第三章 水
今朝もアオリは元気そうに迎えに来た。今日の空は昨日とは打って変わって快晴である。
開口一番、俺は気になっていたことをアオリに尋ねた。
「なあアオリ、昨日バドミントン部のあとはどこの体験をしたんだ?」
「バドミントン部のあと?えっとねー……あれ?どこ行ったっけ」
「なんだそれ」
「あれ〜、おかしいな……」
アオリは困ったように笑っている。
「そういう顔漫骸こそ、昨日どこ行ってたのよ」
「え?いや、ちょっと科学部に」
「科学部?」
アオリは意外そうに目を丸くした。
「へぇー。なんか意外」
俺だって意外だ。俺が科学部だなんて。
自分から言っておいてなんだが、自分らしくないところを見られたような気分で恥ずかしい。垢抜けようと洗面台の前で初めて整髪料を試しているときに親が来てしまった時の感覚に似ている。
話題を変えたくなって昨日見た地方ニュースの話題を思い出した。
「そういや芝桜まつりの季節だな。久しぶりに一緒に行くか?」
「え、行く!」
アオリの顔がぱっと明るくなった。鯖川沿いの芝桜もちょうど見頃を迎えている。
「行きたいけど、いつにする?今週末は空いてるの?」
「ああ、空いてるよ」
「やった!私も空いてる!楽しみ〜」
するとアオリが何かを思い出したようにこちらを見た。
「それで、今日はどうするの?」
「え?何が?」
「体験入部よ!一緒に来てくれるの?それとも別のところ見に行く?」
「ああそれか。ついてってやるよ」
「ほんと!じゃあまた放課後よろしくね!」
今日の三時間目は体育だった。校庭を半分に区切り、片方は男子、もう片方は女子に別れて別々でサッカーの授業をしている。
俺は、中学が同じでそこそこ仲の良かった中村とペアを組みパス練習をしていた。
「お前、またアオリと同じクラスでよかったな。前みたいにまた勉強教えてもらえるぞ」
中村は中学の頃からずっとサッカー部なのでいい具合のパスを寄越してくる。
「まあ、ただの偶然だけどな」
対して俺のパスはあまり安定していない。
「しっかし、いいよなーお前は!俺も可愛い幼馴染が欲しかったぜ」
中村は冗談ぽく笑った。
「何がいいんだ?」
「お前自分が恵まれてるからってそりゃないぜ!」
中村から強いパスが飛んでくる。
「同じクラスの女子と登下校を共にする……。純情な男子なら誰しもが持ってる夢じゃねーか」
知らん。
俺も強いパスを返す。
だが、中村は難なくそれを足の裏で止めた。
「俺も明るくて可愛い女子と付き合って、毎朝学校まで一緒に……。例えばあのもちさんみたいな」
中村は妄想に耽りながら、女子たちが授業をしている方を向いた。
その中村の顔が怪訝な表情に変わる。
「あれ?アオリって確か運動苦手じゃなかったか?」
「え?」
「ありゃ今すぐサッカー部に入った方がいいぞ」
俺も女子たちがいる方を見る。俺の目に映ったのは、華麗なドリブルで女子たちを交わしシュートを決めるアオリの姿だった。
放課後になると学校中から部活動の音が響き始めた。本日アオリが最初に向かった先は校庭の野球部である。
おいおい。気は確かなのか?前回は全くできていなかったような気がするが。
「ボールに当てるコツを掴んだ気がするのよ!」
そう言ってのけたアオリはメジャーリーガーさながらバットを体の前で大きく二回転させバッターボックスに立った。野球部員がピッチャーマウンドから軽くボールを投げる。
アオリは思い切りバットを振り抜いた。
カキーン。
鋭い金属音が響く。打球は校庭の左端にある茂みへ一直線に飛んでいった。
ファール……とかじゃなくて!今当てたぞ!
今回はしっかりとボールを見ていた。さらに重心移動も完璧だった。一昨日まで空振りしていたやつのフォームじゃない。
「もっと思いっきり投げて!」
アオリが叫ぶ。それを聞いた野球部員は少し力を込めて投げ込んだ。
カキーン。
アオリのバットに当たった打球は真っ直ぐ綺麗な軌道を描き、そのまま校庭の柵を越えていった。
俺はいつの間にか口を開けていた。目の前で起きたことが信じられない。夢でも見ているのか?
野球部員全員がアオリの周りに集まってくる。期待の超新星が現れたと、一様に目を輝かせていた。
アオリは得意げにバットを肩へ担ぐ。それを取り囲む連中は口々に「すごい!」だの「経験者?」だの騒いでいた。
「だから言ったでしょ!コツを掴んだ気がするって!」
アオリは勧誘してくる野球部員たちを押し退け、さらにもう一球を催促する。その様子は見たことがないくらい楽しそうだった。
――こいつ、今までやっていなかっただけで、本当は運動の才能があったのか?
