小指の爪ほどの青
ポンチョスと別れたあと、二人でしばらく黙って歩いた。マリカの声が、まだ耳の奥に残っている。何にも変わらない。何にもできない。一生。隣のレイは何も言わず、僕は、何か言ってほしいのか、何も言ってほしくないのか、自分でも決められないまま足を動かしていた。
日はもうだいぶ傾いていたのに、空気はまだ熱い。大通りを行き交う砂漠帰りらしい男たちは、すれ違いざまに、誰もがレイを見ていった。立ち止まって振り返る者までいる。
「……やっぱり、目立つね」
「はい」
淡々と答えながら、レイは外套の襟を引き上げた。
隊商宿に泊まることは、もう決めてあった。賞金はまだ残っているし、届け物の報酬も思っていたより多かったのだ。けれど、宿に入るまででこれだけ見られるなら、宿の中でも、明日町を歩くときも、きっと同じことになる。
「服、買おう。ハン協のおじいさんも言ってたし」
「服でしたら、レイラインで買いましたが」
「あれじゃ駄目なんだよ。顔とか、髪とか、もっとちゃんと隠せるもの」
通りを行く人たちは、ほとんどが頭に長い布を巻いていた。砂と日差しを避けるためだろう、顔の下半分まで覆っている者もいる。
「この町の人みたいに、ああいうのを巻けば……」
言いかけて、自分で首を振った。
「いや、駄目か。ここではいいけど、レイラインに帰ったら、かえって目立つよね。この先、東の町にも行くんだし」
「はい」
レイがうなずいた。
「必要なのは、この町に紛れるための装いではありません。どこの町に入っても、不自然に見えないものです」
西の門に近い通りには、布や服を扱う店がいくつも並んでいて、その中に一軒だけ、旅の道具ばかりを置いている店があった。軒先には外套や手袋や水筒がぶら下がっている。砂漠を越えてきた者も、東へ向かう者も、ここで身支度を整えていくらしい。中に入ると、奥から出てきた太った女主人が、レイを一目見るなり目を丸くした。
「あらまあ。まあまあまあ」
「この人が顔と髪を隠せるものが欲しいんです。どこの町に行っても、変に見えないやつ」
「隠す? こんな別嬪さんを? もったいない」
「隠したいんです」
女主人は、僕とレイを見比べて、何か察したような顔になった。
「……ああ、そういうことかい。分かったよ。旅をするなら、ここの女みたいにぐるぐる巻いてちゃかえって妙だものね。任せときな」
最初に出てきたのは、口と鼻を覆う布のマスクだった。厚手の布を何枚か重ねて縫い合わせ、耳にかける紐が付いている。
「砂埃よけさ。荒野を走るハンターも、輸送隊の連中も、どこの町でもみんな着けてる。これなら、どこで着けてたって誰も気にしないよ」
言われてみれば、キャンプでも、輸送隊の男たちの何人かが首から下げていた。次に女主人が棚から下ろしたのは、つばの付いた柔らかい布の帽子で、旅のハンターがよくかぶっている型だ。頭の部分が、ゆったりと大きく作ってある。
「髪を中に押し込んでかぶるのさ。長い髪の旅人は、男も女もこうしてる。ただね、あんたみたいな長い髪だと、そのまま押し込んでも端からはみ出してきちまう。先に髪をまとめて、留めとかなきゃいけないよ」
「髪を、まとめる……」
レイは、自分の髪をひと房すくって、不思議そうに眺めた。
「レイ、いつも下ろしたままだもんね」
「必要がありませんでしたので」
地下にいたときから、ずっとそうだ。屑鉄の丘でも、崩れ狼と戦ったときも、レイラインの家でも、長い髪はいつも背中に流れていた。
「髪留めは、ここにはないんですか」
「うちは旅の道具屋だからねえ。そういう細かい飾り物は、表の通りの露店の方が揃ってるよ。砂漠の向こうから流れてきた品もあるからね」
帽子選びは、思ったより手間取った。女主人があれもいい、これもいいと次々に棚から下ろすたびに、レイは「機能に差はありません」と言う。そのくせ、僕が「それ、いいんじゃない」と言った帽子だけは、ほんの少し長く手の中で眺めている。結局、くすんだ砂色の帽子に決めた。目立たない色なのに、レイが持つとなんだか上等な品に見えて、マスクも同じ色にそろえることにした。
