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第七章 日

 眩しい。目を閉じているのに白い光が(まぶた)を貫通してくる。

 何も音は聞こえない。薄く目を開けてみると照明が俺を照らしているのが見えた。

 どうやら俺は横になっているようだ。背中に当たる感触は固く冷たい。

「っ……!」

 上体を起こそうとして頭に鋭い痛みが走った。反射的に後頭部を押さえようとして、腕が動かせないことに気づく。

 腕の方に視線を落とすとベルトで固定されているのが見えた。その奥に見える足首もベルトで固定されている。

 なんだこれは。どういう状態だ。

 何故俺はここに縛られている?

 ああくそ、頭が痛い。……そうだ、思い出した。俺は後ろから誰かに殴られたんだ。そういえばアオリは?

 首を回して辺りを見渡す。

 俺以外にこの部屋には誰もいない。その代わりに実験器具や手術器具らしきものがズラリと並んでいる。コンクリート剥き出しの壁に囲まれた何とも薄気味悪い部屋だ。

 くそっ、ここから抜け出してアオリを探さなければ。しかしどうすればいい。

 俺は固定された状態で体を振り回す。すると俺の体が動いた、というより俺を乗せている手術台のようなものが動いた。キャスターが床を転がる音がする。

 左右に体を振る。手術台が壁に取り付けられた棚へ向かって滑っていく。思い切り体重をかけてそのまま激突した。メスなどの器具がやかましい音を立てて床に落ちる。

 その衝撃で手術台が傾き、左手首のベルトが少し緩んだ。

 手首を捻るとベルトが皮膚に食い込む。大分痛いが構ってられない。悲鳴を上げる手をお構い無しに何度も捻る。ベルトがさらにズレて指先が外に出た。

 そこから他のベルトを外すのは容易かった。自由を取り戻した左手を使いベルトの横のボタンを押すと難なく外れたからだ。

 未だ治まらない頭痛に耐えながら手術台を降りて立ち上がった。この部屋の出入口は鉄扉(てっぴ)一つだけのように見える。俺はそこを開けて外に出た。

 錆びた鉄の匂いとじめついた空気が俺にまとわりつく。何も見えない。先程の明るすぎる部屋と違ってかなり暗い。足元や壁には露出した配管が蜘蛛の巣のように這っている。慎重に進んだ方が良さそうだ。

 そういえば、全くもって時間感覚がない。起きてからというもの、一度も時計を見ていない。そうだ、携帯。……くそっ、ポケットには何も入っていない。俺をここに連れてきたであろうやつに全て回収されたのか。

 大分目が慣れてきた。朧気ながら少し先も見える。ただ、流石に怖くなってきた。昔行った遊園地のお化け屋敷なぞ何が怖いのか全く理解できなかったがその比ではない。

 コツ、コツ、コツ……。

 俺以外に誰かいる!

