「赤まで行くな」
堤の縁の人影が見えなくなってからも、しばらくは見慣れた景色が続いた。干上がった貯水池のふちを回る道も、くず鉄拾いの帰りに何度も見た低い岩の並びも、目をつぶっていても思い浮かぶ。その岩の並びを過ぎたところで、道は、僕の知らない道になった。
街道は、高原の背をなぞるように西へ延びていた。旧文明の道路の跡で、ところどころ割れた隙間から草が伸びているけれど、長いあいだ輸送隊が通ってきたせいか、轍だけはきれいに二本、ずっと先まで続いている。ハッチから頭と肩を出して走ると、風が顔に当たった。思っていたより冷たくて、思っていたより気持ちがいい。
「速度を少し落としてください」
すぐ後ろの座席から、レイが言った。
「まだ慣れていません。あなたも、この車両も」
「……うん」
アクセルを緩めると、ヤマネコ号は素直に速さを落とした。親方の工場で直してもらってから、まるで別の戦車だ。操縦桿を倒せばその通りに曲がり、止まれと思えばすっと止まる。左へ曲げても、もうカタカタとは鳴らない。屑鉄の丘の地下で跳ねたり止まらなかったりしていたのが嘘みたいだけれど、分からないことは、まだ山ほどあった。計器の針が何を示しているのか、ときどき点いたり消えたりする小さな灯りは何なのか、燃料はあとどれくらいもつのか。屑鉄の丘では、そんなことを考える暇もなかったのだ。
「この、右の下の針は?」
「冷却の温度です。そこが赤い線に近づいたら、止めて休ませてください。坂を長く上った後は特に」
「じゃあ、こっちの点滅してるのは」
レイが、操縦席のハッチのふちに手をかけて、僕の肩越しに計器を覗き込んだ。
「……これは」
そこで、レイの言葉が途切れた。
「レイも分からないの?」
「実際に見てみなければ、分かりません。この車両の設計図を持っているわけではありませんので」
「レイなのに?」
「私の中にあるのは、私自身と、私の装備の設計図だけです。この車両は、私を造った国のものでもありません。ただ、旧文明の車両の計器は、どこの国のものでも、だいたい似た作りをしています。表示の文字と、配線のつながりを見れば、見当はつきます」
レイはさらに顔を寄せてきた。僕の頬のすぐ横に、レイの頬がある。髪が一筋、風に流されて、僕の耳をかすめていった。
「表示の横に、かすれた文字があります。少し、そのままで」
そのままで、と言われても困る。同じ計器を、同じ距離で、息がかかるくらい近くで覗き込んでいるのだ。僕は計器を見ているふりをしながら、何一つ目に入っていなかった。レイの指が、点滅している灯りの下の小さなスイッチに触れて、かちり、と押す。灯りが消え、もう一度押すと、また点滅しはじめた。
「……燃料の、予備タンクの切り替えのようですね。点滅しているのは、予備に切り替わっていない、という意味でしょう」
「そ、そうなんだ」
「顔が赤いですよ。日差しが強いなら、帽子を」
「だ、大丈夫」
レイは不思議そうに首を傾げて、座席へ戻っていった。僕は、防具屋で買った革の帽子を、必要もないのに深くかぶり直した。
それからも、分からないことが出るたびに、二人で計器を覗き込んだ。昔の車両ならたいてい付いているもののことなら、レイはひと目で見当をつけたし、僕には模様にしか見えないかすれた文字も読んだ。それでも、この戦車そのものを知っているわけではないから、配線をたどり、ときには押してみて確かめる。父さんや、それより前の持ち主が付け足したところ、今の部品で継ぎはぎされたところになると、レイも首をひねった。
戦車の動かし方も、レイは知っていた。自分で運転したこともあるという。もっとも、その数は多くないらしい。
「私は、自分の身体に着ける装備で戦うように造られました。車両を動かしたのは、必要に迫られたときだけです。それも、私を造った国の、限られた型ばかりでした」
だから、操縦桿の重さや坂でのアクセルの踏み方は分かっても、よその国の車両となると、推し量るしかない。その推し量り方が、とんでもなくうまかった。外れても、一度押してみれば、すぐに直す。レイ本人は、知っているのはほんの一部だと言う。けれど僕が知っているのは、世界が壊れたあとの、孤児院と屑鉄の丘と親方の工場だけで、レイが「昔の車両ならたいてい」と言うその「昔」を、一つも知らないのだ。それなのに、分からないものに二人で頭を寄せているのは、なんだか楽しかった。
