迷子になったとき」
「いや降ってないだろ。春だぞ」
「あれ……?」
アオリが小さく首を傾げる。何かを思い出そうとするみたいに眉をひそめた。
「あの時、迷子になって……」
「うん」
「監督に怒られた……」
「監督?何言ってんだお前」
アオリの視線が俺を通り越して、どこか遠くを見ていた。
「合宿で……雪降ってて……迷子になったから」
合宿?さっきから何を言っているんだ。
はんぺんの顔から笑みが消える。
「剣道くん。アオリちゃんの様子が変だ」
言われなくても分かる。
「違う……。」
アオリの手から焼き芋がこぼれ落ちる。そのまま地面に落下した。
「違う違う違う」
アオリが自分の頭を押さえる。
「頭が、痛い」
「アオリ!」
「うるさい」
小さかった声が一気に跳ね上がる。
「うるさいうるさいうるさい!」
はんぺんが立ち上がった。
「一度横にさせよう。手伝ってくれ」
流石に様子がおかしい。
俺も慌てて立ち上がる。アオリの背中に手を回そうと体を横に向けたその瞬間、後頭部に硬い衝撃が走った。
視界がぐらりと揺れる。
最後に見えたのは、風に揺れる白衣の白と芝桜の濃いピンク色だった。




