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第五章 金

 今日、アオリは迎えに来なかった。届いたメールによると体調が優れないらしい。一人で家を出る。いつも二人で歩いている登校ルートが今日はやけに長く感じた。

 鯖川(さばがわ)が朝日を反射して無数のダイヤモンドが水面(みなも)に浮かんでいるみたいに白くキラキラと輝いている。川沿いを吹く風はまだ少し冷たい。

 今日は部活動体験期間の最後の日だ。科学部の入部届けをどうしようかと考えつつ、そもそも部活動自体に入る気がなかった俺をここまで悩ませている時点で答えは半分出ているのかもしれない、とも思う。

 そんなことを考えながら一人とぼとぼと歩いていると校門の前に着いた。学校の周りに植えられた桜はもうすでに散りきっていて、代わりに青々と茂った葉がちょうどいい木陰をつくっている。


 今日も今日とて退屈な授業を受ける。こんな時はいつもアオリの背中をボーッと眺めてその退屈さを少しでも紛らわせていたものだが、今日はそのスペースだけがぽっかりと空いている。

 鞄の中でクシャクシャになった入部届けを取り出した。提出期限は来週月曜日の朝のホームルームまで、か。まだ今日中に結論を急がなくていいということだ。……こういうところでいつも俺の先延ばし癖が顔を覗かせる。まあ今日はアオリも休みみたいだし、また放課後科学部に遊びに行ってみるか。少なくとも、俺の頭の中で最終決断会議を開催するのはその後でいい。


 そんなこんなで午前中は過ぎていき、本日五十回目の欠伸(あくび)をしたところで昼休みになった。


 周りの喧騒の中で一人弁当をつつくのも少々気が引ける、というわけでもないのだが、いつものように中村(なかむら)と机を合わせながら昼飯を食べていると、これまたいつものように中村が話し始めた。

「なあ顔漫骸(かおまんがい)、面白い話があるんだよ。この間雑誌で読んだんだけどさ、」

 またこいつの大好きなオカルト雑誌の話か。宇宙だとか古代文明だとかUMAだとかが大好きなようで、陰謀論とまではいかないような非科学的な話を聞き流しながら弁当にありつくのが日課になっていた。

「お前も聞いたことがあるような過去の先人たちはそりゃみんな偉いだろうしツタンカーメンだの聖徳太子だのが凄いことをしたなんてことは教科書を読めばすぐに分かることなんだが、」

 おっ、今日のハンバーグにはチーズが入っている。

「残念ながらそいつらのしたことは歴史書のなかに文字として書いてあるだけだ。本人が見た記憶だったり感じた五感なんかはデータとして全くもって残せないだろう?俺たちだってそうさ」

 何を当たり前なことをツラツラと。

「でもな、今後そういった記憶や感覚その他諸々を脳みそから取り出してデータとして残せるかもしれないらしい」

 ほう。

 つい興味を惹かれて中村と目が合ってしまった。そんな俺を見て中村は得意げに指を鳴らす。

「しかも、死んですぐの遺体からもだ」

 ……箸が止まった。断じて驚いたからではない。遺体の脳を(いじ)っている映像を思い浮かべてしまって食欲が少し失せたからだ。

「雑誌によるとな、それを活用すればもしかしたら……」

 その時、それまで雄弁に話していた中村の話は教室のドアが開かれる音でストップした。

 クラスメイトの視線が集まったその先には、なんとアオリが立っていた。

 それを見たもちが声を上げる。

「あれー?アオリン体調良くなったのー?」

「うん。もう大丈夫」

 アオリはもちに向かって白い歯を見せた。扉を閉めて自分の席へ向かい椅子に腰掛ける。

 俺は箸を置いて昼飯は一時中断。立ち上がってアオリの席へと歩いた。

「アオリ、本当にもう体調は大丈夫なのか?」

「だから大丈夫だって」

 黒髪をハラリと払い、グレーの瞳で俺を見上げる。

「……今はもう大丈夫なんだけど、今朝すっごい頭が痛くて。割れるかと思った」

「病院行った方がいいんじゃないか?」

「いやー、ほんと急に治ったの。今はもう全然平気」

「それならいいけど……」

 本人がそう言うならこれ以上の心配は無用か。

 そうして俺が席に戻るやいなや中村は先程の話を再開した。




 今週の授業が全て終了したところで、俺は再びアオリの席へ向かった。彼女は鞄の中に教科書類を詰め込んでいる。

「なあアオリ。今日は体験入部休むか?」

「え?なんで?今日も回るわよ」

 アオリは首を傾げた。

 マジで言ってるのか?一応病み上がりだぞ?

