桁を指でなぞる
壁を下りると、町の音が戻ってきていた。雨戸が一つ、また一つと上がり、軒先に籠が出され、通りに出てきた人たちが、何事もなかったように歩きはじめる。食堂の煙突からも、また煙が上がりはじめている。ついさっきまで、壁の外に、あんなものがいたのに。月に何度か鐘が鳴って、戸を閉めて、壁の上で大砲が鳴って、また戸を開ける。それが、この町の暮らしなのだ。昨日、西の側にばかり人と金と戦車が集まっているのを見て、豊かな方へ人が寄っているだけだと決めつけていた。けれど西の側は、砂漠から来るものを、真っ先に受け止める側でもある。
「日当は、ハン協で出す。ついてこい」
班長が言った。先に立った広い背中を追いかけていると、隣を歩くレイが、僕の黒い手もとに目を落とした。
「腕は、痛みませんか」
「平気だよ、ほら」
腕をぐるぐる回してみせると、レイは、それきり何も聞かなかった。ただ、ハン協の扉をくぐるまで、帽子のつばの下の目が、ときどき僕の腕の方へ戻ってきていた。
ハン協に戻ると、ラドックさんが、帳面から顔を上げた。
「おう、戻ったか。どうじゃった」
「どうもこうもねえよ、爺さん」
班長は、机の端にどっかりと腰を下ろして、太い腕を組んだ。
「こいつ、ひょろいくせに、うちの若いのより早えんだよ。最後まで、一度も遅れやしねえ。姉ちゃんの方は……もう、何が何だか分からねえ」
ラドックさんが、白い眉の下の鋭い目で、僕の顔を、腕を、手を、じろりと眺めた。
「ほう」
それから、ぽつりと言った。
「たまにおるんじゃ、そういうのが」
「ああ、いるいる」
班長が、膝を打った。
「見た目と中身が、釣り合わねえやつがな。前にも一人いたぜ。骨と皮みてえな小僧が、大人二人がかりの荷を、一人で担いでいきやがった」
「そういうの、って……」
「なんでも、ソーマとかいうもんのせいじゃと聞く」
ラドックさんは、帳面を閉じながら言った。
「わしも、よう知らんがの。昔、グラナリーセブンから来たハンターが、酒の席でそんな話をしとった。あそこのハン協には、古い記録がようけ残っとるらしい。世界が壊れたときに、空から何ぞが降ってきて、生き物も機械も、おかしくなった。それをソーマとか呼ぶんじゃと」
ソーマ。聞いたことのない言葉だった。
「そいつが、今でもどこぞに残っとるのか、とうに消えたのか、わしには分からん。じゃが、たまにおるんじゃ。どう見ても、見た目と力が釣り合わん者がな。そういうのを見ると、あれのせいかのう、と思うわけじゃ。賞金のかかっとる化け物や、狂った機械も、そいつのせいじゃと言う者もおる。……まあ、酒の席の与太話よ。本気にせんでええ」
降ってきたもの。生き物も機械も、おかしくしてしまうもの。机の陰で、油で黒くなった手のひらを握って、開いた。もう一度、握る。どこもおかしくない。いつもの、僕の手だ。
隣で、レイが僕の方へ顔を寄せて、僕にしか聞こえないくらいの声でつぶやいた。
「……XMA」
顔を寄せたまま、レイは続けた。
「ソーマ。……なるほど。そう読めなくもありませんね」
「え?」
「昔の記録に残っていた名前を、どこかで誰かが、そう読んだのでしょう。呼び方が変わっただけで、同じものです」
XMAという言葉なら、何度か聞いている。地下でも、レイラインでも。レイラインのみんなが「汚染」と呼んでいる紫の靄は、XMAが生き物の体を通って変わってしまったものだと、レイは言っていた。ラドックさんの言うソーマは、その、変わる前のXMAのことなのだ。
ラドックさんが、鋭い目で僕を見た。
「お前さんも、そのくちかもしれんのう」
レイは、帽子のつばの下から僕の横顔を見て、小さく首をかしげた。
「……僕は、ただ、くず鉄運びで慣れてるだけですよ」
笑って言った。そういうことに、しておきたかった。握ったままの手を、机の陰で、そっと開く。
ラドックさんは、ふん、と鼻を鳴らしただけで、引き出しから日当を出してきた。受け取ってみると、サビヅノの角の駆除報酬より、ずっと多い。
「ほれ、言うたとおり、ええ仕事じゃったろ」
ラドックさんはそう言ってから、ふと、思い出したように顔をしかめた。
「そういや、お前さんらが壁の上におる間に、妙な客が来おったわい」
「妙な客?」