冷却の針の横の、計器のふちの金属に、何かの先で引っかいたような線が一本走っていた。その横に、角ばった字が、同じように刻みつけてある。
――赤まで行くな。止まって待て。
少し右に傾いた、角ばった字。親方が塗り直してくれた、側面のヤマネコ号の字と同じ癖だ。
「……父さんの字だ」
人差し指の先で、そっとなぞった。爪を立てればやっと引っかかるくらいの、浅い溝だ。「赤」の最後の払いだけが、手がすべったみたいに長く伸びている。父さんは、ここに座ってこの針をにらみながら、自分に言い聞かせるように刻んだのだろう。若い頃の父さんも、たぶん、何度も針を見落としたのだ。
見回すと、ほかにもあった。燃料の計器の下に、短い線が三本。ブレーキの踏み板の脇に、「強く踏むな」の一言。それから、操縦桿の握りの、親指が当たるところだけが、つるつるにすり減っていた。
「お父さまは、丁寧に乗っていたのですね」
「……知らなかった。父さんがどんなふうに戦車に乗ってたのか、何も」
口に出してから、喉の奥が苦くなった。この傷は、ずっとここにあったのだ。屑鉄の丘の地下でこの席に飛び込んだときも、親方の工場で磨いてもらっていたあいだも。それなのに、側面のヤマネコ号の名前に最初に気づいたのは親方で、この戦車の計器を最初に読んだのはレイだった。父さんの息子の僕は、どちらも、人に教わってから知った。……ずるい、と一瞬だけ胸の中で言って、すぐに恥ずかしくなる。レイが読んでくれなければ、僕は今も、点滅の意味さえ知らずにいたのだ。
「でも、今は少しだけ分かりましたね」
返事のかわりに、操縦桿を握り直した。すり減ったくぼみに、自分の親指を重ねてみる。ぴったりとは合わなかった。くぼみの方が少し大きくて、少し外側に寄っている。父さんの指は、僕のより太かったのだ。それでも、毎日同じところを押していなければ、金属はこんなふうには減らない。くぼみの外側に、親指をほんの少しずらして当て直すと、握りが、手の中に収まった気がした。
照準ハンドルの親指のところには、ボタンが三つ並んでいる。上に一つ、その下の左右に二つ。
「上が主砲。下の左が親方がくれた機銃で、右が元からの機銃」
「ボタンで選んで、撃つのはこの赤い引き金です。下の二つのあいだを押せば、両方が選べます」
「試してみたいけど……弾がもったいないよね」
「はい。撃つ相手がいるときにしましょう」
相手の方は、待たせてはくれなかった。街道の先、右手の岩場から、何かがのそのそと出てきたのだ。最初は大きな犬かと思ったけれど、それにしては胴が太い。脚が短く、背中が丸く、額から錆びた鉄みたいな色の角が二本、前へ突き出している。
「サビヅノだ」
レイより先に、僕の口が動いていた。ハン協の掲示板で、何度も見た名前だ。町の周りの畑を荒らし、輸送隊の荷を狙う。強くはないが、とにかく迷惑で、駆除の依頼書の隅に、小さな似顔絵つきでよく貼られていた。僕にだって、知っていることくらいある。
「赤茶けた二本の角、短い脚、丸い背中。……掲示板の似顔絵と一致します」
後ろで、レイが小さく言った。出発の前、この辺りに出るモンスターを一通り頭に入れておくのだと言って、レイは掲示板を端から端まで眺めていたから、その似顔絵と実物を、ちゃんと照らし合わせているのだろう。
「街道には、獣はあまり出てこないと聞いていましたが」
「うん。くず鉄屋の親父さんも言ってた。人がずっと通る道は、獣の方が避けるって。出てくるのは、よっぽど強いやつか、危ないってことが分からない、ちょっと鈍いやつだって」
サビヅノは、こちらに気づいて角を下げ、前脚で地面を掻きはじめた。
「……後の方だね」
「同意します」
ハッチを閉めて座席を下げると、目の前の画面に外の景色が広がった。照準ハンドルを握れば、画面の真ん中に照準の印が浮かぶ。サビヅノが走り出した。思っていたより速いけれど、崩れ狼とは比べものにならない。まっすぐ、こちらへ向かってくるだけだ。
照準ハンドルを動かすと、印が動き、砲塔がかすかな音を立ててついてくる。その印を、サビヅノの鼻先に重ねた。左のボタンで親方の機銃を選び、人差し指で、赤い引き金を引く。