「だってまだ見たいところあるしね」

「なら心配だしついてくよ。どこ見たいんだ?」

 アオリは笑い声を一つ。

「そのうち分かるわよ」


 アオリは教室棟を出て真っ直ぐ南へ進む。後ろをついていくと、そこには武道場があった。入口には『剣道部』と書かれた札が掛かっている。……マジか。

「顔漫骸のことずっと見てたから大変なのは知ってるけど、一回体験してみるのもアリかなと思って」

 今までの調子を見ていればいつかこの時が来るんじゃないかと薄々予期はしていた。アオリが剣道部に興味を持つのも時間の問題だったわけだ。

「別にお前を見くびってるわけじゃないが剣道は精神を鍛えるスポーツだ。アオリが思ってるよりも忍耐的側面が、」

「やってみなきゃ分からないじゃない!」

 アオリは俺の言葉を遮り武道場の扉を開いた。

 好奇心旺盛なのは結構なことだが少しは人の話も聞いて欲しい。

 俺も慌てて武道場の扉をくぐった。

 嗅ぎ慣れた匂いが鼻腔を刺激する。道着に染み付いた汗が乾いた、あの特有の匂いだ。

 床を踏む足音。竹刀(しない)同士のぶつかる音。面越しに飛ぶ掛け声。全部聞き慣れた音だった。

「顔漫骸も体験する?」

「いや、俺はいいよ」

「んー。そっか」

 剣道部では体験入部の生徒たちに竹刀の貸し出しを行っていた。初心者向けに素振りの体験をさせているらしい。

 アオリも例に漏れず竹刀を受け取る。他の生徒たちと一列に並び素振りを始めた。

 それはもう初心者さながらの姿である。竹刀の握り方は怪しいし、送り足もぎこちない。

 まあ、そりゃそうだ。剣道はそんなに甘くない。

 しかし、一本。さらにもう一本。

 アオリの左足の(かかと)が床すれすれでぴたりと止まった。浮いていた重心が一瞬で収まり、振り下ろされた竹刀の軌道が真っ直ぐ落ちてくる。さっきまでぎこちなかった動きが綺麗に噛み合った。

「……え?」

 何だ今の洗練された動きは。そんなはずはない。こういうものは何千回、何万回とやって身につくものだ。一朝一夕(いっちょういっせき)では絶対無理だと身をもって知っている。

 しかし、目の前の光景はそれを裏切っていた。

 お世辞にもアオリは体幹が強いわけでは無い。そのせいで完璧な素振りとは言えない。

 それでもずっと剣道をしていた俺にとって、その異様さは目を見張るものがあった。

 振る度に無駄が消えていく。

 剣道部の顧問は口をつぐんでアオリを注視していた。それに気づいた周りも騒ぎ始める。

 アオリは素振りを続けながら照れくさそうに笑った。

 またこれだ。なんで。なんでこんなに面白くない。

 その場から動けない。素振りを続けるアオリをずっと見続けている。そのうち自分なんてすぐに追い抜かれてしまいそうだ。アオリが竹刀を振る度に、自分の積み上げてきたものがどんどん削られていく気がする。

