青い炎が来た夜
本日は5話更新しています(3/5)。
炎が、町を覆っていた。南の火山地帯から、モンスターの群れが押し寄せてきたらしい。そんなことは、これまでにもあった。レイラインには守備隊がいるし、戦車もある。いつもなら、町に入ってくる前に追い払える。
――でも、その夜は違った。
防衛線は破られ、モンスターが町の中まで入り込んでいた。燃える屋根が崩れ落ち、焼けた梁が火の粉を撒き散らしながら通りへ倒れ込む。悲鳴と、獣の咆哮と、子供の泣き声が混じり合って、どれがどこから聞こえるのかも分からない。遠くで何度も砲声が響き、そのたびに足の裏から地面の震えが伝わってきた。
それでも、逃げる人の流れに逆らって走っていく人たちがいた。銃を抱えた守備隊の男たち。古い戦車にしがみつくようにして乗り込んでいく大人たち。みんな、炎の方へ、炎の方へと向かっていった。
少年は父さんと母さんに手を引かれ、ただ走っていた。父さんのもう片方の手には、あの壁の銃が握られていた。家を飛び出す前、父さんは迷わずそれをつかみ取った。その横顔は、少年の知っている穏やかな父さんの顔ではなかった。
火の手が上がっているのは、町の南と東の方だった。家の前の道に出ると、畑のそばの家々からも人が飛び出してきていた。農業区の人たちだ。みんな寝間着のまま、子供を抱えたり年寄りの手を引いたりして、どちらへ逃げればいいのか分からずに立ち尽くしている。
「西の門へ行くぞ! 窪地の底にいたら逃げ場がなくなる! 夜の荒れ地へ散るより、街道へ抜けた方がまだましだ!」
父さんの声が響いた。畑で冗談を言うときの声とは、ぜんぜん違った。腹の底から出る、鋭い声だ。
「年寄りと子供を真ん中にしろ! 固まって動け! はぐれるな!」
立ち尽くしていた人たちが、その声に引っぱられるように動き出した。父さんは少年と母さんを連れたまま、いちばん最後についた。誰も置いていかないように、何度も何度も後ろを振り返りながら。
坂の途中で、悲鳴が上がった。路地の暗がりから、何かが飛び出してきた。犬ほどの大きさの、甲羅のような殻を背負った獣だ。それが、腰の曲がったお婆さんに飛びかかろうとしていた。
銃声が一発。獣が横へ吹き飛んで、動かなくなった。
父さんだった。いつ構えたのか、少年には見えなかった。父さんは銃を下ろしもせずに、暗がりの奥へ二発、三発と撃ち込んだ。何かが甲高く鳴いて、それきり静かになった。耳の奥がきんと鳴り、焦げた火薬の匂いが鼻を刺した。
「大丈夫か、婆さん」
「グ、グレスさん……」
「立てるか。行け、止まるな」
父さんはお婆さんを前の人の方へ押しやり、また最後尾に戻った。少年は走りながら父さんを見上げた。炎に照らされた横顔は、知らない人のようだった。それなのに、少年の足は、さっきよりずっと軽くなっていた。
父さんは、強いんだ。少年は、初めてそれを知った。父さんと一緒なら、きっと大丈夫だ。
そう思っていた。
◇
坂を上りきって大通りの西の端へ出る角を曲がると、西の門の灯りが、もうすぐそこに見えた。あと少しだった。けれど反対の東の方、通りの先で、町の戦車が砲を撃っていた。二台いた。守備隊の、古い戦車だ。燃える家々の向こうにいる何かに向かって、何度も何度も砲を撃っている。一発ごとに砲声が少年の腹の底を殴りつけるのに、撃たれている何かは、少しも止まる気配がなかった。
次の瞬間、通りの向こうが青く光った。青い炎の奔流が、通りをまっすぐに流れてきた。手前にいた戦車が、それに呑み込まれた。青い炎が車体を包み、ハッチの隙間から噴き出して、戦車は戦車の形をした炎の塊になった。誰も、出てこなかった。
もう一台の戦車は、炎の端を浴びて横へ弾き飛ばされた。装甲の側面が、青白く光りながら溶けていく。それでも砲塔が軋みながら回り、もう一発撃った。
