第一章 月
プロローグ
漫画やゲームの主人公ってもんは大抵何かしら特殊能力を持っている。体を自由自在に伸ばすことができたり、伝説の勇者の血筋だったり、異世界に転生してチート級の能力に目覚めたり。発現方法は多種多様だし持っているものも千差万別だが、結局は「選ばれた人間」の物語だ。
ただし現実はそうもいかない。少なくとも俺の周りには、空を飛べる奴も魔法を使える奴もいない。人間はそれぞれ何かしら得意不得意があることは確かだが、その才能だけで生きていけるほど世の中ってのは甘くない。まだガキの俺でもそれは何となく分かる。サッカー部のエースだって最初から強かったわけじゃないし、テストで学年一位を取るような奴だって毎日勉強している。少なくとも俺の知る限り、本物の天才ほど努力している。だから努力は大事だ。多分。
でも、なろう系の主人公みたいに、己の才能だけで全てをねじ伏せられたらどれだけ生きやすいだろう。生まれ持った超能力で皆にチヤホヤされ、その力で世界を救う!
たまにそんなくだらない妄想をしてしまう。
もちろん、この世界はそんなに都合よくできていない。
そんな風に現実的に考えられるように成長した俺は高校生になった。
寒さで思わず目を覚ます。
鳥の鳴き声が外から聞こえてくる。
朝の日差しがカーテンの隙間から差し込み、その一角だけがほのかに暖かい。
四月とはいえまだまだ朝は冷え込む。寝る時はちょうどいいと思っていた毛布も朝になると頼りない。
「顔漫骸ー!早く起きんと入学早々遅刻するよ!」
下の階から姉の声が飛んでくる。再び夢の世界へと誘われそうになっていた俺は、その声で現実の世界に引き戻された。
睡眠がこの世で最も大切だとどっかのお偉い学者さんも言っていた気がする。俺はまだ眠い。寝かせてくれー。
とはいえ、このまま寝坊して遅刻するならばきっと今日という一日を自堕落な休日に変えてしまうだろうと容易に想像できるので、仕方なく俺は体を起こした。
裸足で感じる床が冷たい。寒さを誤魔化すように腕を擦りながら階段を降りていくと、すでに制服に着替えた姉が玄関で靴を履いていた。
「私吹部の朝練あるし先行くからね。あんたも早く準備しないと、アオリちゃん迎えに来ちゃうよ」
そう早口で捲し立てて忙しなく家を飛び出して行った姉を見送る。
リビングに入り、テーブルの上に置かれていたトーストを見つけそれを頬張った。
ピンポーン。
早いな。
トーストを水で流し込んだ後、慌てて支度を済ませて玄関の扉を開けた。
「遅い!」
彼女は眉間に皺を寄せてこちらを向いて立っていた。睨みつけてくるその瞳の色はまるでカラコンのように綺麗なグレーで、透き通るような白い肌ともよく映えている。その肌の色とは正反対の黒い髪は肩にかからない高さで綺麗に切り揃えられ、朝の光を艶やかに反射させていた。
「ごめんごめん。でも今日は出てくるまで早かっただろ。昨日のうちに鞄の中身を準備しておいたんだぜ」
「え?うーん、まあ確かに。今日はなんか早かったかも……じゃなくて!私が来るまでに全部の用意終わらせといてよ。私まで学校に遅れちゃうじゃない」
そうやっていつものように怒られながらしばらく歩いていると最寄り駅に着いた。山陽本線に乗って西へ一駅。瀬戸内海へ流れ込む一級河川・鯖川とその支流である横曽祢川を電車で越え、駅を降りたあとは徒歩で高校へ向かう。途中バイパス道路が通っており、そこを自転車で通学するのは危険なので、学校側から禁止されているのだ。
改札を抜けたら東へ。短大を横目に歩いていき、橋を抜けた先を北へ向かうと我らが西高が見えてくる。
その道中、アオリが不意に訊いてきた。
「ねえ、高校でも剣道続けるの?」
「いや、剣道はもういいかな。というか高校は帰宅部でもいいやとか思ったり」
「そうなんだ」
彼女の声色はどこか寂しそうである。
「顔漫骸の剣道してる姿、かっこよくて好きだったんだけどな」
「え?」
風が強く、聞き間違えたかと思った。
「ほら、遅れちゃうから早く行くよ」
