逃げなかった人たち
本日2話目の更新です。12時にも更新しています。
僕には何もできない。修理工場から帰っても、眠れないまま夜が明けても、その一言は頭の内側に貼りついて剥がれなかった。ジョウは戦車を手に入れる。ガニーとポンチョスを連れて、マリカまで仲間にした。一週間もすれば戦車が届いて、それが直れば、本当に屑鉄の丘へ向かうのだろう。崩れ狼を倒して、もう一台の戦車を手に入れて、そのまま町の外へ出ていくのかもしれない。
それに比べて、僕は何をしているんだろう。戦車乗りになりたい。ハンターになりたい。ずっとそう言ってきたし、マリカにも何度も話した。そのくせ戦車を探したこともなければ、銃の撃ち方も知らない。僕のモンスター退治といえば、屑鉄の丘の入口で大ネズミを鉄パイプで追い払うことくらいだ。ジョウにも、マリカにも、一言も言い返せなかった。言われたことが、全部本当だったからだ。
今日はハン協で働く日だった。仕事といっても、床を掃いて、机を拭いて、掲示板から古い依頼書を剥がして、倉庫の荷物を運ぶだけだ。それでも僕にはありがたい仕事だった。くず鉄拾いより確実に金になるし、ここを預かっているデションは、昔から僕のことを気にかけてくれている。
ハン協というのは、ハンター協定機構の略だ。誰もが略して呼ぶので、正式な名前を口にする人はほとんどいない。ハンターを登録してライセンスを出し、賞金首を決めて手配書を回し、持ち込まれた討伐証明を確かめて賞金を払う。この辺りの町はほとんどがハン協に入っていて、ライセンスさえあれば、よその町でも同じように仕事を受けられる。名乗れば誰でもハンターになれるわけじゃない。荒野で生き延びられる腕があると、ハン協に認められて初めてハンターだ。
ハン協の事務所は、大通りの東の端にある。旧文明の頃の頑丈な建物をそのまま使っていて、窓には鉄格子がはまっている。中にいるのは、所長のデションのほかに職員が二人と、忙しいときだけ手伝いに来る年寄りが一人で、それで全部だ。見張りを立てておく余裕はないから、受付の奥の壁には銃が何丁も立てかけてあって、いざというときは職員がそれを取って戦うのだという。職員はみんな、引退した元ハンターだった。
賞金にする金や、預かった旧文明の武器、討伐証明の品は、ほとんどがここではなく、守備隊の詰所の奥にある町の保管庫に置かせてもらっている。事務所に置いてあるのは、細かい支払いに使うわずかな金だけらしい。
中に入ると、正面の壁一面が掲示板になっている。賞金首の手配書と、近場のモンスター駆除の依頼書が、端を重ね合うようにびっしり貼られている。掃除の前に、期限の切れた紙を端から剥がしていくのが僕の最初の仕事だ。その手が、一枚の前で止まった。
崩れ狼の手配書だった。黄ばんだ紙に、溶けかけた狼の絵が描かれている。描いた人が本物を見たのか、見ないで描いたのか、どちらとも取れる絵で、角度によっては脚が五本あるようにも見えた。その下に、説明文がついている。
『屑鉄の丘の奥、錆びた月の下にそれは棲む。肉は崩れ、なお飢えて、鉄をも噛む。その遠吠えを聞いた者は、二度と同じ夜を眠れない』
そこまでは妙に立派な文章なのに、次の行から急に字が雑になる。
『特徴:でかい。くさい。たぶん灰色。見つけても近寄らず、すぐ報告のこと』
……たぶん、ってなんだよ。途中で書く人が替わったのか、同じ人が途中で飽きたのか。口の端が少しゆるんだまま賞金の欄へ目を下ろして、そこで、ゆるんだ口が戻らなくなった。十万グラン。ボロ屋の床板の隙間に押し込んである缶を思い出した。針金の指輪の布袋の隣で、食べる分と寝床の分を引いた残りを入れて、一年かけて少しずつ重くなってきた缶だ。あれを二十も三十も並べて、やっとこの紙一枚に追いつく。雨の日も、腰が痛い日も休まずに丘へ通って、三十年――と出かかったところで、数えるのをやめた。ジョウはこれを、主砲一発で取るつもりでいる。
デションは、僕が生まれるより前からレイラインにいる。今ではハン協の所長として町の人たちに頼られているけれど、昔は自分でも戦車に乗って各地を回っていたらしい。そして一時期は、父さんと一緒にハンターをやっていた。だから僕が孤児になってからも、ずっと面倒を見てくれた。ハン協から孤児院へ食料や日用品を回してくれたことは何度もあるし、それとは別に、自分の財布から金を出してくれたこともある。