「兄ちゃんも、ほら、その革の帽子だけじゃ砂埃がきついだろ。あんたもマスクの一枚くらい持っときな」
結局、僕の分まで買わされた。くすんだ藍色の安いマスクを首にぶら下げて店を出ると、通りの端には露店がずらりと並んでいた。地面に布を広げて、その上に品物を並べただけの店だ。
「髪留め、どこかな」
「探しましょう」
端から歩きはじめて、最初に足が止まったのは、干した果物の店だった。赤黒く縮んだ実が、小さな木の皿に一粒ずつ大事そうに並べてあって、砂漠の向こうから来たものだと、店の男が胸を張る。
「甘いぞ。砂糖を舐めるより甘い」
甘い、と聞いただけで口の中に唾が湧いて、つい値を聞いてしまった。返ってきた答えに、身体が固まる。一粒で、だ。頭の中で数えかけて、途中でやめた。
「……あ、ありがとう。また今度」
そっと離れても、店の男は怒りもしなかった。そういう客には慣れているのだろう。
「買わないのですか」
「……無理。あんなの、口に入れたら罰が当たる」
レイは小さく首を傾げ、振り返って、皿の上の赤黒い実をもう一度見てから、黙って僕の隣に並んだ。
そこから先は、寄り道ばかりだった。旧文明の部品のがらくたを並べた店では、レイがしゃがみ込んだきり、なかなか立ち上がらない。
「レイ、髪留め」
「……はい」
返事はするのに、指先は小さな部品をつまんで裏返したままだ。
「それ、何?」
「昔の、灯りの部品です。これがまだ残っているとは思いませんでした」
その声がやけに懐かしそうで、二百年前のレイを、垣間見た気がした。砂漠の向こうの町の名前が刷られた古い紙。見たこともない形の水筒。焼いた肉の串の屋台からは、香ばしい匂いが流れてくる。分からないものを二人で並んで見て歩くのが、なんだか楽しかった。
髪留めの店も、なかったわけではない。ようやく見つけた一軒は、どれもぎらぎらしていた。真っ赤な羽根が付いたもの、鈴がじゃらじゃら鳴るもの、色ガラスをこれでもかと貼りつけたもの。
「……これは、ちょっと違うかな」
「機能は、どれも同じですが」
「機能の話じゃないんだよ」
じゃあ何の話なのかと聞かれたら、答えられなかった。レイの髪にあれが付いているところを想像したら、どうしても違ったのだ。その先の店は反対に、木を削っただけの安い髪留めばかりで、丈夫そうではあるけれど、と首をひねりかけたところで、レイが一つを手に取った。
「これで十分です」
「……うーん」
「何か問題が」
「いや、問題はないんだけど……」
その先が、出てこない。レイはそれ以上何も言わずに、髪留めを布の上へ戻した。僕が何か言うのを、待っているみたいだった。
露店の並びがとぎれる手前に、小さな店が一つだけ残っていた。日除けの布の下で居眠りでもしていたのか、店番の皺だらけのおばあさんが、僕たちの足音に薄目を開ける。
「……おや」
おばあさんはレイの顔を見て、目をしょぼしょぼさせた。
「こりゃまた。長生きはするもんだねえ」
布の上には、首飾りや指輪や髪留めが、ごちゃごちゃと並んでいた。骨を磨いたもの、古い銀の細工、銅の細工に色のついた小石をはめたもの。どれも少しずつ古びていて、派手さはない。端から目でなぞっていって、ある一つのところで、目が勝手に止まった。
銅の細工に、小さな青い石が一つだけはめてある。小指の爪くらいの石で、手前の銀の首飾りの陰に、半分隠れていた。傾きかけた西日が布の上を渡るたびに、その石だけが、深い水みたいに光っては沈む。しゃがみ込んで、首飾りをそっとどけてみた。銅の留め具には細い傷がいくつも入っていて、誰かが長いあいだ使っていたものらしい。それなのに、石の方には傷ひとつなかった。
これだ、と思った。理由は分からない。ただ、さっきまでの店で見たどれとも違った。