 曲がり角の向こうから足音が近づいてくる。恐怖で足が固まって動かない。

 足音はさらに近づいてくる。無意識のうちに俺は身構えた。曲がり角から現れたのは黒い人影。そいつから声が聞こえた。

「そこに誰かいるのかい?」

 それは聞き覚えのある声だった。

「え?はんぺんさん?」

「その声は剣道くんか!」

 恐る恐る近づいてみると、人影の正体は白衣を着て赤縁の眼鏡をかけた、紛れもないはんぺんだった。

「良かった、死んでなかったのか」

 はんぺんは胸を撫で下ろす。

「勝手に殺さないでください」

「生きてた褒美にこれをやろう。飲め」

 はんぺんは小さくて丸い粒を手渡してきた。

「これ、なんですか」

「痛み止めだよ。偏頭痛持ちだからいつも持ち歩いてるんだ」

 なるほど、ありがたい。彼女も目を覚ました時には頭痛に悩まされたのだろう。

「さてと、アオリちゃんを探さないとね」

「はい」

 さっきまでの怖かった気持ちはどこへやら。はんぺんはこんな状況でも何故か余裕があるような感じでそれがとても頼もしく見えた。


 俺たちが出会ったのは丁字路で、俺とはんぺんが歩いて来た方向とは違う方向へ進む。その突き当たりには一枚の鉄扉が重々しく佇んでいた。

「開けるよ」

 はんぺんはノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開く。ギィ、と不快な音が響いた。

 中は豆電球の灯りに照らされて明るかった。しばらく暗いところにいたからそう思うだけで普段なら薄暗く感じるかもしれない。

 部屋の中を見渡す。その時、机の上のものに気づいて息を呑んだ。

 そこにあったのは水色のカーディガンだったからだ。確かアオリが着ていたものだ。

「剣道くん、あっち」

 そう言ってはんぺんが指差した方向には、さらに奥へ繋がっていそうな通路が続いている。

 俺は考えるよりも先に走り出していた。配線だらけの通路を抜ける。突き当たりには違和感を覚えるほど新しい扉があった。

 その扉には鉄格子の窓がついており、俺はそこから中を覗いた。

 中は存外とても明るかった。

 天井の真ん中に吊るされた照明で、部屋全体が白く照らされている。

 その照明の真下には手術台があり、そこには眠ったアオリが横たわっていた。

「アオッ——」

 反射的に声を上げかけた俺の口を、後ろから来たはんぺんが手で塞いだ。

「待て。その横を見ろ」

 一呼吸置いて視線を動かす。アオリに気を取られて気づかなかったが、その横には白衣を着た男が立っていた。白髪混じりの髪の毛から大分歳を取っていそうに見える。

「多分私たち三人をこの場所に連れてきたのはあいつだ」

 その男は何か器具のようなものを持っている。今にもそれを無抵抗なアオリに……。

「ちょっと待て!」

 俺ははんぺんの腕を振り払い、勢いよく扉を押し開けた。

 部屋の中にいた白衣の男が驚いたように顔を上げる。手にしていた器具が止まり、その目がゆっくりとこちらへ向いた。

「……もう目を覚ましたのか?」

 男は信じられないものを見るような顔をしている。

「まだしばらく眠っているはずだったんだが」

 はんぺんも俺に続いて部屋に入り一言。

「まあ、日頃飲んでいる科学部特製ブレンドのおかげかな」

「え?」

 はんぺんの言ったそれは冗談なのか本気なのか判断がつかなった。

 男はその言葉には興味を示さず、眠るアオリへ視線を戻した。

「ふん。まあいい。お前たちが起きようと予定は変わらん」

 男はアオリの肩へ手を添える。

「それ以上近づけば、この子がどうなっても知らんぞ」

「……っ!」

 足が止まる。

「アオリに何をするつもりだ」

 目的がまるで分からない。

 男は口元を歪め面白そうに笑った。

「説明してやっても構わんよ。むしろ君には是非聞いてもらいたいくらいだ」

 そう言って入口近くの椅子を指差す。

 普通の椅子ではない。周りにはよく分からない機械が付いており、背もたれからは何本ものケーブルが伸びている。

「座りたまえ。立ち話というのも疲れるだろう」

「誰がお前なんかの言うことを――」

「この子がどうなっても構わないなら、それでもいいがね」

「剣道くん」

 隣ではんぺんが小さく首を振る。

「今は一度話を聞こう」

 納得なんてできるはずもない。それでもアオリを危険に晒すわけにはいかなかった。

