第二章 火
雨音で目が覚めた時、外はまだ薄暗かった。
時計の針はいつもより早い時刻を指している。
今朝も相変わらず寒い。今日こそ暖かい毛布の中でゆっくり二度寝してやる。
そう思ったのだが反して目は冴えたままだった。昨日のことが頭から離れない。アオリは今日は来るのだろうか。
じっとしているのももどかしくなり、布団から這いずり出て身支度をする。
階段を降りると姉が朝食を作っていた。
「おはよう!あんた今日早いね!珍し〜」
茶化すような物言いの姉に生返事をしてテレビをつける。
朝のニュース番組では天気予報が流れていた。どうやら午前中には止むらしい。
少しして、姉の用意してくれた朝食を口へ運んだ。
「私、今日も朝練あるから先行くよ。あんたも早く部活決めなね!」
姉を見送る。
玄関が閉まる音がして家の中が急に静かになった。
台所に置いてあった弁当を持って一度自室へ戻る。
それを鞄の中へ入れ、教科書も適当に確認する。机の上に置きっぱなしだった筆箱も鞄へ突っ込んだ。
高校では剣道をやらない。姉にはそう伝えてある。理由までは話していない。
鞄のファスナーを閉めた、その時だった。
ピンポーン。
チャイムが鳴った。
急いで玄関の扉を開けると、そこには傘を持ったアオリがいた。
「おはよ!……って、今日出てくるの早いじゃん!」
「おはよう。なんか早く起きちまって」
アオリはいつも通りだった。
俺も傘を差し、二人で駅へと向かう。
昨日のことを聞こうとして結局やめた。
鉄道橋の下を流れる鯖川は雨により水量を増している。土と混濁したその鈍い茶色は、空模様と同じ灰色の瀬戸内海へと注ぎ込まれている。
昨日と同じように昇降口で靴を履き変えていると、アオリがこちらを振り返った。
「今日も部活体験、付き合ってくれる?」
「ああ。いいよ」
「やった!じゃあまたあとでね!」
そう言うとアオリはちょうど近くにいた女子たちの方へ駆けていった。
午後になっても雨は止む気配がなかった。なんなんだ、あの天気予報は。
窓を叩く雨音を聞きながらぼんやりとアオリの背中を見る。相変わらず真面目に授業を受けていた。
退屈だ。と思ったその時、近くの席の生徒の肘が消しゴムに当たる。白い消しゴムは机の上を滑り、そのままアオリの方へ飛んだ。
アオリはほとんど反射的に手を伸ばす。
床に落ちる寸前、消しゴムは彼女の手中に収まっていた。
アオリ自身も少し驚いた顔をしている。
それだけだった。
眠気と雨音に包まれたまま授業は過ぎていき、気づけば終業の予鈴が鳴っていた。
「ようやく雨は止んだけど、きっと校庭はぐちゃぐちゃよね」
窓の外を見ながらアオリが言った。
「昨日のリベンジよ!」
そう言って連れてこられたのは卓球部だった。昨日、一番感触の良かった場所だ。……まあ、ほんの数回のラリーだけだが。
今日もアオリはラケットを握る。
卓球部員がサーブを打った。アオリはそれを自然に打ち返す。昨日みたいなぎこちなさがない。重心移動も滑らかだった。
俺は思わず瞬きをする。昨日のうちにコツでも掴んだのだろうか。
眼前では安定したラリーが続いていた。
卓球部員がそのピッチを少し上げる。アオリはタイミングを見誤ったのか、返した球は卓球台を越えて飛んでいった。
「もう一回!」
すぐさま球を拾いサーブを打つ。不格好ではあるが、しっかりとコートに入っている。
そのまま打ち合いが続き、さらに速度が上がった。アオリはそれに食らいついている。
マジか。もしや、アオリには隠れた卓球のセンスでもあったのか。それにしても成長速度が早くないか?
首を傾げながら見ているとアオリがこちらに戻ってきた。その顔は昨日までとは比べものにならないほどの眩しい笑みに彩られている。
「卓球ってこんなに楽しいのね!」
声色も弾んでいた。
「なあアオリ、お前卓球やったことあったっけ?」
「いや?昨日が初めてよ?」
なんでそんなことを聞くのか不思議そうな顔をしている。それもそのはず、アオリが授業以外でスポーツをしているところは見たことがなかった。
「別の部活も見てみたいわ!なんだか今日は行ける気がする!」
驚きを隠せないままの俺を、アオリは引っ張っていった。
次に来たのはバドミントン部。ラケット競技が気に入ったのだろうか。
コートに立ったアオリは、バドミントン部員と向かい合ってラリーを続けている。
昨日とは別人みたいだ。軽やかな足捌きに迷いがない。それ以上にアオリは楽しそうだった。
「おりゃ!」
調子に乗ったアオリが思い切りラケットを振りかぶった。打ち出されたシャトルは空気を切り裂いて対面の女子部員の額へ飛んでいった。
あちゃー。なんだ、昨日と一緒じゃないか。
女子部員は痛そうに額を押さえている。
それを見て思い出した。
科学部。
俺は、必死に頭を下げているアオリのもとへ向かった。
「おいアオリ。俺も部活見学してくるわ」
「え?」
「お前はバドミントン部でもなんでも、好きに回ってていいから」
「え、うん。分かった」
少し戸惑った様子を見せたがそれ以上何も聞いてこなかった。
俺は渡り廊下へ出て、理科校舎に向かった。
化学室の扉の前に立つ。
科学部はここで合っているのだろうか。
少し緊張しつつ扉を開けると、昨日ぶつかった白衣の女性がいた。他には誰もいない。