そんな考えが頭をよぎる。
だが、胸の奥に引っかかったのは驚きだけじゃなかった。上手く言葉にできない。今日の体育の時だってそうだ。あのアオリが自分の知らない動きをしていることに変な居心地の悪さを感じていた。
もう一度快音が響く。
俺は視線を逸らし、その場を静かに離れた。
向かった先は化学室だった。
別に理由があったわけじゃない。ただ他に行くあてがなかった。
化学室の扉を開けると、今日もはんぺんがよく分からない実験をしていた。
「おお、剣道くん!今日も来てくれたのか」
いつの間にか渾名が付いている。彼女は実験を一時中断し、棚の扉を開けた。
「今日もコーヒーいる?いるなら作るよ」
こちらの返事を聞く前に、アルコールランプとビーカーを机に並べ始める。
「……もらいます」
正直コーヒーは好きだ。科学部特製ブレンド(だったか?)は普通に美味いし。
丸椅子に腰を落ち着かせて化学室の中をざっと見渡してから尋ねる。
「さっきやってた実験って何なんですか?」
コーヒー豆を挽いていたはんぺんの手が一瞬だけ止まった。
「いや、気にしないでいいよ」
それだけ言うと、再び乳鉢を回し始める。
やがて、挽いた豆へゆっくりとお湯が注がれた。今日は自分の分も淹れるらしい。
差し出された三角フラスコから湯気が立ち上る。
「昨日作ってたラジオなんだけどね」
はんぺんは棚の奥から例の謎の物体を取り出した。
「もう少しで完成しそうなんだ」
「はあ」
正直どこをどう見ればラジオなのかもよく分からない。廃材品を繋ぎ合わせただけのガラクタに見える。
「ちょっと待っててくれ。今仕上げる」
その物体にはアンテナらしき針金や音量調節っぽいツマミが付いていた。だがそれ以外はほとんど理解不能である。
「どこでこんな技術覚えたんです?」
はんぺんは不敵な笑みを浮かべて目を細めた。
「企業秘密」
……企業ではないだろ。
出されたコーヒーを啜りながら、作業するはんぺんを眺めていた。時折眼鏡を指先で押し上げ、またすぐ手元の作業に戻る。何をやっているのかはよく分からないが、配線や半田ごてを扱う手捌きは異様に手馴れているように見えた。
窓の外からは今日も吹奏楽部の音が聞こえてくる。
しばらくして、はんぺんが顔を上げた。
「よし、できた」
額の汗を拭いながら側面のスイッチを押す。
『ザザザザザ……』
砂嵐が響く。はんぺんはツマミをゆっくり回した。
『――本日のニュースです』
「よし!」
「おお……」
自分が作ったわけでもないのに少し感動を覚える。
『……に所属しているだぶお選手が、本日引退を発表しました』
だぶおが引退?これまた急な話だな。
「他の局も聞いてみよう!」
はんぺんは楽しそうにツマミを回す。
『ザザザ……続いてはこちらのコーナー! 〈学生時代に救われた曲〉 ――』
「よおし!実験は成功だ!」
はんぺんは両手を高く突き上げた。
窓の格子の影が化学室の床をゆっくりと伸びていく。
もういい時間だ。そろそろアオリのところへ戻らないと。
「今日はこの辺で帰ります」
机に向かって何かを弄っているはんぺんは、そこから視線を離しそうにない。
「分かった。また遊びに来てくれ」
それを聞いて席を立つ。一拍置いて、はんぺんも急に立ち上がった。
「あっ、そうだ。ちょっと待って」
彼女は引き出しを開け、一枚の紙を取り出す。
「これ」
差し出されたのは入部届けだった。部活名の欄には、すでに『科学部』と書かれている。
「ここに名前を書いて担任に出せば、君も晴れて科学部員だ。いつでもここに来れる」
「……いや、まだ入るとは」
「部員足りなくてさ。このままだと廃部になりそうなんだ」
はんぺんは肩をすくめて笑った。
「よろしく頼む」
押し切られる形で入部届けを受け取る。
「……考えときます」
紙を鞄にしまい、化学室をあとにした。
校庭へ戻ると、アオリは校庭脇のベンチに座り野球部の練習を眺めていた。
「アオリ、参加しないのか?」
「あ、おかえり」
額に浮いた汗を手の甲で拭いながら、アオリは笑う。
「ほら、私、体力ないから」
隣へ腰を下ろす。
校庭では金属バットの音が一定のリズムで響いていた。
「どこ行ってたの?」
「……科学部」
「え、今日も?」
アオリが少し身を乗り出す。
「入りたいの?」
「いや、そういうわけじゃない」
「ふーん」
アオリは校庭へ視線を戻した。
少し前まで野球部員たちを騒がせるような打球を飛ばしていたくせに、こうして座っている姿はいつものアオリに見える。
「アオリはどこに入るか、もう決めたのか?」
「んー……まだ分かんない」
部活動体験期間は、あと二日。まだ時間はある。けれど、もう決めなければいけない時期でもあった。
しばらく二人で練習を眺める。白球が空へ上がり、夕焼けを横切って落ちていった。
「また明日、色々見て回るか」
「そうね」
二人は立ち上がる。そのまま共に帰路についた。