 俺が椅子へ座るのを見た男は満足そうに頷いた。

「そう。それでいい」

 器具を近くのキャスター付きワゴンへ置き、ゆっくりとこちらへ向き直る。

「まず最初に言っておこう。君には感謝しているんだよ」

「……は?」

彦一(ひこいち)、という名前には聞き覚えがあるだろう?」

 その名前を聞いた瞬間、記憶の奥に封じ込めていたトラウマが無理やり引きずり出された。呼吸が喉の奥で止まり、頭の中から酸素が抜け落ちていく。

 忘れるはずがない。去年の全国中学校剣道大会決勝戦。俺が敗れた相手だ。

 何故こいつがその名前を……。

「わしは元々九州の病院で外科医をしていてね。去年、彦一くんが入院してきた時の担当医だった」

 男は昔話でもするかのような口調で続ける。

「剣道の試合で肋骨にヒビが入った程度の怪我だったが、わしは心の底から幸運だと思ったよ。優秀な運動選手が、目の前へ勝手に運ばれてきたんだからな」

「……何の話だ」

「実験台だよ」

 男はこともなげに言い放つ。

「わしは長年研究していた。脳に蓄積された経験――つまり記憶を取り出し、別の人間へ移植する技術をね」

 記憶の移植。

 その言葉を聞いた瞬間、先日聞いた中村(なかむら)の話が頭をよぎった。

 最悪の妄想が頭を駆け巡る。

「普通の人間では成功していた。あとは秀でた運動神経を持った人間で実行に移すだけだった。そして彦一くんは、その第一号になってくれた」

 男は誇らしげに胸を張る。

「結果は大成功だ。優秀な剣道選手として積み重ねてきた経験を、データとして取り出すことができた」

 ひとしきり楽しそうに笑ったあと、男は声のトーンを一つ落とした。

「まあ、残念なことに取り出された本人には何も残らないがね。案の定、彦一くんは剣道をやめた」

 全身から血の気が引いていく。

「あいつは……彦一は怪我が原因でやめたんじゃなかったのか……?」

 俺の声は無意識のうちに震えていた。

 男は俺の目を真っ直ぐ見据える。

「何を言っている。全国優勝するような選手が、肋骨にヒビが入ったくらいで競技人生を終えるものか。そんなわけがない」

 俺は立ち上がっていた。

「お前……!」

 絶望が胸中を支配する。今まで積もらせてきた後悔や自責の念全てが、目の前の男に怒りとして向けられていた。

「お前が、彦一から全部奪ったのか!」

 今にも殴りかかろうとした、その瞬間だった。

「動くな」

 男の低い声が響く。その手元には鋭利な器具が握られていた。

「それ以上近づけばこの子がどうなるか分かっているよな?」

 唇を噛み締める。握りしめた拳は手の平に爪が食い込んでいた。

「剣道くん」

 はんぺんが静かに肩へ手を置く。

「今は耐えよう。今ここで感情に任せても、アオリちゃんは助けられない」

 悔しい。悔しくてたまらない。それでも俺は、拳を握りしめたままもう一度椅子へ腰を下ろした。

「早くアオリの話をしろ」

 低く絞り出すように言う。

「どうして俺たちをここへ連れてきた」

「そう焦るな。ちゃんと順番に話してやる」

 そう言ってアオリの方へ歩み寄る。眠ったままのアオリの額へ、そっと手を置いた。

「この子は器だ」

「……器?」

「そう。わしが集めた運動経験の記憶を保存し、受け入れるための器だよ」

 俺は黙って男を睨みつける。

「ここ最近、違和感はなかったか?」

 違和感。思い当たることはいくらでもある。

 運動音痴だったアオリ。それが突然、野球部でホームランを打ち、卓球では見違えるようなラリーを続け、剣道では見たこともない構えを見せた。

 あれは才能なんかじゃ説明がつかなかった。

 男は俺の表情を見て笑った。

「どうやら心当たりはあるようだな」

 俺は何も答えられない。話を聞いているうちに薄々気づいていた。呼吸がどんどん浅くなっていくのを感じる。

「人間の脳というのは実に面白い。記憶は積み重ねられる。ならば、他人の積み重ねも上乗せできるはずだろう?」

「ふざけるな」

 思わず声が漏れる。

「アオリを実験台扱いするな」

「実験台?違うな。彼女はわしの理想だよ」

 その言葉が狭い部屋に気味悪く響いた。

「この子には野球、剣道、卓球、柔道、陸上……様々な競技経験を少しずつ移植している。まだ途中段階で記憶の混線を引き起こすこともあるが、比較的順調だ。あともう少しで完成する」