アオリは走り出す。俺は慌ててそれを追いかけた。
「ねえ、じゃあさ。放課後暇でしょ?」
昇降口に着き、靴を履き変えながらアオリは言った。
「どうせ暇なら、私の部活選びに付き合ってくれない?まだ全然決まってなくて」
丁度今、我々一年生には部活動体験期間が設けられている。昇降口から教室へ向かっている今も、壁を見れば「新入部員募集!」などと書かれたポスターが至る所に貼られていた。どの部活もあまり体験する気になれず放課後を持て余していた俺にとって、彼女の提案を断る理由はなかった。
「まあいいけど」
「ほんと!」
アオリが眩しい笑顔でこちらに振り向く。
「ありがとう!」
気づけばもう教室の前だった。教室の中からアオリを見つけたクラスメイトが声を上げる。
「アオリンおはよ!」
「もっちゃんおはよー!みんなおはよー!」
そう言いながら彼女は教室の中に入っていった。
中学の頃のアオリは「やりたい部活がない」と言って部活動というものに全くの無関心であった。それがどういう風の吹き回しだろうか。
そんなことを考えているとチャイムが鳴った。
「おい顔漫骸。ホームルームを始めるから早く席に着け」
いつの間にか先生が真後ろに立っていた。
教室にはチョークの音だけが淡々と響いていた。
窓際の席に差し込むうららかな日差しが暖かい。眠気を誘うには十分すぎるほどだった。
出席番号順に決められた席では、アオリが一番前で真面目に板書を取っている。先生の話を聞き、黒板を書き写し、また顔を上げる。その動きに一切の無駄がない。
昔からそうだった。
アオリは勉強ができる。できる、なんて言葉で済ませていいのか怪しいくらいに。
定期テストでは常に学年トップ。模試の順位も全国で一桁を取っただの何だの、中学の頃は教師たちが勝手に盛り上がっていた。
それに比べて俺は勉強が苦手だ。
剣道の推薦を勧められたこともあったが、高校まで続ける気にはなれなかった。結局、受験勉強ではずいぶんアオリに世話になった。
しかもあいつは、あれだけ頭がいいくせに面倒見もいい。分からない問題を聞けば嫌な顔一つせず教えてくれる。
だからこそ未だに不思議だった。
なんでアオリはこの高校を選んだんだろう。
別に進学校というわけでもない。
俺がここを選んだ理由なんて、「家から近かったから」くらいのものだ。
中学の担任だってアオリの志望校を聞いた時はさぞ驚いたことだろう。
「顔漫骸!」
「はい!」
名前を呼ばれた瞬間、反射的に立ち上がる。
椅子の脚が鳴るより早く背筋が伸び、踵を揃える。中学の頃に叩き込まれた動きが今でも身体に染みついていた。
「……なんだ、起きていたのか。ならいい。席に着け」
どうやら考え事をしているうちに居眠りしていると思われたらしい。
クラスの何人かがこちらを見ている。見るな、恥ずかしい。前を向け。
赤面しながら腰を下ろし、また寝ていると思われないように板書ぐらいはしておくかと渋々ノートを開いた。
互いの竹刀の先端が触れ合う。
わずかに押し、離し、探る。
相手の呼吸は浅い。だが足は止まっていない。いつでも踏み込めるよう、一定のリズムを刻み続けている。
こちらが呼吸を合わせれば、その瞬間に飲まれる。
俺は無意識に奥歯を噛み締めた。
踏み込みの速さも、打突の鋭さも、自分と遜色ない。
足捌きも体幹も、一朝一夕で身につくものではなかった。積み重ねてきた時間そのものだ。
だが、それでも。
こいつは違う。
間合いの詰め方。呼吸。揺さぶり。
近づけば近づくほど、こちらだけが削られていく。
一歩、近い。
次の瞬間には面が飛んでくる。
「顔漫骸!」
驚いて顔を上げると目の前にアオリの顔があった。
「顔漫骸!あ、起きた?もしかしてさっきの授業からずっと寝てたの?」
「え、ああ……」
いつの間にか寝ていたらしい。周りを見るともう放課後のようだった。
「朝の約束覚えてる?早く部活体験に行きましょ!」
そう言うなり、アオリは俺の腕を引っ張って教室を飛び出した。
