先に夢をつかんだ男
本日は2話更新です(12時・20時)。
三日後も、修理工場で働く日だった。
その日、親方は朝から留守だった。守備隊の詰所で町の寄り合いがあって、新しい戦車が届くのに合わせて、これからの守りをどうするか、町長や守備隊の頭、宿場の元締めたちと話し合うのだという。戻りは夕方。工場に残っているのは職人が二人と、マリカと、僕だけだった。親方がいない工場は、なんとなく空気がゆるい。奥の職人の鼻歌が、金槌の音の合間に聞こえていた。
昼を少し過ぎた頃、表の広場が騒がしくなった。
「よお、マリカ!」
その声を聞いただけで、箒を持つ手が勝手に止まった。ジョウと、ガニーと、ポンチョス。三日前に大通りで見たのと同じ並びで、三人が工場へ入ってくる。ただ、今日はやけに機嫌がよかった。とくにジョウは、言いたいことが喉まで詰まっていて、誰かに聞いてほしくてたまらないという顔をしている。あの顔のジョウから、僕にとっていい話が出てきたことは一度もない。
マリカは作業台で、分解した部品を一つずつ布で拭いていた。顔を上げる。
「あれ、ジョウ。どうしたの? 三人揃って」
相手がジョウたちでも、マリカは怖がらない。昔からそうだ。誰に対しても、だいたい同じ調子で話す。僕はそこが好きだった。好きだったんだと、あとで思い知ることになる。
「ちょっとお前に話があってな」
ジョウは格好をつけて作業台に寄りかかり、工場の中を見回した。目が合った。目を逸らすのが一拍遅れた。しまった、と思ったときには、ジョウの口の端がゆっくり持ち上がっていた。
「おっと。いたのか、お前」
「……仕事だから」
「仕事ねえ。床掃除が?」
ガニーが吹き出した。
「ぎゃはは! 仕事だってよ!」
ジョウは二、三歩こちらへ寄ってきて、僕を上から下まで眺めた。継ぎ当てだらけの服。擦り切れた靴。痩せた腕。値札でも探すみたいな目つきだった。
「相変わらずひでえ面だな。なんだその目の下。死人かよ」
「…………」
「ちゃんと食ってんのか? ああ、食えねえのか。孤児院の残り物で育ったんだもんな。そりゃそんなひょろひょろにもなるわ」
ガニーがまた笑い、ポンチョスも笑った。
「は、はは……ジョウさん、さすがにそれは言いすぎっすよ……」
言いすぎだと言いながら、ポンチョスの口も笑っている。どっちなんだよ、と思った。思っただけだった。
耳の後ろが熱くなって、箒の柄を握る手に汗がにじんだ。言い返す言葉なら、頭の中にいくらでも浮かんでいた。残り物でも食べ物は食べ物だ。お前こそ親父の金で食ってるだけじゃないか。でも、口から出したらどうなるかも、同じくらいはっきり見えていた。ガニーの拳が飛んできて、僕はこの油の染みた床に転がる。三日前と同じだ。いつもと同じだ。だから黙る。黙るのだけは、昔から上手だった。
ジョウは、もう飽きたというように僕から目を離して、マリカへ向き直った。
「まあいいや。こいつのことなんかどうでもいい。マリカ、聞けよ」
わざとらしく、一度間を置く。
「俺な、ハンターになるんだよ」
「え?」
「本物のハンターだ。町の周りをうろついてるだけの守備隊じゃねえ。戦車に乗って外へ出る」
それから、顎で僕を示した。
「そこで見てる、いつまで経っても『戦車乗りになりたい』って言ってるだけのあいつとは違ってな」
「ギャハハ! 違えねえ!」
ガニーの笑い声が、工場の高い天井に跳ね返った。奥の職人たちがちらりとこちらを見て、見なかったことにして、作業に戻った。
違わない、と思ってしまったのがいちばん悔しかった。言い返せないのは、ガニーが怖いからだけじゃない。ジョウの言ったことが、全部本当だからだ。僕は何年も戦車乗りになりたいと言い続けて、今日まで何一つ始めていない。
そのとき、マリカと目が合った。
ほんの一瞬だった。それだけで、胸の奥がすっと軽くなった。マリカなら。マリカだけは、ちゃんと分かってくれている。だって、昔から――。
マリカは、すっと目を逸らした。
軽くなったはずの胸の奥に、冷たいものが一滴落ちた。
「それでな。町が新しい戦車を買うことになったんだよ」
ジョウが得意げに続けた。
「防衛強化だとさ。今まで使ってた戦車じゃ、さすがにもうガタが来すぎてるってことでな。新しいのを守備隊に入れるらしい」
「ああ、あのおんぼろ?」
「そう、それだよ。七年前の騒ぎのときにも出たっていう年代物だ。新しいのが来たら古い方はいらなくなる。だから親父に言って、俺に回してもらうことになった」
