石つぶてと針金の指輪
本日2話目の更新です。12時にも更新しています。
朝の通りは、宿場町らしい騒がしさで満ちていた。夜明け前に着いた輸送車が宿の前に並び、運転手たちが眠そうな顔で荷を下ろしている。食堂からはスープの匂いが漂い、商店の主人が店先に品物を並べている。大通りは戦車や輸送車がすれ違えるだけの幅があるので、町の店はたいていこの通りに面していた。
眠れなかった夜の翌朝は、身体が重い。目の奥がじんと痛んで、まぶたが砂を詰めたみたいにざらつく。それでも足取りは、いつもより少しだけ軽かった。工場へ向かう道だからだ。
通りの先で、怒鳴り声が上がった。
見ると、八百屋の前で小さな男の子が尻もちをついていた。行商の家の子だろう。地面には籠がひっくり返り、干した果物が散らばっている。その前に、見覚えのある背中が三つ並んでいた。
「ちんたら歩いてんじゃねえよ。邪魔だろうが」
ガニーだ。守備隊員の家の息子で、僕よりもずっと背が高い。肩幅も広く、腕は丸太のように太い。髪はいつも伸び放題のぼさぼさで、櫛を通したところなんて見たことがない。昔から腕っぷしを鼻にかけていて、自分より立場の弱い人間には平気で手を出す。僕の大嫌いなやつだ。
ガニーは散らばった果物の一つを拾い上げ、齧った。
「お、うめえじゃねえか。もらっとくぜ」
「か、返して……それ、売り物……」
「あ? なんか言ったか?」
ガニーが身をかがめて男の子の顔を覗き込む。男の子は唇を震わせて、何も言えなくなった。
その横で、もう一人が困ったように頭をかいていた。ポンチョスだ。大通りから外れた路地にある、小さな定食屋の息子だ。
「お、おいガニー。そのくらいにしとくっすよ。人が見てるっす」
口では止める。けれど本気で止めようとはしないし、拾った果物を籠に戻してやるわけでもない。悪いやつではない――と思いたいけれど、まともに話したこともないので、実際のところは分からない。
二人の少し後ろに立っているのが、ジョウだった。町長の次男。ガニーほど大柄ではないけれど、僕よりはずっと背が高く、身なりもいい。継ぎ当てのない上着に、手入れの行き届いた革の靴。茶色の髪を短く刈って、つんと立てている。顔立ちは整っていて、それを本人もよく分かっているような、どこか気取った顔つきだった。気の強そうな、吊り上がった灰色の目をしていた。
自分から誰かを殴ることは、ほとんどない。ただ、ガニーが誰を殴ろうが蹴ろうが、本気で止めることもない。今もつまらなそうな顔で、尻もちをついた男の子を眺めているだけだった。ガニーが町で好き勝手できるのも、半分はこの人の後ろにくっついているからだ。何か問題になれば、ガニーは「ジョウの兄貴もいいって言った」と、責任までジョウに押しつける。
ジョウたちはポンチョスの家の定食屋をたまり場にしていて、ポンチョスもいつの間にか、その取り巻きのようになっていた。ジョウとガニーは、この一年ほど守備隊の仕事まで手伝っている。ポンチョスも、その荷物持ちとしてついて回っている。銃の扱いを習い、町の周囲を見回り、ときには弱いモンスターを追い払う。それで以前にも増して、町の中で幅を利かせるようになった。修理工場の親方や宿場の元締めは何度も苦言を呈しているらしいが、あまり効いてはいない。何よりジョウは町長の息子だ。次男とはいえ、真正面から揉めたがる人間は少なかった。
八百屋の主人は、店の奥で見て見ぬふりをしていた。通りを行く人たちも、足を速めて通り過ぎていく。
僕も、同じだった。
助けなきゃ。頭ではそう言っているのに、足が前に出ない。あの三人の前に出て、何を言う? 何ができる? ガニーに一発殴られて、地面に転がるだけだ。それで果物が戻ってくるわけでもない。言い訳が、頼んでもいないのに次から次へと頭の中に並んでいく。こういうときだけ、僕の頭はやけに働きがいい。
うつむいて、三人の脇を通り過ぎようとした。
その瞬間、後頭部に硬いものがぶつかった。
「いっ……!」
目の奥で白い火花が散った。反射的に頭を押さえる。足元を、小石が乾いた音を立てて跳ねていった。
「やっべえ! 当たっちまったぜ!」
ガニーの笑い声が響いた。振り返ると、ガニーが二つ目の小石を手の中で弄んでいた。
「なんだ、お前か。こそこそ通り過ぎようとしてっから、ネズミかと思ったぜ」
「お、おいガニー……」
ポンチョスがまた口だけで止める。ジョウは、ちらりとこちらを見ただけだった。