彼女は手に持った試験管からフラスコに謎の液体をゆっくりと注いでいる。随分と集中していて、こちらには気づいていない。
実験器具を真剣に見つめるその瞳は大きく、赤いフレームの眼鏡越しでも妙に目を引いた。肩より少し下まで伸びた黒寄りの茶髪は半分ほど後ろでまとめられていて、実験の邪魔にはならなそうだ。小さい口はどこか儚げな雰囲気を醸し出すのに一役買っている。
「あの……すみません」
彼女がこちらを向く。
「ん?ああ!君は昨日の」
カラン。
試験管が彼女の手から滑り、フラスコの中へ落ちるのが見えた。
「ああ離れろ!」
次の瞬間、フラスコの中で小さな破裂音が響いた。
白煙が一気に吹き出し慌てて後ずさる。煙が喉に入り思わず咳き込んだ。
化学室から白衣の女性が飛び出してくる。
「大丈夫か!?」
「な、なんとか……」
部屋の中はすっかり真っ白の煙で覆われ、室内灯の光を散乱させていた。
「まあ、一旦中に入りたまえ。この煙は無害だから」
そう言われても説得力はない。だが本人が平然としている以上信じるほかなかった。
彼女は化学室の窓を全て開けたあと、実験器具を片付けながら問いかけてきた。
「君、顔漫骸くんだよね?去年全中二位の」
「え?」
思わず間抜けな声が漏れた。
「……違ったかい?」
「いや……合ってますけど、なんで俺のことを知ってるんですか」
彼女は不敵な笑みを浮かべる。
「弟が剣道をやっていてね。地元のヤツが全中に出るっていうもんだから、一緒に観に行ったのさ。それで知ってるってワケ」
「ああ。なるほど」
流石に全中まで行けば、それなりに知られてしまうらしい。
「それで、高校で剣道は続けないのかい?」
「まあ、はい」
「ふーん。まあ、あんなことがあったあとじゃねぇ」
……それも知っているのか。
「思い出させないでください」
「あ、ごめんごめん」
嫌悪感が露骨に顔へ出ていたらしい。彼女は慌てて手を振った。
「そうだ。一方的に知られているのも気味悪いよね。自己紹介をしよう」
そう言って彼女はアルコールランプに火を付け、小さな金網の上にビーカーを置いた。
「私の名前ははんぺん。高校二年生の科学部部長さ。とは言っても、部員は私一人だけどね」
そう名乗りつつ、棚からコーヒー豆を取り出す。それを乳鉢に放り込みゴリゴリと砕き始めた。
「実験の失敗に巻き込んだお詫びだ。科学部特製ブレンドはどうだい?」
ビーカーの底から小さな泡が立ち始めると彼女は火を止め、漏斗に丸く切った濾紙をセットする。その下には三角フラスコが置かれていた。
挽いた豆にお湯を注ぐと香ばしい香りがふわりと化学室に広がる。
「砂糖は入れる?」
「いえ……」
差し出されたフラスコの中では黒い液体がゆらゆら揺れていた。
恐る恐る一口飲んでみる。苦さの中にコーヒー豆の深みを感じる。普通のブラックコーヒーだった。
はんぺんは飲んでいる姿を満足そうに見つめてくる。少し気まずい。
「……さっき、なんの実験をしてたんですか」
「ああ、さっきのかい?多分、説明しても分からないと思うよ」
「ああ、そうですか」
会話が途切れる。コーヒーを口に運ぶ。はんぺんはそれを静かに見守っている。
遠くの吹奏楽部の練習の音がやけに大きく聞こえた。
「科学部では普段、何をしてるんですか」
「うーん……暇つぶしかな」
「部活ってそんな適当でいいんですか」
「いいんだよ。私しかいないし」
また会話が止まり静寂に包まれる。
次に口を開いたのは、はんぺんだった。
「そうだ。一つサインを書いてよ。きっと弟が喜ぶ」
「サインなんて作ってないですよ」
「うーん、名前を書いてくれるだけでもいいからさ」
「まあ、そのくらいなら」
その返事を聞いたはんぺんは、ノートとペンを取り出して俺の前に差し出した。
そのノートに名前を書いていると、はんぺんが横から覗き込んできた。
「君さ」
「はい?」
「思ったより普通だね」
「……それ、褒めてます?」
「いや、もっとこう、殺気立ってるタイプかと思ってた」
去年までの俺ならそう見えていたかもしれない。
「でも君、やっぱり姿勢はいいんだね。文字を書いている時も背筋は真っ直ぐだ」
剣道を辞めたあとも日課の体幹トレーニングだけは何となく続けていた。
「もう剣道に戻るつもりはないのかい?」
聞こえなかったふりをする。
「ほら、書けましたよ」
「ああ、ありがとう」
はんぺんは受け取ったノートをぱたんと閉じた。
「さて、と」
そう言って立ち上がると棚の奥からよく分からない金属の塊を取り出した。
「……何ですかそれ」
「ラジオ」
「見えないですけど」
「まだ未完成だからね」
そう言うとはんぺんは工具を手に取り作業を始めた。
静かな化学室に金属を叩く小さな音が響く。
帰るタイミングを失った俺は残ったコーヒーを口に運んだ。
もう日が暮れ始めている。バドミントン部へ戻ったがそこにアオリの姿はなかった。部員に訊いてみると、しばらく前に別の部活の体験へ行ったらしい。どこへ向かったのかは知らないという。
試しに教室へ戻ってみると、アオリの机に鞄は掛かっていなかった。今日も先に帰ったのだろうか。
水溜まりを避けながら一人で家に帰る。
雨上がりの空気は少し冷たかった。