――戦車。
心臓が一つ、大きく跳ねた。跳ねてから、跳ねた自分が嫌になった。ジョウの話で、なんで僕の心臓が跳ねるんだ。
守備隊の古い戦車なら、僕も何度も見ている。錆が浮いて、走るたびにがたがたと、今にもどこか外れそうな音を立てる、あれだ。七年前のあの夜にも出た、とジョウは言った。炎の方へ向かっていった戦車の、どれかなのかもしれない。
それでも戦車は戦車だった。僕が何年もガラス越しに眺めるみたいに欲しがって、指一本触れられなかったものを、ジョウは「親父に言って」で手に入れた。たったそれだけで。
ずるい、と思った。口には出さなかった。出したら、もっと惨めになるのが分かっていた。
「かなりボロいけどな。でも親父が言うには、きっちりオーバーホールすりゃまだ十分使えるらしい。そこで、お前だ」
ジョウがマリカを指さした。
「マリカ。俺と一緒にハンターやらねえか?」
「私?」
「ああ。戦車で旅するなら、修理できるやつは絶対にいた方がいい。町から離れたところで故障して、『修理屋まで持っていけません』じゃ話にならねえからな。お前なら親父さんにずっと仕込まれてる。最初にきっちり直してもらえるし、旅の途中で調子が悪くなっても見てもらえる」
悔しいことに、言っていることは正しかった。戦車は壊れる。古い戦車ならなおさらだ。どれだけ強い大砲を積んでいても、動かなくなればただの鉄の塊になる。腕のいい修理工を仲間にするのは、ハンターとして理にかなっている。僕だってそうする。僕が誘うなら、やっぱりマリカを誘う。
――でも。
ジョウの目は、話しているあいだも何度もマリカの顔や身体のあたりを行ったり来たりしていた。修理工が要るのは本当だろう。でも、それはジョウにとって、マリカを連れ出すのにちょうどいい言い訳でもある。それが分かるのは、たぶん僕も同じ目でマリカを見たことがあるからだ。そう気づいて、少し気分が悪くなった。
「外に出りゃ金も入る。賞金首を倒せば一発で大金だ。こんな工場で一生油まみれになってるより、ずっと面白いぜ」
ジョウは笑っていた。自分には戦車がある。町長の息子で金もある。守備隊で戦い方も覚えた。だから自分が誘えば、マリカもついてくる。顔に、そう書いてあった。
でも僕は、そのときになって、むしろ少しほっとしていた。
マリカが行くわけがない。
小さい頃から、ずっと一緒だった。父さんがまだ農業区のみんなをまとめていた頃、工場の裏のくず鉄の山で、日が暮れるまで宝物を探した。針金の指輪を作って、大きくなったら結婚してあげる、と言ってくれた。
もちろん子供の頃の話だ。マリカが覚えているかどうかも分からない。でも僕は覚えている。床板の隙間の布袋の中に、今もある。それに、もしかしたら。ほんの少しくらいは、マリカだって――。
だから、次の言葉が耳に入っても、それが言葉だと分かるまでに少しかかった。
「いいわよ」
「…………え?」
自分の口から声が漏れたことに、自分で驚いた。
マリカはこちらを見なかった。少し考えるような顔をして、それから、ぱっと笑った。
「ハンターかぁ。いいじゃない。私も一度、外を見てみたかったし。賞金首とか倒したら、私たち金持ちになれるかもね」
「だろ?」
ジョウの顔が一気に明るくなった。
「話が分かるじゃねえか!」
私たち、とマリカは言った。その「たち」の中に、僕は入っていなかった。
それからジョウは、思い出したように付け足した。
「しかもな、屑鉄の丘にもう一台、戦車があるらしい」
「え、本当に?」
「あるらしいぜ。ただし、その辺りにでけえ狼が住み着いてる」
ジョウは大したことでもないように続けた。
「崩れ狼って呼ばれてるやつだ。身体が半分溶けたみてえになってる、馬鹿でけえ狼なんだとよ。たまに町の近くまで出てきて、輸送隊を襲うことがある。それで賞金首になってる」
崩れ狼。名前くらいは知っていた。屑鉄の丘の奥にいる化け物で、何人かのハンターが探しに入ったこともあるらしい。ふだんは奥からほとんど出てこない。出てきて輸送隊を襲ったかと思えば、またしばらく姿を消す。そのせいで討伐も進んでいない。
ジョウは、それをまるで逆の意味に受け取っていた。
「まあ、賞金首っつっても大したことねえだろ」
「そうなの?」
「本当に強えなら、もっと町の近くまで出てきて暴れ回ってるだろ? たまにしか出てこねえってことは、普段は奥に引っ込んでる臆病者ってことだ。今まで倒されてねえのも、強いからじゃなくて見つけにくいだけなんじゃねえか?」