 あのしなやかな鎖骨の動き。無駄のない肋骨の連動。


 この感覚を知っている。

 決勝戦の時と同じだ。


 相対した九州の中学のやつは極端に落ち着いた表情を見せていた。

 試合開始の合図とともに竹刀を突き合わせた俺はすぐに悟った。こいつには敵わないかもしれない。これまで血の滲むような努力を俺だってしてきたはずだ。その自負があった。

 しかしそいつはそれを凌駕していた。全ての動きが繊細で、かつ鋭利だった。

 面が飛んでくる。予備動作らしきものは全く見えなかった。肉体が反射的に受け流しの体勢を取る。

 相手の気合と同時に鈍い音が響いた。身体中にその衝撃が伝わる。何が起きたか一瞬分からなかった。

 審判員三名が相手側の旗を上方四十五度へ掲げる。一本取られた。

 大丈夫。まだ試合時間はある。

 呼吸を整え立ち位置に戻り竹刀を構え直す。

 ……なんだ?相手の圧がいきなり消えた。鍔迫(つばぜ)()いの瞬間、面の隙間から見えたのは歪んだ苦悶の表情。そこからの相手はただ俺の攻撃を必死に防ぐだけだった。

 そのまま試合終了の合図がなった。負けるべくして負けた試合だった。

 しかし、不思議なのは相手が途中から防戦一方になったこと、というより、攻める気配が全くなくなったことだ。

 これは後で知ったことだが、最初の面の接触の時、俺の受け方が悪く相手のあばらにヒビが入っていたのだ。それが原因で奴は剣道を辞めた。

 その知らせを聞いた時、俺が奴を選手として殺してしまったという罪悪感に苛まれた。圧倒的な才能と努力の結晶を、この俺が……。


 武道場の奥から騒がしい足音が近づいてきてハッと顔を上げた。

「顔漫骸!」

 自慢げな顔をしたアオリが竹刀を肩に担いだまま駆け寄ってくる。額には汗が滲んでいた。

「見た!? 私結構よくなかった!?」

 無邪気な声だった。その顔を見た瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。

「ああ。すごかったよ」

「でしょ!」

 アオリは満足そうに笑う。

 ……違う。すごかった、なんて言葉で済ませられるもんじゃない。初心者が数分であそこまで形になるわけがない。

 才能。

 嫌いな言葉だ。でも今、目の前にあるものをそれ以外で説明できなかった。

「……顔漫骸?」

 気づけば、アオリが俺の顔を覗き込んでいた。

「なんか変。具合悪い?」

 いや、違う。具合が悪いわけじゃない。

「外の空気吸いに行こっか」

 心配したアオリが俺の袖を軽く引っ張って武道場の外へ連れ出した。

「ごめん、無理やり剣道部連れてきちゃって。嫌だった?」

「いや、そういうわけじゃない」

 アオリは困った顔をして頭を搔いている。

「うーん。そうだ、一緒に科学部行こっか。最近顔漫骸よく行ってるでしょ?私もどういう部活か気になるし」

「え、ああ。科学部か。まあ、なら行ってみるか」

 アオリの気遣いが逆に心を抉る。完全にこれは俺の問題なのに。

 アオリの顔も見れず、会話もろくに出来ないまま化学室の前に着いた。中から物音は聞こえない。

 扉を開けて中を見回しても誰もいなかった。その代わり、黒板に白いチョークでなにか書いてある。

『気になることがあるため本日外出中 科学部部長』

 ということは、今日は誰も化学室にいないということだ。

「あれ?今日は誰もいないの?」

 中の様子と黒板の文字にアオリも気づいたらしい。

「なあアオリ、今日はもう帰らないか」

 なんだか色々疲れてしまった。一週間の疲れが溜まっているのもあるだろう。空っぽの化学室を眺めていたら、それらが全て押し寄せてきた。

「まあ、それでもいいか。私もまた頭痛くなったら嫌だし」

 二人は通学鞄を引っ提げて家までの道を辿った。いつもよりも静かな下校だった。




 自室の明かりを消し、ベッドへ身を投げ出す。暗闇に目が慣れてくると、ぼんやりと天井の輪郭だけが浮かび上がった。

 今週は本当に色々なことがあった。

 金属バットに硬式ボールが当たる乾いた音が脳裏に蘇る。

 アオリがあんな風にバットを振る姿なんて、これまで一度も想像したことがなかった。白球が青空へ吸い込まれていくのを見上げていた横顔は、いつものアオリとはどこか違って見えた。素振りの時だってそうだ。

 しかし考えてみれば、あいつは昔から運動そのものを嫌っていたわけじゃない。小さい頃は日が暮れるまで一緒に近所を走り回っていたし、鬼ごっこになれば誰よりも本気だった。ただ決して得意というわけではなかった。

 はんぺんがこの間語っていたことが、頭の奥で静かに反響する。

 経験、才能……。

 これまで眠っていた才能が何かのきっかけで目を覚ましただけなのだろうか。

 答えの出ない考えを巡らせても天井は何も語ってはくれない。

 寝返りを打ってから布団を肩まで引き上げる。明日も朝から予定がある。今夜くらいは余計なことを考えるのはやめて早く眠ろう。

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