「だから言ったじゃない!!」
振り向く前から、誰の声かは分かっていた。囲いの奥、砂まみれの戦車の陰に、ジョウとマリカがいる。少し離れたところで、ポンチョスがおろおろと二人を見ていた。三人とも、さっき囲いに入ったときにはいなかったから、修理屋から戻ってきたところなのだろう。ポンチョスの腕には汚れた布が巻いてあり、マリカの手には、くしゃくしゃになった紙切れが一枚握られていた。見積もりだ。
「これじゃきついって、何べんも言ったでしょ! ありあわせで付けた砂除けなんて、気休めにしかならないって! 端っこで試すだけって言ったのはあんたよ!」
「端っこだっただろうが! あんなとこで足取られるなんて、誰が思うかよ!」
マリカの声が、さらに跳ね上がった。耳の奥に刺さるような、きんきんした金切り声だ。
「思うわよ! みんなそう言ってたじゃない! ハン協のお爺さんも、酒場の人たちも! 聞かなかったのはあんただけでしょ! 修理屋の見積もり、聞いたでしょ? あれ、どうするのよ! ねえ! 聞いてるの!?」
声が囲いの壁に跳ね返って、きんきんと響く。ジョウは、こめかみを指で押さえて、顔をしかめた。
「……分かった。分かったから、もういい」
「何が分かったのよ!」
「もういいって言ってんだろ。……頼むから、ちょっと黙ってくれ」
「どこ行くのよ!」
「一杯、引っかけてくるだけだ」
吐き捨てるように言って、こちらへ振り向いたジョウと、目が合った。
ジョウの足が止まった。しばらく何も言わずに、僕の顔を見て、僕の後ろのレイを見て、また僕を見る。日に焼けて、砂にまみれた顔の、目の下に、黒いくまができていた。
「……なんで、お前がこっちにいるんだよ」
かすれた声だった。
「ハン協の届け物。デションに頼まれて」
「届け物、だあ?」
ジョウの口の端が、歪んだ。
「はっ。ハンターになって最初の仕事が、使い走りかよ。お似合いだな」
「……」
「何しに来たんだ。まさか、お前らも砂漠のモンスターを狩りに来たってんじゃねえだろうな。そのおもちゃみてえなちっこい戦車で」
「来てないよ。届けたら、帰る」
「帰る、ね」
ジョウは鼻で笑い、それから、何か言いかけて、やめた。その目が一瞬だけ、砂まみれの自分の戦車の方へ流れた。
負けたことは、言わないのだ。言えるわけがない。崩れ狼の前で、主砲をぶち込んで終わりだと笑っていたのだ。その僕の前で、砂漠の端っこで動けなくなりましたなんて、僕がジョウでも、口が裂けても言わない。
「どけよ」
ジョウは僕の肩にぶつかるようにして、大通りへ出ていった。肩を落として、足を引きずるように歩いていくその背中は、崩れ狼の前のジョウとは、まるで別の人間に見えた。
マリカが、こちらを見ていた。さっきまでの金切り声が嘘のように黙ったまま、僕を見て、それからレイを見る。レイの顔に目が触れたのは、ほんの一瞬だった。すぐに逸らして、それきり、二度とそっちを見ようとしない。その表情が、ふっと変わった。
「ローリ……」
いつもの笑顔、いや、いつもよりずっと柔らかい笑顔だった。
「来てたんだ。よかった。ちょうど、会いたいと思ってたの」
小走りに近づいてきたマリカは、レイのいる側を避けて、わざわざ僕の向こう側へ回り込んだ。汗と砂の匂いがした。
「ねえ、聞いて。ひどいのよ。ジョウったら、私が止めたのに聞かないで、砂の上に出ちゃって。それで戦車が壊れちゃって、修理屋で見積もりを聞いたら、とんでもない額で」
「……そうなんだ」
「私たち、もうほとんどお金残ってないの。町長さんにもらったお金も、砂除けの部品でだいぶ使っちゃったし」
マリカは、僕の腕にそっと手を置いた。
「あんた、まだお金あるんでしょ? 崩れ狼の賞金。届け物の報酬だって、今もらったんでしょ」
「え、あ……うん」
「ちょっとだけでいいの。部品代の分だけ。ね、貸してくれない? ちゃんと返すから。ね?」