孤児院を出てからも、こうして雑用の仕事を回してくれている。最近では「いつまでもくず鉄拾いじゃしょうがねえだろ。もう少しまともな働き口を探してやる」とまで言ってくれていた。子供の頃、僕はこの人を「デションおじさん」と呼んでいた。いつからか、ただの「デション」になった。それでもデションの方は、僕への接し方を少しも変えなかった。
ありがたい。本当に、ありがたい。なのに今の僕には、そのありがたさまで少し重たかった。床を掃きながら、何度目か分からないため息をつく。奥の机から、デションの声が飛んできた。
「さっきからうるせえな」
「え?」
「ため息だよ。掃除するたびに一回ため息つく決まりでもあんのか?」
「……ごめん」
「謝れとは言ってねえよ」
デションは書類から顔を上げて、しばらく僕を見た。
「なんかあったのか?」
「……別に」
「だったらその面やめろ。死人みてえだぞ」
昨日、ジョウにも同じことを言われた。死人みたいな顔。目の下のクマなら、鏡を見るたびに自分でもうんざりしている。そんなに分かりやすく死んでいるのか、僕の顔は。
黙って箒を動かした。言ってどうなる。デションに話したところで、ジョウがハンターになることは変わらないし、マリカが一緒に行くことも変わらない。そう決めたはずなのに、しばらくすると口が勝手に開いていた。
「……ジョウが、ハンターになるらしいよ」
「ああ?」
「町の古い戦車、もらうんだって。新しい戦車を買うから、今までのやつが余るらしくて」
「ああ、その話か」
知っていたらしい。
「マリカも一緒に行くって」
デションが一瞬こちらを見た。
「そうか」
それだけだった。箒の柄を握る手に、余計な力が入った。
「……それだけ?」
「それ以外に何言えってんだよ」
「だって……ジョウはもう戦車を手に入れるんだ。ガニーとポンチョスもいる。マリカまで一緒に行く。屑鉄の丘の崩れ狼を倒して、もう一台の戦車も取るって言ってた」
「へえ」
「僕は……僕は何もできなかった」
デションの顔から、面倒くさそうな色が少しだけ消えた。
「何もできないんだ、僕は。戦車に乗りたい、ハンターになりたいって、ずっと言ってたのに。何年も言ってたのに、何もしてない。ジョウはもう始めてる。僕がずっとやりたかったことを、あいつは本当にやろうとしてる」
しばらく返事がなかった。やがてデションが、ぎい、と椅子の背にもたれた。
「……いいじゃねえか」
「え?」
期待していた言葉とは、まるで違った。
「何が?」
「お前はそれでいいって言ってんだよ」
「何でだよ」
「ハンターなんて危ねえ仕事だからだ。お前らくらいの歳のガキが聞くハンターの話なんざ、だいたい決まってる。賞金首を倒して一生遊べるだけ稼いだ。旧文明の遺跡でとんでもねえ武器を見つけた。戦車を拾った。でけえ町で豪遊した。そんな話ばっかりだ」
「でも実際に――」
「実際にあるさ。嘘じゃねえ。だから厄介なんだよ」
デションは僕の言葉を遮って、机の上の煙草を手に取った。火はつけずに、指先で転がしながら続ける。
「一発当てたやつの話はみんなする。死んだやつの話はすぐ忘れる。モンスターに食われたやつ、毒で身体が腐ったやつ、戦車ごと潰されたやつ。遺跡で床が抜けて、そのまま帰ってこなかったやつ。賞金首に挑んで、名前すら残らなかったやつ。俺は嫌ってほど見てきた。俺は運が良かった。お前の親父も運が良かった。少なくとも、ハンターをやってる間はな」
父さん。その一言で、顔が勝手に上がった。
「お前の親父は生きて帰ってきた。ハンターをやめて、農場のみんなをまとめるようになって、嫁さんもらって、お前が生まれた。ハンターなんて仕事をしておきながら、ちゃんと自分の子供を抱くところまで生き延びたんだ。それだけでも十分運が良かったんだよ」
デションはそこで少し黙った。父さんが最後にどうなったかは、僕もデションも知っている。だから、その先は言わなかった。
「ジョウがどうなるかは知らねえ。町じゃ町長の息子で、守備隊にも顔が利いて、戦車まで手に入る。あのガニーとかいうでかいのも、町の中じゃ強いんだろうよ。でもな、外に出りゃそんなもん何の意味もねえぞ」
「……何の意味も?」