 やはりそうだった。あの日のホームランも。剣道部で見せたあの異様な動きも。全部。全部こいつのせいだった。

「本当は君の経験が欲しかった。だからわしは君を陰ながら観察していたんだ。そんな時、器にふさわしい存在が横にいることに気づいた。なんと、全ての運動部を余すことなく体験していくではないか!運動経験は実際に体を動かすことで定着率が上がる。だからわしはこの子を選んだんだ。この子が突然消えた時があっただろう?」

 言われてみればそうだった。いつも一緒に帰っているアオリが突然いなくなった日があった。あの時に誘拐され、実験台になっていたというのか。

「そんな……」

 思わず漏れた声は自分でも驚くほど弱々しかった。

「で、はんぺん」

 男がゆっくり視線を移した。

「お前をここへ呼んだ理由も話しておこう」

 はんぺんの肩が僅かに震えた。

「理由なんて一つしかない。わしの孫だからだ」

「……え?」

 思わずはんぺんを見る。彼女は何も言わない。俯いたまま、眼鏡の奥の目を伏せていた。

「すまない」

 やがて小さな声が聞こえた。

「私は最近まで祖父が生きていることすら知らなかった」

 苦しそうに言葉を続ける。

「祖父がこんなことをしているなんて、知ったのは本当につい最近だった。だからこの間、部室を空けてまで調べていたんだ」

 はんぺんはゆっくり顔を上げる。

「君たちを巻き込みたくなかった。でも間に合わなかった」

 その声には後悔が滲んでいた。

「アオリちゃんまで利用されているなんて、本当に知らなかった」

 男は鼻で笑う。

「相変わらず甘い子だ」

 その言葉にはんぺんは何も返さなかった。ただ体が小刻みに震えていた。

 男は今度は俺へ向き直る。

「さて、本題だ」

 その目が獲物を見るように細くなる。

「君をここへ連れてきた理由だが――」

 一歩こちらへ近づく。

「君は全国二位の剣士だ。しかも負けた相手は、わしが最初に記憶を取り出した被験者」

 彦一。その名前を思い出すだけで胸が締め付けられる。

「勝者の経験と、敗者の経験」

 男は両手を広げた。

「この二つが混ざり合えば、一体どんな剣士が生まれる?」

 背筋が寒くなる。男は本気だ。

「だから試してみよう」

 そう言って男は近くの操作盤へ手を伸ばした。カチリ、と小さな音が鳴る。

 次の瞬間。ガシャン、と金属音が鳴り椅子の肘掛けから固定具が飛び出した。

「なっ――!」

 全身が拘束され、一瞬で身動きが取れなくなった。

「剣道くん!」

 はんぺんが駆け寄ろうとする。

 しかし、男が片手を上げるだけでその足は止まった。

「動くな」

 男はアオリを指差す。

「次に動けば、この子から実験を始める」

 俺の頭上で機械音が響き始めた。ゆっくりと、何本ものケーブルが繋がったヘルメットが降りてくる。

「なんだ、これは……!」

「電脳空間で記憶データを取り込んだマネモンと戦うための装置だ」

 男は愉快そうに笑った。

「わしはその空間を神の領域(ゴッド・フィールド)と呼んでいる」

 ヘルメットが頭を覆い視界が闇に閉ざされた。

「さあ見せてくれ」

 男の声だけが耳元で響いた。

「敗北を知る君と、勝利だけを積み重ねた彼。その化学反応を」

 耳鳴りがした。

 視界が白く染まり、意識がゆっくりと沈んでいく。






 暗い。上も左右も全てが暗く黒い。グリッド状の床のタイルのみが青白く光っており、どこにも切れ目のない平面的な空間が無限に広がっている。

 いきなりこんな場所に放り込まれたにしては、俺はひどく落ち着いていた。音も匂いも風もない。五感を刺激するものが少ないからだろうか。

 深呼吸を一つ。目の前を見ると人型の何かが竹刀(しない)を握って立っていた。背格好は俺とほとんど変わらない。ただ、全身が灰色で顔のパーツや髪の毛などは何一つ付いていない。あのジジイは確かマネモンと言っていた気がする。