「違いねえ! 兄貴の戦車見たら逃げ出すんじゃねえか?」
「逃がさねえよ」
ジョウも笑った。
「こっちは戦車だぜ? 見つけたら主砲をぶち込んで終わりだ。そのついでに賞金もいただく。それから奥にある戦車も回収する。いきなり戦車二台持ちだ」
あんまり簡単そうに言うので、聞いているうちに、本当にそうなる気がしてきた。そういうところが、ジョウのいちばん嫌なところで、いちばん敵わないところだった。
「二台……」
マリカの目がきらきらしていた。
「その二台目、どんな戦車なの?」
「知らねえ。だから見に行くんだよ」
「動くの?」
「そこはお前の仕事だろ?」
「簡単に言わないでよ。旧文明の頃のものだったら、私にだってどうにもならないかもしれないんだから」
文句を言いながら、マリカはもう笑っていた。新しい機械を見つけたときの顔だ。子供の頃、くず鉄の山からよく分からない部品を掘り出したときにしていた顔。僕はその顔を、いちばん近くで何度も見てきた。今その顔が向いているのは、ジョウの話の先だった。
「まず一週間くらいしたら、町の古い戦車をここへ持ってくる。そいつを使えるようにしてくれ。そこから屑鉄の丘だ」
「状態見てからね。動かして壊れても私のせいにしないでよ」
「分かってるって。頼りにしてるぜ、マリカ」
頼りにしてる。修理工として、というのは嘘じゃないんだろう。でも、それだけでもない。分かっているのに、何もできずに箒を握っている自分に、いちばん腹が立った。
「絶対でけえ賞金首を倒してやるよ。戦車にもっとでけえ大砲積んで、出てくるモンスター全部吹っ飛ばしてやる。俺も、お前も、こいつらも、みんな金持ちだ!」
「ジョウの兄貴についてきゃ間違いねえぜ!」
ガニーがすかさず持ち上げ、ポンチョスが少し遅れて「そうっすね!」と笑う。ジョウはますます気をよくした。
「俺たちは運がいいんだよ。こんな時代だからこそ、腕一本で上まで行ける。うちの兄貴はそのうち親父の跡を継いで、この町の町長になるんだろうよ。でも俺はこんな小せえ町で終わる気はねえ。でけえ賞金首を倒して、もっといい戦車を手に入れて、名前を売って――俺を知らねえやつなんか一人もいなくなるくらい、でけえ存在になってやる」
そこで、マリカを見た。
「お前にも見せてやるよ。こんな町にいたんじゃ一生見られねえもんをな」
マリカは、まんざらでもなさそうに笑った。
戦車。ハンター。賞金首。大砲。知らない町を回る旅。
全部、僕の言葉だった。夜のボロ屋で何度も繰り返して、工場の裏でマリカにも話して、そのたびに「はいはい」と笑われてきた言葉だ。それが今、ジョウの口から出てきて、マリカはそれを、目を輝かせて聞いている。言っていることは同じなのに、口にするのがジョウだと、マリカはこんな顔をするのだ。
気がつくと、箒を握ったまま、一歩前へ出ていた。
「マ、マリカ」
声が裏返った。最悪だった。工場じゅうの目が、いっせいに僕に向いた。
「なに?」
「あの……本当に、行くの?」
「行くけど。何よ」
「でも、その……」
やめておけ、と頭のどこかで誰かが言っていた。今それを言ったら、取り返しがつかなくなる。分かっていた。分かっていたのに、喉の奥まで来ていたものが、勝手に転がり出た。
「昔、約束したじゃないか。倉庫の裏で、針金の指輪作って……僕が戦車乗りになったら、隣に乗ってくれるって……」
工場の中が、しんとした。
奥で鳴っていた金槌の音まで止んだ気がした。マリカがきょとんとした顔で僕を見ている。一秒。二秒。その二秒のあいだ、僕はまだ、ほんの少しだけ期待していた。マリカが「覚えてたの?」と言って、困ったように笑ってくれるのを。
「……え?」
マリカが吹き出した。
「え、あれ本気にしてたの? 子供の頃の話でしょ」
口元を押さえて、肩を揺らしている。
「やだ、気持ち悪い。何年前の話よ、それ。まさかずっと覚えてたわけ?」
「ぎゃははははは! マジかよお前!」
ガニーが腹を抱えた。しゃがみこんで、工場の床を手のひらで叩いている。
「指輪だってよ! 針金の! うわ、たまんねえ!」
「お前、そんなのずっと大事に持ってたりしねえだろうな?」
ジョウがにやにやしながら言った。
何も言えなかった。ここで黙っていたら、持っていると白状しているのと同じだった。