「ああ。カス以下だ。人間相手の喧嘩で強い? 銃の的当てがうまい? 戦車をちょっと動かしたことがある? だから何だって話だ。本物のモンスターは、そんなもん知ったこっちゃねえ。人間の腕より太い牙で噛みついてくる。戦車より速く走るやつもいる。鉄板を爪で裂くやつだっている。こっちが怖がってようが、命乞いしようが、腹が減ってりゃ食う。それだけだ」
カス以下。その言葉が、胸のどこかにすとんと落ちて、気持ちよく収まった。ガニーの拳も、ジョウの戦車も、外へ出ればカス以下。昨日あれだけ笑っていた三人の顔が、少しだけ小さく見える。そこまで考えて、腹の底が冷えた。いい気味だと思った相手は、これから本当に、牙の太いやつのところへ行くのだ。
崩れ狼の話を思い出した。ジョウは笑っていた。臆病な雑魚だと言っていた。思わず掲示板の方を見る。黄ばんだ手配書の、たぶん灰色の、溶けかけた狼の絵。さっき笑いかけた雑な一行が、急に少しも笑えなくなった。
「崩れ狼なんぞ狙ってるなら、なおさらだ。あいつらが考えてるほど簡単にはいかねえよ」
「デション、知ってるの?」
「名前と噂くらいはな。何度か討伐依頼も出てる。見つからねえことの方が多いが、見つけたやつが必ず帰ってきてるわけでもねえ。まあ、それでも行くってんなら勝手に行きゃいい。ハンターってのはそういう仕事だ。俺が止める義理もねえ」
そして、僕を見た。
「だからお前は、あいつらを羨ましがる必要なんかねえんだよ。普通に働け。金貯めろ。腹いっぱい飯食えるようになれ。そのうちいい女でも見つけて、家族作って、この町で暮らせ。それでいいだろ」
僕を思って言ってくれているのは、分かっている。馬鹿にしているわけじゃない。むしろ逆で、僕に死んでほしくないから言っている。床板の下の缶のことまで、見透かされた気がした。金を貯めろ。その缶に貯まっていく金で、僕がいつか何を買うつもりでいるのか、デションは知らない。
「……嫌だ」
「何?」
「それじゃ嫌なんだ」
デションの眉が、少し動いた。
「父さんと母さんを殺したやつがいる」
口にした途端、あの夜が目の奥に戻ってきた。炎に包まれた町。真っ青な炎をまとった、鳥のような化け物。二本の脚で地面を蹴って、こちらへ迫ってくる巨大な影。父さんも母さんもすぐそばにいたのに、膝が震えて、僕は一歩も動けなかった。
「今でも覚えてるんだ。あいつのこと。忘れられない。青い炎を見るだけで思い出す。大きな音がしただけで、たまにあいつが来たんじゃないかって思う。夜もちゃんと眠れない。屑鉄の丘でモンスターの声が聞こえたら、逃げたくなる。僕は今でも怖いよ」
デションは何も言わなかった。
「でも、あいつはまだどこかにいるかもしれない。父さんを殺した。母さんも殺した。町の人もたくさん殺した。それなのに僕だけ、何もなかったみたいに普通に暮らせって言われても……できないよ。それに、あの夜、逃げなかった人たちがいた」
燃えるレイライン。みんなが逃げていく中で、逆の方へ走っていった人たち。戦車に乗り、銃を手にして、あの化け物に向かっていった人たち。そして最後に、もう駄目だと思った僕の前へ飛び込んできた、真っ赤な戦車。
そこまで言いかけて、僕は目の前のデションを見た。
夜明けの焼け跡で、僕を抱き上げた腕。煤と血にまみれた顔。あのとき、デションはどこから来たのだろう。どうして、あんなにぼろぼろだったのだろう。
七年もたって、今さら、そこに思い当たった。
「……デションも、そうだったんだよね」
デションの指の上で、煙草が止まった。
「あの夜。デションも、逃げなかった人だったんだよね」
しばらく、デションは何も言わなかった。窓の外で、輸送車のエンジンが唸って遠ざかっていった。
「……防衛線にいた」
低い声だった。
「南の門の外だ。守備隊の連中と、町の戦車と、俺みてえな引退した元ハンターが何人か。いつもなら、あれで足りた。火山の方から何か流れてきても、門の外で追い返せた」
デションは煙草を机に置いた。
「あの夜は違った。数が多すぎた。それに、あいつが来た。青い炎の化け物だ。門の外で踏ん張ってたのが、あっという間にばらばらにされちまった。町の中へ逃げ込んだあいつらを追いかけて戻ったら、大通りで、町の戦車が一台、青い炎に呑まれるのを見た。中に乗ってたやつは出てこなかった。あとはもう、目についたやつを片っ端から撃つしかなかった。お前の親父を探しに行けたのは、空が白み始めてからだ」
デションは、それ以上は言わなかった。父さんを見つけたのかどうかも、言わなかった。