 いつの間にか俺の手にも竹刀が握られていた。試しに一度素振りをしてみる。その重さも筋肉の動きも、至極慣れ親しんだものだ。電脳空間とはいえ違和感はない。夢の中でも痛みや重さを感じることがある。それと似たようなものなのかもしれない。

 竹刀を握り直す。少なくともこの感触だけは本物と変わらない。

 よくよく床を見ると、赤く光る横線が二本引かれていることに気づいた。なるほど。これが開始線というわけか。

 赤い線の手前三歩の位置に移動する。そうするとマネモンも反対側の同じ位置に立った。お互いに礼をする。

 人でないくせに礼儀作法はしっかりしているのが気味が悪い。

 三歩進んで開始線に立ち、そのまま蹲踞(すんきょ)の姿勢を取る。その時、脳内に「始め」という言葉が流れ込んできた。

 反射的に立ち上がり竹刀を正眼に構える。相手も寸分違わぬ構えを取った。

 互いに間合いを詰める。切っ先が触れそうで触れない距離まで近づくと、空間を支配していた静寂がいっそう濃く感じた。聞こえるのはすり足の音と自分の鼓動だけだ。

 一転、竹刀がぶつかり合い甲高い音が静寂を裂いた。

 一歩踏み込む。相手は半歩外す。追えば受け流され、引けば間合いを保ったまま追ってくる。ほんの数秒の攻防だったはずなのに、何分も斬り結んだような疲労だけが胸に残った。

 この繊細で鋭利な動きを俺は知っている。目の前の相手は明らかに彦一そのものだ。

 竹刀で中心を押さえられた瞬間、反射的に押し返す。押し返した力を利用するように相手が竹刀を外し、そのまま鋭く踏み込んでくる。慌てて受け止めると、今度は逆方向から竹刀が走った。

 速い。ただ、それだけではない。

 こちらが攻めようとするたび相手はその一歩先を塞いでくる。打てると思った瞬間には既に機先を制され、少しでも無理に踏み込めば返し技が飛んでくる予感だけが脳裏を支配した。

 目など付いていないはずのマネモンの顔に、彦一の鋭い眼光を感じる。

 あの時もこうだった。去年の決勝戦で味わった「勝てない」という絶望感が嫌というほど蘇る。しかし、この空間で負けることは敗北以上の何かを意味している気がする。絶対に勝たなければダメだ。俺の直感がそう告げている。

 コンマ一秒感覚で訪れる攻防の応酬の中で、崩す手段に思考を巡らす。

 一度敗北を喫した相手に勝つ方法……。しかし何故だ?妙な違和感がある。同じ剣を相手にしているはずなのに、あの時ほどの圧迫感がない。何かが違う。

 考える間もなく相手の竹刀が迫り、俺は体勢を崩しながらも辛うじて受け流した。そのままの勢いで半歩後ろへ退き、呼吸を整える。

 ついさっき打ち合った時の違和感を思い出す。相手の反応速度は研ぎ澄まされていた。そこに一切の迷いはないように見える。

 その時、思考に気を取られて俺の剣先が僅かに下がった。それに即座に反応した相手は竹刀を持ち上げ中心を取り返そうとする。

 その動きを見てハッとした。

 そうか、危うく勘違いするところだった。目の前の相手は彦一ではない。この灰色の剣士はただのコピーだ。

 彦一本人と剣を交えていた時は常に先を読まれているような息苦しさがあった。こちらが攻めた瞬間、それを見越したように返してくる。竹刀を交えているだけなのに、彦一は俺の心まで見透かしているようだった。