マリカが、下から僕の顔を覗き込んだ。少し垂れた、はしばみ色の目。その下の頬に、油の黒い筋が一本、汗に流されて斜めについている。困ったとき、マリカはこうやって見上げてくるのだ。子供の頃、工場の裏のくず鉄の山で、まだ回るぜんまい仕掛けの歯車を拾ったことがあった。くず鉄屋に持っていけば、少しはましな値がついたはずの代物だ。それを、この目で見上げられて、気づいたら手渡していた。マリカは笑って、次の日には、もうそれをばらばらに分解していた。
腰の袋に、手が伸びていた。指が、口を縛った紐にかかる。マリカは、本当に困っているのだ。戦車が壊れて、お金がなくて、ジョウはどこかへ行ってしまった。僕は、お金を持っている。賞金も、報酬も、まだこの袋に残っている。貸してあげても、いいんじゃないか。紐の結び目に、爪の先がかかった。
「……ローリ」
すぐ後ろから、レイの手が伸びてきて、袋の紐の上にそっと置かれた。
「それは、この先の燃料代です」
静かな声なのに、その場の空気が、すっと冷えた。結び目にかけた指が、そのまま動かなくなる。僕の腕の上で、マリカの手も止まっていた。マリカは、レイの方を見なかった。見ないまま、僕にだけ笑いかける。
「ねえ、ローリ。私、あんたに聞いてるんだけど」
「返すあてを、まだ伺っていませんが」
レイの声が、もう一段、低くなった。マリカの笑顔の端が、ほんの少しだけ引きつる。それでもマリカは、レイの方を見ようとはしなかった。
「ローリ。あんたは、貸してくれるわよね?」
口を開けて、閉じた。マリカは、僕の答えを待っていた。レイも、何も言わずに待っている。二人とも、僕だけを見ていた。
どっちの味方をするの。
誰も、そう言ってはいない。それでも、そう聞かれているのは分かった。紐にかかったままの指先が、汗で滑る。マリカは、困っている。子供の頃から知っている。昔、好きだった。……いや、たぶん、今も。レイの言うことは、正しい。分かっている。分かっているけれど、この結び目をひとつ引けば、それで済むのだ。マリカの頬の黒い筋が、すぐ目の前にあった。
「……あ、あの、その……少しなら……でも、レイの言うことも……」
言葉が、ばらばらにこぼれた。結び目にかけた指は、引くことも、離すこともできないまま、まだそこにあった。
マリカが、ふっと息を吐いた。
「……何それ」
さっきまでの柔らかい笑顔は、どこにもなかった。
「あんた、全然変わってないじゃない」
「え……」
「戦車手に入れて、ライセンスもらって、ちょっとはましになったかと思ったけど。町を出る前のあんたと、何にも変わらない。言ってるだけで、何も決められない。そんなんじゃ、何にもできないわよ。一生」
マリカは、僕の腕から手を離した。二、三歩行きかけて、それから、肩越しに振り返る。さっきの尖った顔は、もうどこにもなかった。
「……ま、いいわ。気が変わったら、いつでも言いに来て。あんたなら、分かってくれるって思ってるから」
甘い声だけを残して、マリカは大通りの、ジョウが歩いていったのとは反対の方へ、早足で歩いていった。最後まで、レイの方は一度も見なかった。
レイは、その背中が人ごみに紛れるまで見送っていた。それから、目を下ろして、袋の紐にかかったままの僕の指を、少しのあいだ見ていた。
慌てて、指を離した。胸の奥に、何かが刺さったまま抜けない。まあ、頑張りなよ――工場で、マリカにそう言われた日と、同じ痛さだった。いや、あの日より痛い。あの日の僕は、本当に何も持っていなかった。今は、戦車も、ライセンスも、お金もある。それなのに、同じことを言われたのだ。囲いの中には、僕とレイと、ポンチョスだけが残された。
「……行っちゃったっす」
ポンチョスがぽつりと言って、二人が消えていった大通りを、右と左、交互に見た。
「二人とも、どっか行っちゃったっす。戦車、どうするんすか、これ……」
砂まみれの戦車を見上げて、ポンチョスは、途方に暮れたように頭をかいた。腕の布に、乾いた血がにじんでいる。