廊下をずんずん進み、初めにアオリが向かった先は体育館。バスケ部の練習場所だ。バッシュと床の擦れる音やドリブルのリズミカルな音が鳴り響いている。
「アオリ、お前バスケ部に入りたいのか?」
「ううん。まだ体験するだけよ。でも、何事も一回やってみなくちゃ!」
アオリは意気揚々といった感じだ。
「いや、でもお前……」
俺の言葉を聞く前に、彼女はバスケ部の輪の中へ入っていった。
とても嫌な予感がする。
アオリは勉強こそ化け物じみているが、運動神経は壊滅的なのだ。
マラソン大会は毎年最下位。大縄跳びだって見事なまでに引っかかる。体育の授業で活躍している姿なんて記憶を掘り返しても出てこない。そんなやつが運動部?大丈夫なのか?やけに自信に満ちているのも俺の不安を倍加させる。
見ているとどうやら準備運動が終わったらしい。アオリはバスケットボールを受け取ると、おもちゃをもらった子どもみたいに目を輝かせた。まずはその場でドリブル練習をしてもらうという部員の声が聞こえてくる。
そのくらいは流石にできるか?
そう思ったのも束の間。真下に弾いたボールはアオリの足先に当たり、あらぬ方向へ飛んで行った。
言わんこっちゃない。
それでもアオリはもう一度挑戦する。
今度は辛うじて続いていた。
しかしその動きはとてつもなくぎこちない。ボールのバウンドに合わせて体全体が過剰に上下している。しかもそのリズムもバラバラだ。
でもアオリはまだ楽しそうだ。諦めるような様子はない。目の前のことに一生懸命になっている。
しばらくバスケ部の体験を眺めていると、アオリがこちらに戻ってきた。
「うーん。やっぱり難しいわね」
「だってお前、昔から運動苦手だったろ」
アオリは、分かってないなぁとでも言いたげな様子で呆れた顔をこちらに向けてきた。
「何事もやってみなきゃ分からないでしょう?どこかに私の得意なスポーツだってあるはずよ!」
うーん。なんたる希望的観測。
「次行くわよ!次!」
そう宣言するより早く俺はまた引きずられていた。
次に向かった先、いや、連れていかれた先は校庭。野球部の練習場所だ。いつの間にやらアオリはヘルメットを被ってバットを握り、バッターボックスに立っていた。
野球部員がホームベースに向かって軽くボールを投げる。アオリは思い切りバットを振った。
……全くの空振り。ボールがキャッチャーミットに収まったあとで、ようやくバットが空を切った。完全にタイミングがズレている。しかも振る瞬間、完全に目を閉じていた。
見かねたピッチャーがさっきよりもゆっくり投げてくれた。しかし、目を閉じている人間に球速など関係ない。
結局そのあとも一度も当たらずこちらに戻ってきた。
「まあ。ちょっと運が悪かったわね」
こいつにとってバットにボールを当てることは運らしい。
「次行くわよ!」
続いてアオリのターゲットにされたのは卓球部だった。
俺はアオリに、
「ちゃんとボール見ろよ。ラケットに当てるだけでいいから。振りかぶるなよ?」
とアドバイスをして送り出した。
「分かってるわよ!」
分かっているやつは野球で目を閉じたりはしない。
俺の心配をよそに、ラケットを握ったアオリは自信満々である。
アオリはピンポン玉を手に取り一点に集中。最初のサーブを打った!と思いきや、鳴ったのはラケットが玉をスカした音だった。
「……今のは練習だから!」
アオリは深呼吸を一つしてもう一度サーブをする。
またしても空振り。
「…………」
見ているこっちが気まずい。
今度は対面の卓球部員がサーブを出してくれた。
アオリの方向へゆっくりとピンポン玉が飛んでくる。
――当たった。
ピンポン玉がネットを越える。
さらに返ってきた球もアオリはなんとか打ち返した。
ラリーが続いている。
奇跡だ。
と思った次の瞬間、調子に乗ったアオリが思い切りラケットを振りかぶった。その勢いで弾き飛ばされたピンポン玉は卓球部員の眉間へ一直線に飛んでいった。
あちゃー。だから振りかぶるなと言ったのに。
アオリは卓球部員に向かって必死に頭を下げている。
やっぱりアオリに運動部は無理なんじゃないか?