 だが、こいつからはそれを感じない。

 マネモンとやらに入っているのは経験という名のデータだけだ。押し引きの判断も、間合いも、踏み込みも、全て過去の経験から導き出された最適解に過ぎない。

 そこに相手の表情を読み、迷いを誘い、心を揺さぶるような駆け引きは存在しない。

 ならば恐れる必要はない。相手が選ぶ手は限られる。人間よりずっと読みやすい。


 俺は攻めることをやめ、しばらく相手の反応だけを見続けた。

 竹刀を押せば押し返す。引けば一定の距離まで追う。踏み込む素振りを見せれば、必ず同じ角度で中心を制しにくる。

 何度繰り返しても、その順番は変わらなかった。まるで教本を丁寧になぞっているような剣だった。

 こいつは確かに強い。だが、その強さは完成され過ぎている。完成されているからこそ、崩れない代わりに変化もしない。

 先程と同じ攻めを見せると相手は予想通り竹刀を中心へ戻した。

 その一瞬竹刀が止まる。ほんの刹那、俺は迷わず床を蹴った。

 気勢とともに身体を踏み込みへ乗せ、真っ直ぐ竹刀を振り抜く。視界の端で灰色の身体が揺れた。

『一本』

 無機質な声が脳内へ響いた。

 残心を崩さず、ゆっくりと相手へ向き直る。

 試合はまだ終わっていない。

 もう一度竹刀を交え、同じ癖を確認する。結果は変わらない。次に相手が選ぶ動きはもう読める。

 俺はわずかに体を開き誘うように間を空けると、相手は経験則通りその隙を詰めようとした。

 閃光の如く、逆胴を鋭く振り抜く。

『一本』

 二本目を告げる声が響くと同時に、灰色の剣士は糸の切れた人形のように動きを止めた。

 俺は残心を保ったまま静かに息を吐く。

 本物の彦一ならば、この二本目はきっと通らなかっただろう。勝った相手は彦一ではなく、あくまで彦一を模倣した偽物だ。

 その時、世界が揺れた。

「——やり直しだ」

 脳内にあの男の声が響く。視界が一瞬だけ白く弾け、次に目を開けた時には、俺は再び開始線の前に立っていた。

 目の前には先程と何一つ変わらないマネモンが蹲踞している。

 なるほど。負けを認める気はないらしい。

 再び「始め」の声が流れ、試合が始まる。

 だが、もう結果は見えていた。一度見抜いた癖は二度と隠せない。

 一本。そして二本。何事もなかったように勝負は終わる。

「やり直しだ!」

 再び世界が巻き戻る。

 何度やっても結果は変わらない。もう絶対に負ける気がしなかった。

 危なげなく二本を取る。

 また巻き戻るが、すぐに二本を取る。

「何故だ!」

 男の叫びが空間を震わせた。

「もうやめろ!」

 俺は暗闇に向かって叫ぶ。

「何度やっても勝敗は変わらない!」

 マネモンは一度たりとも違う剣を振らなかった。対して俺は一試合ごとに相手の癖をより深く理解していく。差は縮まらず、むしろ広がる一方だ。

「何故勝てない!お前は彦一に負けたはずだ」

「あの時負けたから、だろうな。一度負けた相手だから俺は慎重に動いた。深く思考した。その結果勝ったんだ。人間は成長できる」

「ふざけ……っ!」

 男の声が突如消えた。

 漆黒の世界が音もなく崩れ始める。

 何も無い空間が砕け、青白い床が光の粒になって消えていく。

 そして俺の意識は遠のいていった。






 目を開くと、眩しい照明が視界へ飛び込んできた。無機質な白い天井。鉄臭い空気。耳に入る機械音。電脳空間とは違う、生々しい現実の感覚が一気に押し寄せる。

 どうやら戻ってこられたらしい。ヘルメットはいつの間にか外れていた。

 初めに目に飛び込んできたのは、床へ倒れ込む男の姿だった。その背中には両腕を必死に回して押さえつけているはんぺんの姿がある。白衣は乱れ眼鏡も少し傾いていたが、それでも彼女は歯を食いしばって男を離そうとはしなかった。

