ねず団子の日
本日は2話更新です(12時・20時)。
孤児院は、七年前にデションに連れてこられた日と変わらず、斜面の坂の途中に建っている。壁はところどころひび割れていて、そのひびを継ぎ当てるように粘土が塗り込められている。窓の半分には、ガラスの代わりに板が打ちつけてある。庭と呼ぶには狭すぎる空き地には洗濯物がずらりと並んでいて、どれも小さかった。継ぎ当てだらけの、小さな服ばかりだ。
門をくぐるより先に、子供たちの声が飛んできた。
「あっ、来た!」
「にいちゃん!」
洗濯物の間から、小さな子たちがわらわらと駆け寄ってくる。五歳くらいの子もいれば、まだ足元のおぼつかない子もいる。僕の脚にしがみつき、袋を覗き込み、何が入っているのかと口々に聞いてくる。脚が重くて、前に進めない。
「パンと豆だよ。先生に渡すから、勝手に開けちゃだめだぞ」
「えー」
「えーじゃない」
いちばん小さい女の子が、僕の服の裾をつかんだまま離さない。去年の冬に連れてこられた子だ。両親を荒野で亡くしたと聞いている。来たばかりの頃は、夜になると泣いてばかりいた。今は少しだけ笑うようになって、頭を撫でると、くすぐったそうに首をすくめる。
「騒がしいと思ったら、あなたでしたか」
建物の戸口から声がした。
イトマール先生だ。
髪に交じる白いものは増えたけれど、背筋をまっすぐに伸ばした立ち姿は、初めて会った日から少しも変わっていない。年は六十を過ぎているはずだ。袖をまくった腕は痩せていて、洗濯と炊事と子供たちの世話で休む間もなく働き続けてきた手は、あの頃よりさらに硬くなったように見えた。
「先生、これ」
袋を差し出すと、先生はそれを受け取る前に、中を一度だけ確かめた。それから、僕の顔を見る。
「あなた、自分の分は買いましたか」
「買ったよ」
「本当に?」
「本当だよ。ほら」
懐から自分の分の黒パンを出して見せる。先生はしばらくそれを見つめて、それからようやく袋を受け取った。疑われるのは慣れている。この人の前で嘘をついて、ばれなかったことが一度もないからだ。
「……ありがとう。助かります。でも、自分の分を削ってまで持ってくるのはおやめなさい。あなたはもう、ここの子ではないのですから」
「分かってるよ」
「分かっている顔ではありませんね」
先生はそう言って、袋を抱えたまま建物の中へ戻っていった。背中を向ける直前、口元が少しだけ緩んでいた。
子供たちに引っぱられるようにして、僕も中へ入った。
中は相変わらず薄暗い。板を打ちつけた窓からは、細い光しか差し込まない。食堂の長い机には、傷と染みがびっしりとついている。僕がここにいた頃と同じ机だ。端の方に、子供の頃の僕が釘で引っかいた落書きがまだ残っていた。下手くそな戦車の絵だ。砲身が長すぎて、どう見ても物干し竿を背負ったカメだった。
この机で、六年間ご飯を食べた。
ご飯は、いつも足りなかった。
孤児院には、ハン協や町からの寄付が届く。デションが個人的に持ってきてくれる食料もある。それでも子供の数に比べれば、いつも少しずつ足りなかった。先生は届いた食料を、子供の数で、きっちり等しく分けた。大きい子にも、小さい子にも、同じだけ。泣いている子にも、黙っている子にも、同じだけ。誰か一人だけ多くもらうことは、絶対になかった。
最初の頃、僕は自分の皿が少ないことが信じられなかった。家にいた頃は、母さんが芋をもう一つ載せてくれた。父さんが自分の皿から肉を分けてくれた。お腹いっぱいになるまで食べるのが当たり前だったのに、ここでは、それが当たり前ではなかった。
それでも、皿の上のものは全部食べた。食べなければ、明日の分まではもらえないからだ。