乾いた連射の音が、車体を伝って響いた。画面の中で、サビヅノの足もとに土煙が上がる。少し低い。照準ハンドルをわずかに起こすと、土煙がサビヅノの体に吸い込まれた。つんのめったサビヅノは、二度、三度と地面を転がって、そのまま動かなくなった。
「……終わり?」
「はい。活動停止です」
あっけなかった。ハッチを開けて頭を出すと、サビヅノは街道から少し外れたところに倒れている。照準ハンドルを握っていた右手を、なんとなく開いたり閉じたりしてみた。もし、これを生身でやっていたら。父さんの銃を構えて、角を下げて突っ込んでくる獣に、撃って、当てて、倒す。屑鉄の丘で大ネズミを撃ちはじめた頃でさえ、一匹倒すのに二発も三発も使った。相手があの角なら、外したとたんに腹に刺さる。それを僕は、戦車の中で画面の印を合わせて、引き金を引いただけで済ませてしまった。
「戦車って、やっぱりすごいんだな」
「戦車がすごいのは確かです」
レイが言った。
「ですが、生身でこれを確実に倒す人間も、たくさんいます。それには、長い訓練が要ります」
長い訓練、と聞いて、ガニーの顔が浮かんだ。崩れ狼の脇腹に、あいつは戦車にも乗らずに槍を突き立てたのだ。子供の頃から親父さんに叩き込まれたという、あの槍で。胸の真ん中が、少しだけ詰まった。
「……そうだね」
サビヅノの角を二本、ナイフで切り取って積んだ。ハン協に持っていけば、駆除の報酬が少しは出るはずだ。
そこからは、何も出なかった。街道は相変わらず高原の背をなぞり、右手にはずっと遠くまで荒野が、左手にはなだらかな丘がいくつも連なって、その向こうに青い山並みが霞んでいる。錆びて傾いた旧文明の鉄塔があり、崩れた橋の跡があり、干上がった川の跡がある。どれも、初めて見るものばかりだった。町の周りの見慣れたものから少し離れただけで、世界はこんなに広くて、こんなに知らないものでいっぱいなのだ。
戦車がある。ハンターのライセンスがある。後ろの座席には、見ているだけで落ち着かなくなるくらい、きれいな人が乗っている。
何もかもが、光って見えた。
「止まってください」
「え、何かいる?」
「いいえ。冷却の針が、少し上がっています」
慌てて計器を見ると、針は、いつの間にか赤い線の方へ寄っていた。「赤まで行くな」と刻まれた、すぐその横で。景色に夢中で、まるで見ていなかったのだ。
道端に戦車を停めてエンジンを休ませると、ちょうど昼時だった。街道脇の岩に二人で腰かけて、レイラインの市場で買い込んだ保存食を広げる。固く焼いた携行用のパンは、黒パンよりさらに固く、噛みつくと歯の方が負けそうになった。水筒の水に浸してふやかしながら、少しずつかじる。干し肉は塩辛くて、噛んでも噛んでも終わらない。
「まずいね、これ」
「腐らないことを優先した食べ物ですから」
レイは、携行パンを両手で持って、端から小さく割って口に入れていた。歯が負けている様子はない。
「でも、こうして外で食べると、少し違う気がする」
まずいのに、なぜかうまかった。風が草を揺らしていき、遠くの空で、鳥が一羽、輪を描いている。家の中で一人でかじる黒パンとは、何かが違った。
「二人で食べるからではないでしょうか」
レイが、何でもないことのように言った。
「……そ、そうかもね」
僕は、干し肉を必要以上に強く噛んだ。
「綺麗だね」
「はい」
レイは、遠くの山並みを見ていた。
「二百年前とは、何もかもが違います。それでも、空の色は同じです」
その横顔から、目を離せなくなった。レイがこちらを向きそうになって、慌てて山の方へ顔をそらす。
休んでは走り、景色に見とれては止まり、分からない計器があれば二人で覗き込む。そうしているうちに、太陽はずいぶん西へ傾いていた。
「……もしかして、のんびりしすぎた?」
「はい」
レイは、まったく遠慮しなかった。ヤマネコ号の影が、街道の上を後ろへ長く伸びはじめている。デションに教わったキャンプの目印まで、あとどれくらい走ればいいのか、僕は知らなかった。
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