「剣道くん!なんとか終了ボタンは押せた!こいつ、頭に血が上りすぎて近づく私に気がつかなかったんだ」

 よくやった!そう思ってはんぺんに駆け寄ろうとしたところで、すぐにそれが無理だと気づいた。体はまだ椅子に固定されたままだ。

「くそっ、離せ!」

 男は唸り声を上げながら身体を捻る。年老いた身体とは思えないほどの力で肘を振るわれ、はんぺんはたまらず床へ転がった。

「まだだ!」

 男は這うようにして操作盤へ向かう。その執念に思わず息を呑んだ。

「まだ終わっとらん!一度失敗した程度で何が分かる!何度でも試せばいい。データはいくらでも取り直せる」

 震える手が操作盤へ伸びる。

 俺は椅子に拘束されたまま叫んだ。

「無駄だ!」

 男の手がぴたりと止まる。

「何度やっても結果は変わらない」

 振り返った男の顔には怒りとも焦りともつかない色が浮かんでいた。

「なに?なぜ無駄だと言い切れる」

「努力の結晶とはいえ所詮データはデータ。そこに学ぶという意識は存在しない。だが、人間は経験から学ぶ。百回やっても百回俺が勝つだけだ」

「そんな、そんなはずはない。経験は全てデータ化できる……」

「人間はデータじゃない!」

 男は何か言い返そうと口を開いた。しかし声にならない。

 その沈黙を破ったのは静かに立ち上がったはんぺんだった。

「じいちゃん」

 男はゆっくり顔を上げてはんぺんを見つめる。

「私、この前調べてたんだ。じいちゃんの研究データや被験者記録。そのほかにも色々なこと。最近引退したスポーツ選手の名前がいっぱい出てきたよ」

「……一体どうやって調べた」

「私がまだ小さい頃に秘密基地みたいな研究室で色々教えてくれたでしょ?その研究室にじいちゃんの手がかりがいっぱい残ってた」

 男の目は焦点が合っていないように見えた。はんぺんを見ているようで、その奥のどこか遠くを見ている。

 対して、はんぺんの表情はどこかすっきりしていた。操作盤のボタンを押し、俺の固定ベルトを外す。

「証拠は全て警察に送信予約済み。今ここで私たちにどれだけ危害を加えようとじいちゃんはきっと捕まる」

 男はしばらく何も言わなかった。

 その横顔からは、さっきまでの狂気が少しずつ抜け落ちていくのが分かった。

「……そうか」

 長い沈黙の末に男はぽつりと呟いた。

「ずっとわしは間違っていたのか。努力は移植できると思ったんだがな」

「努力は自分でしなきゃ意味がない」

 男は小さく頷くと力なく立ち上がり、ふらつくようにアオリの眠る手術台へ歩いていく。

「何をする!」

 俺は思わず立ち上がりながら叫ぶ。

 しかし男は振り返らなかった。

「安心しろ」

 その声には先程までの怒気も執着も残っていなかった。

「元に戻すだけだ」

 小さく息を吐き、男は器具を手に取る。

「結局、努力は移植できなかった。わしは人間を理解したつもりで何一つ理解できていなかったんだ。実験は失敗だ」

 アオリを見つめる男の目には涙が浮かんでいた。


 エピローグ


 あのあと男は、しばらくして駆けつけた警察へ静かに身柄を預けた。逃げようとはしなかった。警察が来るまでの間に、男はアオリの手術を最後まで終わらせたからだ。きっと、自分にできることだけはやり切ってから自ら終わらせるつもりだったのだろう。