「赤い戦車のことは、俺も調べた」
「え?」
「ハン協の記録をひっくり返した。通りがかるハンターにも、片っ端から聞いて回った。……ここいらのハンターじゃねえ。それだけは確かだ」
「どうして分かるの?」
「この辺で名の通ったやつなら、記録のどこかに引っかかる。どこの町から来る、どこへ向かう、そういう知らせは、たいてい荷と一緒に回ってくるもんだ。この辺りの記録には、それが何もなかった。遠くの町から、知らせも出さずにふらっと来たんだろうよ」
デションは机の煙草をもう一度手に取って、指先で転がした。
「トーカンの事務所に問い合わせたら、ひとつだけ引っかかった。あの騒ぎの少し前に、赤い戦車が一台、砂漠の方へ抜けていったらしい。グラナリーセブンまで行って、何の賞金首も獲らずに戻ってきて、そのまま東へ消えた。それきりだ」
トーカンは、西の街道を二、三日行った先にある、砂漠の入口の町だ。僕は行ったことがない。そこから砂漠をさらに奥へ進むと、グラナリーセブンという大きな町があって、西から来る輸送隊の荷の多くはそこから運ばれてくるのだと聞いたことがある。どちらも僕にとっては、大人たちの話の中にしか出てこない、遠い場所だった。
「この町は通らなかったの?」
「通ってた。守備隊の見張りが見てたんだ。騒ぎの十日ばかり前の、夜明け前にな。赤い戦車が一台、止まりもしねえで大通りを西へ抜けていったってよ。あっという間だったそうだ。見張りも、どこかの急ぎのハンターだろうってんで、それきり気にも留めてなかった。あの夜も、行きと同じで、ただ通りがかっただけなんだろうよ」
「赤い戦車って、それだけで分からないの?」
「赤く塗るのは、ずいぶん昔に流行ったことがあってな。今でもたまに見かける。それに、ハン協は戦車を登録しちゃいねえ。持ち主はころころ変わるし、ばらされては組み直される。戦車の色や形で人を追うことはできねえんだ」
デションは少しだけ黙った。
「だがな、あの動きは別だ。戦車ごと踊るみてえに回って、あの化け物の炎を全部かわしてた。あんな真似ができるのは、間違いなく上の方のハンターだ。西の砂漠にも、東の大荒野にも、腕の立つやつは何人かいる。そいつらのことは、ここにも記録がある。いつこっちへ流れてくるか分からねえからな。だが、そのどれでもなかった」
「じゃあ、どこの人なの?」
「さあな。南の群島じゃねえだろう。島の連中がわざわざ戦車を船に積んで、こんな山の中まで来るとは思えねえ。となりゃ、大荒野のずっと先の港町か、北の方か……」
そう言って、首を振った。
「ハン協だって、世界じゅうのハンターの記録を全部の事務所に回してるわけじゃねえ。そんなことしてたらきりがねえからな。回ってくるのは、せいぜい周りの地方の分だけだ。遠くへ移るハンターがいりゃ、行き先の地方に知らせを送ることもあるが、それだって大まかなもんだ。港には、どこからでも人が集まってくる。北には北で、でけえ町がある。どっちかの事務所になら記録があるのかもしれねえが、ここからじゃ遠すぎて、追いきれねえんだよ」
それから、小さく鼻を鳴らした。
「礼の一つも言わせねえで、行っちまいやがった」
それきり、デションは黙った。
僕もしばらく、何も言えなかった。机の上の煙草を見ていた。デションが七年かけて追いかけても、届かなかった真紅の戦車。僕はその戦車を、あの夜にほんの一瞬見ただけだ。喉の奥で何度か言葉を組み直してから、もう一度口を開いた。
「あんな化け物がいたのに、戦った人がいた。怖くなかったわけじゃないと思う。でも逃げなかった。僕を助けてくれた人もいた。僕も、ああなりたいんだ」
声に出してみると、自分でも驚くほど、震えていなかった。
「強くなりたい。怖くなくなりたいんじゃない。たぶん、怖いのはなくならないと思う。でも――怖くても戦える人になりたい」
言い終えたとたん、耳が熱くなった。何を言っているんだ、僕は。床掃除の箒を握ったままで。
デションは何も言わなかった。怒るでもなく、笑うでもなく、ただ僕を見ていた。その沈黙が長すぎて、僕は箒の柄の、すり減って白くなったところばかり見ていた。
やがてデションは、何かを諦めるときのような長い息を吐いた。
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