その砲声が合図だったように、地面が揺れた。砲声とは違う。もっと重い、何か巨大なものが大地を踏みしめる揺れだった。一度。二度。その間隔が、だんだん短くなっていく。近づいてくる。
炎の向こうで、炎が割れた。巨大な影が、猛烈な勢いでこちらへ迫ってくる。
全身を覆う、真っ青な炎。周りで燃えている赤い炎とは似ても似つかない、冷たい色の炎だった。それなのに、離れていても肌がひりつくほど熱い。
地を蹴っているのは二本の脚で、その上に、巨大な鳥が翼を広げたような異形の上半身が載っていた。翼が羽ばたくたびに青い火の粉が嵐のように吹き荒れ、触れた家々が一瞬で燃え上がった。
――クッ……ク……。
炎の奥で、何かが鳴った。軋むような、喉の奥で何かを噛み殺すような音。獣の唸り声とは違う。人間が、笑いをこらえているような――。
気のせいだ。そうに決まっている。あんなものの中に、人間がいるはずがない。
それでも少年の背筋を、炎の熱とは逆の、冷たいものが這い上がった。見た瞬間に分かった。
――逃げなきゃ。
なのに、足が動かない。膝ががくがくと笑う。喉が張りついて、息さえうまく吸えない。
◇
父さんが少年の身体を抱え上げ、母さんの腕の中へ押しやった。
「ハンナ、こいつを頼む」
「あなた――」
「行け!」
それだけ言って、父さんは銃を構え、怪物へ向かっていった。一度も振り返らなかった。
畑で芋を割っていた大きな背中が、青い炎の方へ遠ざかっていく。少年が母さんの腕の中から伸ばした手は、父さんの上着の裾にも届かなかった。
母さんに腕を引かれ、少年は走る。振り返ることはできなかった。振り返ったら、もう走れなくなる気がした。
背後で銃声が響いた。
一発。
二発。三発。
怪物の咆哮。
四発。
五発――。
そして、銃声は途切れた。それきり、もう聞こえなかった。
少年は声を上げようとした。開いた口から出たのは、ひゅう、という乾いた息だけだった。母さんの手に引かれるまま、燃える通りを走り続けた。父さんがどうなったのかも、分からないまま。
◇
だが――。
青い炎が、再び背後に現れた。速い。家々をなぎ倒し、炎の壁を突き破り、まっすぐにこちらへ向かってくる。もう、すぐそこまで来ている。
母さんが足を止めた。少年の顔を両手で挟み、覗き込む。煤だらけの頬に、涙の筋が光っていた。それでも母さんは、笑っていた。夕餉の席で、父さんに「三回目よ」と笑ったときと同じ顔で。
「走って」
「母さん……」
「生きて」
次の瞬間、母さんが少年を突き飛ばした。小さな身体が宙に浮き、地面を転がる。石畳に肘を打ち、膝を擦り、ようやく止まって顔を上げたときには――。
母さんの姿は、青い炎の中にあった。
◇
声が出なかった。立つこともできなかった。
怖い。悲しい。痛い。熱い。何もかもがいっぺんに押し寄せてきて、どれ一つ言葉にならない。擦りむいた膝が、脈を打つたびにじくじくと痛んだ。そんなことだけが、やけにはっきりと分かる。それなのに、何もできない。
怪物が、ゆっくりとこちらを向いた。青い炎の向こうで、何かが少年を見ていた。目なのかどうかも分からない。ただ、見られていると分かった。
青い炎が迫る。熱で前髪が縮れ、ちりちりと小さな音を立てる。空気の焦げる匂いがする。少年はただ、震えていた。
父さんは向かっていった。母さんは笑って突き飛ばした。なのに自分は、立ち上がることさえできない。動け、動け、と何度言い聞かせても、膝は石畳に縫いつけられたまま、少しも言うことを聞かなかった。
――もう、だめだ。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になると思っていただけたら、ブックマークや、下の☆☆☆☆☆からの評価をいただけると励みになります。