「なんだよ。文句でもあんのか?」
ガニーが近づいてくる。見下ろされる。僕の頭の上に、影が落ちる。汗と、齧った果物の甘い匂いがした。
「……いや。別にないよ」
「だったらどけ。目障りなんだよ」
肩を乱暴に突かれて、よろけた。ガニーは鼻で笑うと、齧りかけの果物を道端に放り捨て、ジョウたちと一緒に歩いていった。
その背中に向かって、つまずけ、と念じた。石につまずいて、顔から地面に突っ込め。
ガニーは、つまずかなかった。
三人がいなくなってから、僕は散らばった果物を拾い集めて、男の子の籠に戻した。男の子は泣きそうな顔で僕を見上げて、小さな声で「ありがと」と言った。
礼を言われるようなことは、何もしていない。
三人が行ってしまったあとで、拾っただけだ。
「ありがと」が、さっきの小石よりも重たく頭に残った。
修理工場は、大通りの中ほどにある。町の規模に比べればかなり大きな建物で、戦車を四台並べて同時に整備できる。四つある整備場の大きな扉はいつも開け放たれていて、中からは金属を叩く音や、エンジンの唸りが絶えず聞こえてくる。工場の前の広場には、修理を待つ輸送車や、燃料を入れに来た車が並んでいた。レイラインで燃料を売っているのはここだけだから、朝から晩まで車の出入りが途切れない。
「おう、来たか」
油まみれの作業着を着た、がっしりした男が手を上げた。修理工場の親方、ステンさんだ。短く刈った髪に少し白いものが出始めた、日に焼けた顔。太い指は、どこもかしこも黒い油が染みついている。いつからか、僕は親方と呼ぶようになった。
「おはよう、親方」
「おう。……なんだ、その頭」
「え?」
「瘤ができてるぞ」
思わず後頭部に手をやる。触ると、ずきりと痛んだ。
「……ちょっと、ぶつけて」
「ぶつけた、ねえ」
親方は何か言いたげに眉を寄せたが、それ以上は聞かなかった。たぶん、だいたいの見当はついているのだろう。代わりに、大きな手で僕の肩を一度だけ叩いた。油の匂いのする、重たい手だった。
「ほれ、今日は三番ベイの床からだ。油がひでえことになってる。終わったら倉庫の部品の仕分けな」
「分かった」
仕事は掃除や荷物運び、工具を取ってくるような簡単なものばかりだ。機械のことはほとんど分からない。それでも親方は昔から僕を知っていて、仕事の日には昼飯まで食わせてくれる。父さんがまだ生きていた頃、父さんは農業区で使う道具を直しに、よくここへ通っていた。僕はその後ろにくっついてきては、工場の中を走り回って親方に叱られた。
そして、ここにはマリカがいる。
マリカは三番ベイの奥で、輸送車の下に潜り込んでいた。足だけが車体の下から出ている。工具がこすれる音と、ときどき小さく舌打ちする声が聞こえる。
「おはよう、マリカ」
「ん、おはよ。ちょっと待って、今いいとこ……よし、外れた!」
車体の下から、マリカが滑り出てきた。後ろで束ねた赤い髪が、肩の上で揺れた。少し垂れた、はしばみ色の目が、僕を見上げる。頬にも額にも黒い油の筋がついている。それでも、やっぱりかわいい。そう思った途端に耳が熱くなって、僕は慌てて箒を探すふりをした。
マリカは昔から目立つ子だった。同世代の連中が集まれば、いつの間にかその真ん中にいるのは、だいたいマリカだった。よく笑うし、物怖じもしない。男連中に混じって遊んでいても平気で言い返すし、気づけばみんなを引っぱっている。今では町の若い男たちがマリカを意識していることくらい、僕にだって分かる。あいつらと一緒にされたくない。そう思いながら、たぶん僕も、その一人だった。
だからといって、親方の娘として甘やかされているわけでもない。修理工場では誰よりも油まみれになって働いている。重たい工具を運び、分からないことがあれば親方に聞き、怒鳴られればむっとしながらも言われたところをやり直す。機械いじりそのものが好きなのだろう。僕が掃除や荷物運びをしている横で、マリカは親方の手元を真剣な顔で覗き込み、少しでも技術を盗もうとしている。この辺りの簡単な車両や機械なら、もう一人でもかなり触れるらしい。親方は本気で、自分の技術を娘に仕込んでいるのだと思う。
床にこびりついた油を、砂と布で擦り落としていく。膝をついて、腕に力を込めて、何度も何度も。瘤がずきずきと脈を打つ。単調な仕事だ。でも、マリカのいる場所で働けるなら、悪くなかった。