「怪我、大丈夫?」
「あ、これっすか。たいしたことないっす。逃げるとき、ハッチのふちでざっくりやっただけで」
ポンチョスは照れたように笑い、それから、少し声を落とした。
「……あの、ローリさん。砂漠、行くつもりっすか」
ローリさん。ポンチョスにそう呼ばれたのは、初めてだった。
「行かないよ。届け物しに来ただけ」
「ならいいんす。でも、一応言わせてほしいっす」
ポンチョスは、砂の地平が見える西の門の方を見た。
「砂漠は、やめといた方がいいっす。マジで」
ぽつぽつと、ポンチョスは話しはじめた。今朝、砂漠の端っこへ出たこと。最初の一刻ほどは、何ともなかったこと。ジョウが「ほらな、いけるじゃねえか」と笑ったこと。昼前、砂の中から、そんなに大きくもないモンスターが顔を出したこと。
「全然、強くなかったんすよ、たぶん。砂漠のやつにしちゃ、小物だって、後でハン協のじいさんに言われたっす。ジョウさんも、いつもみたいに戦車を回して、撃とうとしたんす。そしたら」
回ろうとした履帯が、砂を掻くだけで、少しも前へ進まなくなった。もがけばもがくほど、車体は砂に沈んでいったのだという。
「撃つどころじゃなかったっす。動けない戦車の周りを、そいつがぐるぐる回って。下から、装甲の継ぎ目をがりがりやられて。マリカさんが必死で何かいじって、ジョウさんが無理やりエンジン吹かして、俺は砂を掻き出しに外へ出て……どうやって抜け出したのか、正直、よく覚えてないっす」
ポンチョスは、包帯を巻いた腕を見下ろした。
「撃ち合いで負けたんじゃないんすよ。砂の上に出た時点で、もう勝ち目なんてなかったんす。あの戦車で、あの支度で、砂の上に行っちゃいけなかった。……みんなに止められてたのに」
キャンプのペックにも、ハン協のおじいさんにも、同じことを言われた。これで三度目だ。それなのに、今のがいちばん重く響いたのは、実際に砂の上でそれを味わってきた人間の口から出た言葉だったからだろう。
「……死ななくて、よかったね」
ポンチョスは一瞬きょとんとして、それから、くしゃっと顔を歪めて笑った。
「……そうっすね。死ななくて、よかったっす。今度は、誰も」
今度は。ガニーのことを言っているのだ。さっき、しゃがれた声で読み上げられた台帳の一行が、耳の奥でもう一度鳴った。
ポンチョスは、もう一度戦車を見上げて、大きく息を吐いた。
「さて、と。俺は修理屋に頭下げてくるっす。少しでも安くしてもらえないか。ジョウさんとマリカさんが戻ってくるまでに、話だけでもつけとかないと」
それから、ちょっとだけ笑った。
「ローリさんたちも、気をつけて帰ってくださいっす」
包帯の腕を振って大通りへ歩いていくポンチョスの背中を、しばらく見送った。ポンチョスのことは、ほとんど知らなかった。ガニーの隣で、口先だけ止めに入る男。ジョウの後ろで、遅れて笑う男。ガニーの弔いの日に頭を下げられて、悪いやつではないのかもしれない、とやっと思ったくらいだ。でも、たぶん、それだけでもなかったのだ。ジョウが言い出したことの後始末も、マリカが投げ出したものの片づけも、きっと全部、彼のところへ回ってくる。二人ともどこかへ行ってしまった今も、怪我をした腕で、誰にも頼まれないまま、修理屋に頭を下げに行くのはポンチョスなのだ。
ジョウは、今ごろ酒場で、誰にも負けたとは言わずに、一人で杯をあおっているのだろう。ガニーのことも、砂の上で動けなくなったことも、全部、腹の底に押し込めて。ハン協で勝手に持ち上がりかけた口の端を思い出して、僕は、靴の先で砂を蹴った。ざまあみろ、とは、もう思えない。思えたら、たぶん、もっと楽だった。
ほどけかけたままの袋の紐を、結び直した。マリカは今夜、どこで眠るのだろう。
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