年長になると、今度は小さい子に譲るようになった。誰に言われたわけでもない。小さい子がお腹を空かせて泣いているのを見ると、自分のパンを半分ちぎって渡さずにはいられなかった。先生はそれを見て、一度だけ「自分の分は自分で食べなさい」と言った。それでも僕がやめないのを見ると、もう何も言わなかった。
代わりに、次の日の僕の皿には、ほんの少しだけ多く豆が載っていた。その次の日には、もう元に戻っていた。先生にとっての精一杯の「ずる」だったのだと、今なら分かる。
お腹が空いているのは、まだ我慢できた。
我慢できなかったのは、夜だった。
ここに来たばかりの頃、僕は毎晩のように夢を見た。燃える町。真っ青な炎。二本の脚で地面を蹴って迫ってくる、巨大な鳥のような化け物。父さんの背中が遠ざかっていく。母さんが僕を突き飛ばして、笑って、青い炎の中に消える。そこで目が覚める。叫び声が喉までせり上がってきて、慌てて両手で口を押さえる。大部屋には、ほかの子たちが寝ているからだ。
布団の中で、声を殺して泣いた。
ときどき、先生が来てくれた。暗い中を足音もなく歩いてきて、僕の背中に手を置いてくれた。荒れた、硬い手だった。でも温かかった。その手が背中にあるあいだだけは、青い炎のことを少しだけ忘れられた。
けれど、先生の手は一つしかなかった。
別の布団から、別の子の泣き声が上がる。先生の手が、僕の背中から離れる。足音が遠ざかっていく。僕はまた一人で、暗い天井を見上げる。
暗闇の中で、僕はその子を恨んだ。顔も見えない、名前もよく覚えていない子を。泣き声を上げるのが、僕より上手だというだけで。次の朝、その子の顔をまともに見られなかった。
先生は悪くない。分かっている。泣いているのは僕だけじゃなかった。親を亡くした子ばかりが集まっている場所だ。誰もが同じように夜を怖がっていた。先生は、自分の手を、愛情を、みんなに等しく分けるしかなかったのだ。食べ物と同じように。
母さんが抱きしめてくれたような温かさは、もう誰からも独り占めできない。それが、ここで最初に覚えたことだった。
それから、あまり泣かなくなった。泣いても、誰も来ないことの方が多いからだ。欲しいものがあっても、欲しいと言わなくなった。言っても、みんなに等しく分けられるだけだからだ。我慢していた方が、黙っていた方が、ずっと楽だった。
そうやって何年も過ぎた。
気がつけば僕は、何かを強く欲しがることが、ひどく苦手な人間になっていた。
「――聞いていますか」
先生の声で、我に返った。いつの間にか、先生が机の向こうに立っていた。
「あ、ごめん。何?」
「その顔です」
先生は自分の目の下を、指でとんとんと叩いた。
「また眠れていないのでしょう。ひどいクマですよ」
「……ちょっと寝つけなかっただけだよ」
「ちょっと、ではありませんね。ここにいた頃から、ずっとです」
返す言葉がなかった。先生は、僕が夜中に何度も飛び起きていたことを知っている。孤児院を出てからもそれが治っていないことも、たぶん分かっている。
先生は何か言いかけた。口を開いて、閉じて、もう一度開いた。僕は机の傷を指でなぞりながら、その続きを待った。待っている自分に気づいて、少し恥ずかしくなった。
先生は結局、小さく息を吐いただけだった。
「……ちゃんと食べて、ちゃんと寝なさい。それだけです」
「うん」
それ以上、先生は何も言わなかった。言っても仕方がないと思ったのかもしれないし、言いたいことはあっても、僕だけに時間を使うわけにはいかないのかもしれない。奥で小さい子が転んで泣き出し、先生はすぐにそちらへ向かっていった。また、だ。そう思ってしまった自分に、うんざりした。
その背中を見送ってから、僕は孤児院を出た。いちばん小さい女の子が門まで追いかけてきて、手を振っていた。僕も手を振り返した。
孤児院を出たあと、僕はまっすぐボロ屋には帰らなかった。