 警察車両へ乗り込む祖父の後ろ姿を見送りながら、はんぺんは小さく頭を下げた。

「……祖父が、とんだ迷惑をかけてしまった。本当に申し訳ない」

 その声は少し震えていた。

「私も途中で気づいていたのに止められなかった。それに……アオリちゃんのことも、最後まで気づけなかった」

 今にも泣き出しそうな顔をしている。

 それでも、はんぺんは涙だけは流さなかった。

 俺は責める気にはなれなかった。むしろ感謝していた。

 あの場に彼女がいてくれなければ、アオリはきっと今も実験台のままだろう。


 男がいなくなったあとも、まだアオリは手術台の上で眠ったままだ。

 警察が見守る無機質な部屋に、静かな時間だけが流れていく。時計の針が一周するのがひどく長く感じられた。

 やがて。

 ベッドの上で、アオリの指先がわずかに動く。

 ゆっくりと瞼が開いた。

 焦点の定まらない灰色の瞳が天井を見つめ、それから少しずつ俺たちの方へ向く。

「……顔漫骸?」

 その一言を聞いた瞬間、全身から力が抜けた。

「アオリ!」

 俺とはんぺんの二人は一目散にベッドへ駆け寄った。

「大丈夫か?」

「アオリちゃん、どこか痛いところは?」

 アオリは不思議そうに俺たちを見比べる。

「ん……ここどこ?」

 数秒考え込んでから、小さく首を傾げた。

「……私の焼き芋は?」

 思わず笑ってしまった。

 緊張の糸がぷつりと切れたみたいに笑いが漏れる。

「なんで笑うの?」

 少しだけ不機嫌になるアオリ。

 そのいつもの表情を見て、胸の奥が熱くなる。

 はんぺんも口元を押さえて笑っていた。

「アオリちゃん、体の調子は?」

「うーん……別に平気だけど」

 少し体を起こして周囲を見回す。

「ねえ、なんでそんな心配するの?なんで二人とも泣いてるの?」


 どうやらアオリは、ここ一週間の出来事をあまり覚えていないらしい。

 結局、俺たちは何も話さないことを選んだ。

 無闇に刺激を与える必要もないだろう。アオリには、頭を打って意識を失っていたとだけ伝えた。

 その後は近くの病院で二週間ほど検査入院を続け、異常がないことを確認して退院した。

 それだけで十分だった。

 俺たちが覚えていればいい。

 あいつは、いつもの毎日を生きてくれればそれだけでよかった。


 そんなことをぼんやり思い返していると、一階から姉の甲高い叫び声が響いた。

「えぇぇぇぇぇぇっ!?」

 朝っぱらから何を騒いでいるんだ。

 寝巻きのまま階段を下りると、リビングでは姉がテレビの前で涙ぐみながら立ち尽くしていた。

 画面では朝のニュースが流れている。

『引退を撤回します。連日お騒がせしてしまい、申し訳ありません』

 映っていたのは、げんちゃめだった。

「うそぉぉぉ!」

 姉の歓声が家中に響き、俺は思わず耳を塞いだ。

 ニュースはそれだけでは終わらなかった。

 ここ数か月で突然引退したスポーツ選手たちが、次々と競技復帰を表明しているという。各局が異例の出来事として一斉に報じていた。

 見ていたニュースが時報を告げる。

「やばっ、もうこんな時間!私行かないと!」

 姉が鞄を掴んで家を飛び出して行った。

 一人残った俺は小さく息を吐く。

 経験が戻った。

 その事実を知っているのは、きっと俺たちだけだ。

 彦一にも経験は戻ったのだろうか。もしそうなら、今度こそもう一度手合わせ願いたいと思う。

 と、その時。

 ピンポーン。

 玄関からチャイムの音がした。慌てて用意を済ませ扉を開けると、そこには口を尖らせたアオリが立っていた。

「遅い!」

 今日も今日とて怒られてしまった。

「あんた何回経験すれば学ぶのよ。いつも言ってるでしょ?」

 俺は思わず吹き出した。

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