昼になると、親方が食堂から鍋ごとスープを運んできた。食堂の名物の「塩豆汁」だ。干し豆と干し肉の切れ端を、たっぷりの塩で煮込んだスープで、汗を流して働く男たちのために、わざと塩辛く作ってある。いつもなら具はそれだけだ。
でも今日は、刻んだ青い葉っぱと、赤い皮の芋がごろごろ沈んでいた。アカリ菜とスナ芋。西の砂漠の町から輸送隊が運んでくる野菜だ。アカリ菜は煮てもしゃきっとしていて、噛むと青い香りが鼻へ抜ける。スナ芋は甘みこそほとんどないけれど、拳ほどもあって、匙で割るとほくほくに崩れ、塩辛いスープをたっぷり吸う。一つ食べれば夕方まで腹がもつ。農業区の、親指ほどの痩せた芋とは、まったく別の食べ物だった。
親方は、西の荷が入った日には、こうして「スナ芋入り」を頼んで、少しだけ奮発してくれる。それに黒パンが一つずつ。工場の隅の作業台を囲んで、親方とマリカと、ほかの職人たちと一緒に食べる。
僕にとっては、ごちそうだった。
黒パンをスープに浸して、一口ずつゆっくり噛む。急いで食べるともったいない。親方が「おかわりあるぞ」と言ってくれたので、遠慮するふりを一回だけしてから、もう一杯もらった。お腹の底が温かくなる。ゆうべから黒パン半分しか入っていなかった腹に、じんわりと染み込んでいく。
「あんた、相変わらず幸せそうに食べるわね」
マリカが頬杖をついて、僕を見ていた。
「そ、そうかな」
「そうよ。犬みたい」
マリカは笑った。僕もつられて笑った。犬でもいいや、と一瞬でも思ってしまったことは、黙っておいた。
休憩の時間には、いつものように他愛のない話をした。今朝来た輸送車が西の砂漠の方から来たらしいこと。親方が新しい工具を欲しがっているけれど、高くて手が出ないこと。宿場に泊まっているハンターが、東の方で大きな賞金首を仕留めたらしいこと。
ハンターの話になると、僕はどうしても口を挟まずにはいられなかった。
「僕さ、いつか戦車乗りになりたいんだ」
昔から何度も言っている言葉だ。
マリカは、いつものように笑って聞いてくれた。
「はいはい。頑張ってね」
その「はいはい」に、少しだけ呆れが混じっていることには気づいていた。気づかないふりをして、スナ芋の最後のひとかけを口に入れた。さっきまであんなにほくほくしていたのに、なぜか味がしなかった。
午後の仕事は、倉庫での部品の仕分けだった。棚の奥から箱を引っぱり出し、ボルトやナットを大きさごとに分けていく。倉庫の窓から差し込む光の中で、埃がきらきらと舞っていた。
箱の底に、細い針金の切れ端が絡まっていた。
指先がそれに触れた瞬間、昔のことを思い出した。
七年前。あの夜の、その日の昼のことだ。僕は父さんにくっついてこの工場へ来て、親方と父さんが話し込んでいる間、マリカと二人で倉庫の裏で遊んでいた。くず鉄や部品の切れ端が山になっている場所で、僕たちはそこから宝物を探すのが好きだった。
あの日、マリカが針金で小さな輪を二つ作って、片方を僕にくれた。大きくなったら、あんたと結婚してあげる。その代わり、あんたが戦車乗りになったら、隣に乗せてね。
その夜の夕飯で、父さんと母さんに見せた。母さんが笑って、父さんが僕の頭をぐしゃぐしゃにした。あれが、三人で食べた最後の夕飯になった。
あの輪は、煤で黒くなったまま、今もボロ屋の床板の隙間の、布袋の中にある。貯金の缶の隣に。
だから僕は、ずっとどこかで信じていた。マリカも、あの約束を覚えているんじゃないか。いつか僕が本当に戦車乗りになったら、マリカは僕の隣に乗ってくれるんじゃないか。
そんなことを考えながら、箱の底の針金の切れ端を、そっと指でつまみ上げた。
「何ぼーっとしてんの。終わった?」
倉庫の入口から、マリカが顔を出した。
「あ、う、うん。もうちょっと」
指の中の針金を、背中に隠しそうになった。隠す理由なんて、どこにもないのに。
ねえ、覚えてる? 喉まで出かかったその一言を、僕は飲み込んだ。
「早くしてよね。父さん、今日は早めに閉めるって言ってたから」
マリカはそれだけ言って、すぐに引っ込んでいった。
僕は針金の切れ端を箱に戻して、仕分けの続きに戻った。
その日は、それで終わった。夕方に仕事を上がり、親方から日当を受け取って、ボロ屋に帰った。何も変わらない一日だった。
――その三日後までは。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になると思っていただけたら、ブックマークや、下の☆☆☆☆☆からの評価をいただけると励みになります。