大通りを東へ、町の外れまで歩く。大通りは、旧文明の人たちが造ったという古い堤の上を通っている。町並みが途切れた先、堤の上に、さっき遠くから見えた灰色の古い塔が一本だけ立っている。昔はこの堤の水を管理していた塔らしい。
町の人たちは、その屋上を「堤のてっぺん」と呼ぶ。ところどころ崩れかけていて、子供だけで登ってはいけないと、昔から言われている場所だった。もう子供じゃない僕を止める人はいない。塔の中の、崩れた階段の跡に手をかけ、足をかけて、てっぺんに出る。夕方にここまで登ってくる物好きは、僕のほかには誰もいない。だから、僕はここが好きだった。
ちょうど日が沈むところだった。
荒野が、赤く燃えていた。
地平線の向こうまで続く乾いた大地が、端から端まで赤く染まっている。岩も、枯れ草も、遠くに見える屑鉄の丘の影も、全部が赤い。
――あそこから見る夕日はな、荒野ぜんぶが燃えてるみたいに赤くなるんだ。
父さんの声を、今でも覚えている。
約束だ、と父さんは言った。あの夜の、夕飯の席で。
その約束は果たされなかった。収穫が終わる前に、父さんはいなくなった。父さんと一緒に登るはずだった堤に、僕は一人で登っている。孤児院を出てから、ときどきここへ来るようになった。
荒野は、父さんが言った通りに赤かった。
隣に誰もいないことだけが、言われた通りではなかった。
赤い色を見ると、もう一つ思い出すものがある。
あの夜、炎の中で踊っていた、真紅の戦車。あの戦車は、あの夜の僕にとって、たった一つの光だった。
いつか、僕も戦車に乗る。僕たちを踏みにじる奴らは、みんな僕がぶっ倒してやる。孤児院の窓辺で、そう誓った。
あれから七年。
僕は今日も、くず鉄を拾っていた。大ネズミ一匹に膝を震わせていた。黒パン二つ分の金を握りしめて、それを孤児院と半分こにしていた。床板の隙間の缶は、四十年先まで僕を待たせるつもりでいる。
戦車なんて、どこにもない。
全部ぶっ倒すどころか、誰か一人に立ち向かったことすらない。
日が沈み切ると、荒野の赤はあっという間に色を失っていった。残ったのは、冷たい風と、薄暗い岩場だけだった。僕は立ち上がり、膝の砂を払って、町へ戻った。
ボロ屋で、自分の分の黒パンを半分だけ食べた。雑穀とくず麦を固めて焼いた黒パンは、酸っぱくて、ぼそぼそしていて、噛んでいるうちに顎が疲れてくる。それを水でふやかしながら、少しずつ流し込む。物心ついたときからずっと食べてきた味だ。残りの半分は、明日の朝の分。それにも手が伸びかけて、その手を毛布の中に引っ込めた。干し豆は全部孤児院に置いてきた。水を飲んで、薄い毛布にくるまる。
目を閉じる。
眠れない。
いつものことだった。目を閉じると、まぶたの裏に青い色がちらつく。遠くで犬が吠えるだけで、心臓が跳ねる。風が戸を鳴らすだけで、何か大きなものが近づいてくる足音に聞こえる。もう七年も経ったのに。もう十七歳なのに。十七歳にもなって、風の音で布団をかぶり直している。
ようやくうとうとしかけた頃に、また夢を見た。
燃える町。青い炎。父さんの背中。母さんの笑顔。
飛び起きる。息が荒い。全身が汗で濡れている。暗いボロ屋の中には、誰もいない。背中に手を置いてくれる人も、ここにはいない。
膝を抱えて、窓の外が白み始めるのを待った。
どうして、こんなふうになったんだろう。
言うだけで、何もしていない。
明日は、修理工場で働かせてもらえる日だ。親方が昼飯を食わせてくれる。それに、マリカに会える。
それを考えると、膝を抱えていた腕から、ほんの少しだけ力が抜けた。
まさか工場へ着く前に、頭に瘤をこしらえることになるとは思ってもいなかった。
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