「……レイ。これ」
隣にしゃがんだレイが、それをつまみ上げた。
「青、ですね」
「なんとなく。……レイに、似合う気がして」
言ったとたん、耳まで熱くなった。何を言っているんだろう、僕は。似合う気がして、って。気がして、ってなんだ。
レイは髪留めを指先で転がしてから、僕を見た。表情は、ほとんど変わらない。
「……では、これにします」
「あ、うん。それ、僕が払うから」
「私の物です。私が――」
「いいから。服とか、宿とか、そういうのは全部、仲間の分も出すのが普通でしょ」
本当にそれが普通なのかなんて、知らない。知らないけれど、これだけは、自分の手で払いたかった。
レイは一拍おいてから、「……ありがとうございます」と言った。
おばあさんが、歯の抜けた口で、ひっひっと笑った。
「砂漠の向こうから来た石だよ。いい目をしてるね、兄ちゃん。ほれ、せっかくだ。ここで留めてってやんな」
「え、ぼ、僕が?」
「自分で買ってやったんだろ。最後まで面倒見な」
レイが長い髪を両手で後ろへまとめると、うなじが見えた。白くて、細い首だった。見ちゃいけないものを見た気がして目を逸らすと、逸らした先で、おばあさんがにやにや笑っている。逃げ場がなかった。レイは髪をまとめたまま、こちらに背を向けて、じっと待っている。
髪留めをつまんだ指が、震えていた。崩れ狼に向かってアクセルを踏み込んだときだって、こんなには震えなかった。留め具の先を髪の根元に当てたつもりが、つるりと滑って空を切る。……落ち着け。照準の印より、ずっと的は大きいじゃないか。
息を止めて、もう一度、まとめた髪の根元に当てる。銅の留め具を、そっと差し込む。指先が、レイの髪に触れた。柔らかい。思っていたより、ずっと柔らかくて、ほんの少しひんやりしている。留め具が、かちりと小さく鳴った。
「……できた、と思う」
レイが、そっと髪留めに触れた。
「ありがとうございます」
それから、まとめた髪を帽子の中へ押し込み、つばを少し下げて、最後にマスクで口と鼻を覆う。帽子のつばとマスクのあいだから、目だけが覗いていた。顔の大半が隠れたのに、目だけになったレイは、かえってどきりとするほど綺麗で、僕は意味もなく、自分の革の帽子のつばをいじっていた。つばの陰で、金色の目がほんのかすかに光を返している。目まで隠す方法は、さすがに思いつかなかった。
「……どうでしょうか」
「う、うん。いいと思う。目立たない、と思う」
本当に、目立たなかった。髪も顔もほとんど見えず、荒野のどこにでもいる旅のハンターの格好だ。さっきまでのレイを知らなければ、誰も二度見はしないだろう。おばあさんはもう一度ひっひっと笑って、また日除けの下で目を閉じた。
西日が、通りを赤く染めはじめていた。並んで歩くと、さっきまであれほど集まっていた目が、嘘のようにレイの上を素通りしていく。すらりとした後ろ姿にちらりと目をやる男はいても、立ち止まって振り返る者は、もういなかった。
そのかわり、レイがときどき、帽子の上から髪留めのあたりに手をやるようになった。指先でそっと触れては、離す。少し歩くと、また触れる。
「……気になる?」
レイの手が、ぴたりと止まった。
「いいえ」
いつもより、少しだけ返事が早かった。レイは手を下ろして、帽子のつばを、くいと引き下げた。
「留め具が緩んでいないか、確かめていただけです。機能上の問題です」
マスクと帽子のせいで、表情は分からない。それでも、マスクの下で何かがかすかに動いた気がした。レイはそれきり前を向いて、僕より半歩だけ先を歩きはじめる。何を確かめていたのかは、聞かないでおいた。聞いたら、たぶん、もう触らなくなる。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になると思っていただけたら、ブックマークや、下の☆☆☆☆☆からの評価をいただけると励みになります。