「鐘が鳴りっぱなしで、壁の大砲がいちばんやかましかった頃じゃ。小ざっぱりした身なりの男が、紙を一枚持って入ってきおってな。掲示板に貼らせてくれ、ちゅうてな」
ラドックさんは、掲示板の方を顎で示した。
「外じゃ大砲がどかどか鳴っとるのに、落ち着き払ったもんじゃった。紙を貼ったあとも、すぐには帰らんでな。町の様子やら壁の守りやら、あれこれ聞いていきおった」
「……誰なんですか」
「噂は、ちいと前から入っとった。何人かの連れと一緒に、見慣れん戦車やら輸送車やらで、東から来た連中じゃ。ひと月ほど前に来おってな。町の奥の、貧乏人の住む一角を、家ごとまるごと借り上げて、そこを根城にしとる。何日かおきに、町から北東の方へ出ていっては、何やら調べ回っとるらしい」
ラドックさんは、そこで、もう一度眉を寄せた。
「それと、同じ頃に、あの小僧も来おった」
「ジョウ?」
「酒の抜けん顔でな。日が高うなるまで寝とったんじゃろ。ふらふら入ってきおって、おい、これどうなってんだ、俺たちも戦うのか、ときた。もう遅いわい、と言うてやったわ」
昨日の夕方、一杯引っかけてくると言って出ていったきり、一杯では済まなかったのだろう。もう遅いわい、と言われたときのジョウの顔を、ちょっとだけ見てみたかった。
「そこへ、さっきの男が声をかけおった。戦車持ちのハンターか、と聞いてな」
ラドックさんは、口の端をゆがめた。
「最初は、渋い顔をしとったわい。昨日の今日じゃからの。砂の端でしくじったばかりで、さすがに、ほいほい乗る気にはなれんかったんじゃろ。それが、新人で戦車持ちならうってつけじゃとおだてられて、紙の依頼料を見た途端に、目の色が変わりおった。戦車持ちには上乗せもする、と言われたら、もう止まらん。男と一緒に飛び出していきおったわ」
掲示板に目をやると、手配書の並びの端に、新しい紙が一枚、貼ってあった。ほかの手配書はどれも日に焼けて黄ばんでいるのに、それだけが、まっさらに白い。近づいて、読んだ。
――旧文明遺跡の調査に伴う、護衛および人足を募集。行き先は、町の北東の荒野、岩山の中。砂漠には出ず。新人可。
その下に、日当が書いてあった。思わず二度読み、桁を指でなぞって数え直す。さっき壁の上で汗をかいてもらったものが、急に小銭に見えた。いちばん下には、小さく、依頼主の名前があった。
――共栄遺物調査会。
「おっ」
班長が、後ろから覗き込んできた。
「うまそうなのが出てるじゃねえか。たまにあるんだよ、こういうのが」
それから、班長は少しだけ真顔になった。
「ただな、ひよっこ。行くんなら、身を守る支度だけはしとけよ」
「支度?」
「砂に出ねえ。新人でいい。そのわりに、この日当だ。条件と、釣り合ってねえだろ。払いが良すぎる仕事ってのはな、どっかに理由があるもんだ」
「共栄遺物調査会、の」
ラドックさんが、机の向こうから言った。
「名前は、東の方で聞いたことがある。あちこちの遺跡を調べて、旧文明の使える部品を掘り出して、売っとる連中じゃ。それは、確かじゃ」
「なら、ちゃんとしたところなんじゃ……」
「ちゃんとしとるように、見えるのう」
ラドックさんは、椅子の背にもたれた。
「わしはな、ああいう、小ざっぱりして、物言いの丁寧なのが、いちばん物騒な気がするわい。……わしなら、引っかからん」
それから、突き放すように付け足した。
「じゃがな、ハンターは自己責任じゃ。受けるも受けんも、お前さんらの勝手よ。わしの知ったことじゃないがの」
もう一度、紙を見た。日当の数字が、目に焼きついて離れない。
「……すごいね、これ」
「はい」
レイは、紙のいちばん下の、依頼主の名前を見ていた。
受けるかどうかなんて、まだ何も考えていなかった。考えられなかった、と言った方が近い。ジョウが行くと言っている仕事で、マリカも、たぶん一緒に行く。一生、と言われたのは、昨日のことだ。どんな顔をして会えばいいのか、分からない。それでも、この日当は。
「……話だけでも、聞きに行ってみようか」
レイは、少しだけ間を置いてから、うなずいた。
「はい」
うなずいたあとも、レイの目は、紙のいちばん下の名前から離れなかった。
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