そう思うのと同時に、こんなのんびりした放課後を過ごすのはなんだか久しぶりな気がした。
カラスが頭上で鳴いている。空は熟れすぎた果実のように赤く染まっている。
あのあともいくつかの運動部を回った。だが何一つとして上手くいったものはなかった。
俺は校庭の縁の階段に腰掛け、隣にいるアオリへ尋ねた。
「なんだっていきなり部活なんかに興味を持ち始めたんだ?しかも運動部ばかりに」
アオリは黙って夕焼けに染まった校庭を見つめている。少し間を置いてからアオリは話し始めた。
「私ね、去年の顔漫骸の最後の大会を見てて本当に感動したの。あんなに心が動かされたのは生まれて初めてだった。でも私、昔から運動が下手でしょう?」
アオリは小さく笑う。
「だから何か一つくらい、私も打ち込めるものが欲しくて……」
アオリのこんな顔を見たのは初めてだった。直視することが出来ず、思わず視線を校庭へ逃がす。
「……私ずっと、顔漫骸が羨ましかった」
沈黙が落ちる。
遠くで野球部の声が聞こえる。金属バットの乾いた音が耳にこだまする。
何か話さなければ。
「いや、でもさ……」
そう言って横を向いたとき、そこにアオリの姿はなかった。
焦って立ち上がる。周りを見渡すがどこにもいない。
遠くでまた金属音が鳴った。
もう先に一人で帰ったのだろうか。そう思って教室に戻ったが、そこにもアオリの姿はなかった。俺は小さな違和感を抱えたまま、机の横に掛けていた鞄を手に取り教室を出た。
「うわっ」
扉を開けた瞬間、誰かとぶつかった。ドアが死角になっていて見えていなかったらしい。
「危ないな君!ちゃんと前を見て歩け!」
目の前には額を押さえた白衣姿の女性が立っていた。赤縁の眼鏡を掛けている。怒ったようにこちらを見上げていた彼女だったが、俺の顔を見た途端その表情は一変した。
「……君、新入生だよね?」
口元にはニヤリと笑みを浮かべている。
「ねえ、うちの科学部に来ない?」
そう言って彼女は一枚の紙を差し出してきた。科学部の勧誘チラシのようだ。
「今日はもう帰るけど、明日以降遊びにおいでよ。待ってるからさ」
そう言い残し、白衣の女性は廊下の奥へ消えていった。
科学部、か。
文化部に入ることなど今まで一度も考えたことがなかった。だが、一度覗いてみるのも面白いかもしれない。
俺はその紙を鞄の中に突っ込んだ。
家に帰り玄関の扉を開けると姉の泣き声が耳に飛び込んできた。また彼氏と喧嘩でもしたのか?
「姉ちゃん!一体どうしたんだ」
「どうしたもこうしたもないのよー!」
姉は半泣きのままソファの上でクッションを抱え暴れ始める。まるで駄々をこねる子どもじゃないか。どうにかこうにかして押さえつつ、なんとか事情を聞き出した。
「一回落ち着けよ。何があったんだ」
「げんちゃめが引退しちゃったの……!」
げんちゃめ。男子バレー日本代表のキャプテンだ。
姉は前からあの選手の大ファンだった。試合は全部録画するし、雑誌も買い漁るし、部屋にはポスターまで貼ってある。
「ほらぁ……」
姉が涙を拭きながらテレビを指差す。
ニュース番組ではげんちゃめの電撃引退が大きく取り上げられていた。
『突然の発表に、ファンからは驚きの声が――』
「これから私は何を楽しみに生きればいいのよぉ……」
姉は再びソファに突っ伏した。
アオリの言葉を思い出す。
『本当に感動したの』
スポーツには人の心をそこまで動かす力があるらしい。
俺にはまだ実感が湧かなかった。