「うわ、持ってんのかよ! 気持ち悪っ!」
「ちょっと、やめてよジョウ。こっちが恥ずかしくなるじゃない」
マリカが笑いながらジョウの腕を叩いた。軽く、慣れた手つきで。僕の知らないあいだに、二人はもう、そういうふうに触れ合う仲になっていた。
「あのね」
マリカが僕に向き直った。笑いはもう引っ込んでいた。代わりにあったのは、呆れと、少しの苛立ちだった。
「戦車乗りになりたいって、私が何年聞かされてきたと思ってんの? 十歳の頃から、ずっとよ。ずーっと同じこと言ってて、何かした? 戦車探しに行った? 銃の練習した? してないでしょ。くず鉄拾って、床掃除して、それだけじゃない」
「…………」
「ジョウは口だけじゃないもん。ちゃんと守備隊で戦い方覚えて、戦車も手に入れて、本当に外へ出ようとしてる。あんたとは違うの」
小さく肩をすくめる。
「悪いけど、私、口だけの人の隣に座ってるほど暇じゃないから」
ガニーの石なら、まだよかった。石は当たったところが痛むだけだ。今の言葉は、どこに当たったのかも分からないのに、身体じゅうが痛かった。
顔を上げられなかった。足元の床ばかりが見えた。さっきまで僕が擦っていた、まだ油の染みが少し残っている床だ。
ポンチョスが、気まずそうに目をさまよわせていた。何か言いかけて、やめて、結局「は、はは」と曖昧に笑った。
「じゃあな。戦車持ってきたら驚くぜ」
ジョウは上機嫌で、ガニーとポンチョスを連れて出ていった。ガニーはまだ笑っていた。広場へ出てからも、「指輪だってよ」という声と笑い声が、しばらく聞こえていた。
三人がいなくなっても、足が床に貼りついたように動かなかった。
奥の職人たちは、何事もなかったように作業を続けていた。誰も何も言わなかった。何も言われないのが、ありがたくて、同じくらいみじめだった。
マリカはもう作業台に戻ろうとしていた。気づくと、僕はそのそばまで歩いていた。何を言いたいのかも分からないまま。
「マリカ……」
「何? まだ何かあるの?」
手は止まらなかった。
「僕は……僕も、戦車……」
その先が出てこなかった。僕だってハンターになる。僕だって戦車乗りになる。言いたいのはそれだけなのに、口にしようとした瞬間、頭の中で別の声がした。――いつ?
戦車なんてない。買う金もない。仲間もいない。明日の予定は、屑鉄の丘でくず鉄を拾うことだけだ。その次の日も、たぶん同じだ。
「あんたもハンターになるんだっけ?」
「……うん」
「ああ、そっか。戦車も持ってないし、何年かかるか分かんないけど」
そして、あっさりと言った。
「まあ、頑張りなよ」
怒られた方が、まだましだった。
マリカはもう、ジョウたちが出ていった方を見ていた。
「ああ、楽しみだなあ。戦車かぁ……どんなのだろ」
その横顔を見て、ようやく分かった。
僕がずっと夢見ていた旅に、マリカは行く。
ただ、その隣にいるのは僕ではない。
僕より先に夢をつかんだ、ジョウだ。
夕方、親方が寄り合いから戻ってきた。工場の中をひと目見回して、それから僕の顔を見て、眉を寄せた。
「何かあったか」
「……何もないよ」
親方は何も聞かなかった。黙って日当を渡してくれた。手のひらの上で数えるまでもなく、いつもより少しだけ重かった。それで、職人の誰かが話したんだと分かった。ありがとう、と言おうとしたら、声が震えそうだったので、頭だけ下げた。
ボロ屋に帰ると、床板の隙間の、貯金の缶の隣から小さな布袋を引っぱり出した。中から、煤で黒くなった針金の輪が出てくる。
指にはめてみた。あの日はぶかぶかで、すぐに抜け落ちそうだった輪が、今は第一関節で止まって、それ以上入らなかった。七年分、僕の指だけが勝手に大きくなっていた。
捨てよう、と思った。
窓を開けて、腕を振り上げた。外は暗くて、どこへ落ちたかなんて誰にも分からない。明日の朝には、もう誰にも見つからない。
手が、開かなかった。
腕を振り上げたまま、ずいぶん長いこと立っていた気がする。夜風が入ってきて、目が乾いて、痛くなった。それでも指は、針金を握ったまま、少しも言うことを聞かなかった。
窓を閉めて、輪を布袋に戻して、床板の隙間に押し込んだ。
気持ち悪い、とマリカは言った。
本当にそうだと思った。捨てることもできない僕が、いちばん気持ち悪かった。
その夜も、眠れなかった。
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