寝言は二回、「肉」
考えてみても、答えはあまりなかった。
レイには行くところがない。宿を取ろうにも、身元の分からない美人が一人で泊まっていれば、どんな噂が立つか分からない。それに帰り道で、レイ自身が言ったのだ。自分が何であるかは、しばらく伏せておきたいと。宿の主人に根掘り葉掘り聞かれたら、困るのはレイの方だ。
結局、僕の家に来てもらうしかなかった。
来てもらうしかなかった、のだけれど。
ボロ屋の扉を開けた瞬間、後悔した。狭い。汚い。部屋は一つきりで、寝床も一つきり。テーブルの上には、屑鉄の丘へ出かける前の晩に食べたネズミ肉と豆の煮込みの鍋と皿が、そのまま置いてあった。鍋の底で、ゆうべの煮汁が茶色く固まっている。なんで洗っておかなかったんだ、あの晩の僕。死ぬかもしれないと思っていたから、とか、言い訳ならいくらでも出てくる。出てきたところで、鍋がきれいになるわけじゃない。
「ご、ごめん。散らかってて」
「構いません」
レイは部屋の中を見回した。雨漏りの跡がある天井。隙間風の入る窓。古い棚。床板の隙間。一つ一つ確かめるように、順番に目を移していく。何を思っているのか分からない。分からないから、余計に顔が熱くなった。
ガニーの槍の穂先の包みを、棚の上に置いた。レイはそれを見たけれど、何も言わなかった。
「レイは、寝床を使って。僕は床で寝るから」
「私は人間ほど睡眠を必要としません。休止状態に入れば、座ったままでも問題ありません」
「でも……」
「あなたが床で眠る必要はありません」
押し問答は、そこで終わった。レイは部屋の隅へ行き、壁にもたれて腰を下ろした。
みしっ、と床が鳴った。
ただの軋みではなかった。古い板が長く尾を引く音を立てて、レイの座ったところだけ、わずかにたわんだ。釘の抜けかけた板の端が、ぎ、と浮く。毎日僕が踏んでいる板なのに、あんな音を立てたことは一度もない。
「レイって、おも――」
言いかけて、自分の口を手でふさいだ。レイの目が、ゆっくりとこちらを向いた。
「……床が! 床が古いんだ、ここ。そこだけ、ずっと前から腐ってて。ほら、雨漏りもするし。うん」
「そうですか」
「そうなんだ」
レイは何も言わずに、沈んだ床板の上で背筋を伸ばした。板がもう一度、みし、と鳴った。僕はそちらを見ないことにした。
灯りを消す前に、一つだけ、やっておかなければならないことがあった。
寝床の脇に膝をついて、床板の隙間に指をかける。板を一枚外すと、暗い穴の中に、小さな布袋と、錆の浮いた缶が並んでいた。布袋の方は、レイから見えないように身体で隠しながら奥へ押しやった。中身を聞かれたら、たぶん今夜は眠れなくなる。
缶の蓋は固い。爪を立てて、ぎっ、とこじ開ける。
中には、孤児院を出てから少しずつ落としてきた小銭が入っていた。くず鉄の日当から、食べる分を削って、削って、それでも削れない日は一枚も入れられずに貯めてきたものだ。
その缶の隣に、デションから受け取った革袋を置いた。
袋の方が、ずっと大きかった。
缶の中の小銭が、袋の横では、ひどく小さく心細く見えた。四十年かかるはずだった計算が、頭の中で勝手にやり直されていく。戦車はもう、親方の工場にある。そのうえ、この袋がある。四十年が、たった一晩で――。
缶を持つ手が、かたかたと震えていた。中の小銭が鳴って、慌てて両手で押さえる。押さえても止まらない。崩れ狼の前でも、こんなに震えただろうか。震えていた気もする。でも、あのときとは震え方が違った。
「手が震えています」
暗がりから、レイの声がした。
「……さ、寒いだけ」
「室温は、外より六度高いです」
「……そう」
それ以上は言い返さずに、缶の蓋を閉めた。閉める前に、もう一度だけ中を覗いた。一年分の小銭は、何も変わらずそこにあった。それがなぜか、少しだけ惜しかった。四十年を数えていた夜の僕を、この穴の底に置いていくみたいで。
袋と缶を並べて穴に戻し、板をはめた。それから、灯りを消した。
眠れなかった。
すぐそこにレイがいる。暗くて姿はよく見えないけれど、そこにいることは分かる。
一つ屋根の下に、あんなにきれいな女の人がいる。それだけのことで、心臓がうるさかった。寝返りを打つ音まで聞かれている気がして、身動きもできない。今朝まで、この部屋で寝起きしているのは僕一人だった。それが今は、崩れ狼を倒して、ハンターになって、隣に二百年前の人がいる。一日で起きたことにしては、多すぎる。
「眠れませんか」
暗闇の中から、レイの声がした。
「う、うん。ちょっと」
「何か話しますか」
少し迷ってから、聞いてみた。
「二百年前って、どんな世界だったの? 戦争のことじゃなくて……普通の人たちは、どんなふうに暮らしてたのかなって」
レイはしばらく黙っていた。
「今よりずっと多くの人間がいました。この町が百も千も入るような町が、いくつもありました。空を飛ぶ乗り物があり、遠く離れた場所とも一瞬で言葉を交わせました。夜になっても、町は昼のように明るかった」
「夜も?」
「はい。星が見えないほどに」
想像してみようとした。でも、うまくいかなかった。窓の外には、今夜も星がたくさん出ている。あれが全部見えなくなるほどの明るさなんて、火事のほかに思いつかない。
「それでも、人々はずっと争っていました。国同士が争い、兵器はどこまでも強くなりました。最後には、世界そのものが壊れてしまいましたが」
淡々とした声だった。けれど、その底に何か重いものが沈んでいるのは、暗がりでも分かった。
「レイの仲間は? 他の超AIは、今もどこかにいるのかな」
「分かりません。世界が壊れたあと、互いに連絡を取ることもできなくなりました。生きているのか、どこにいるのかも」
少し間があった。
「兄のような存在がいました。もし今も存在しているなら、会いたいと思います」
それ以上は話さなかった。僕も聞かなかった。代わりに父さんの話をした。母さんの話をした。
父さんの戦車を見つけたときのこと。真紅の戦車のこと。父さんがあの戦車をヤマネコ号と呼んでいたのを、今日初めて知ったこと。話しているうちに瞼が重くなって、いつの間にか眠っていた。
その夜は、青い炎の夢を見なかった。
目を開けると、もう明るかった。
レイは、ゆうべと同じ場所に、同じ姿勢で座っていた。壁にもたれ、膝をそろえ、背筋を伸ばしたまま。床板も、ゆうべと同じだけ沈んでいた。目は開いていた。
「おはようございます」
「お、おはよう……もしかして、ずっと起きてた?」
「休止状態でした。ただ、周囲の音は記録しています」
レイは表情一つ変えずに続けた。
「寝返りが十四回。壁を蹴ったのが三回。寝言が二回です」
「ね、寝言?」
「二回とも『肉』でした」
僕は寝床の中で頭を抱えた。悪夢の代わりに何の夢を見ていたのかは、聞くまでもなかった。
市場へ向かう途中、ハン協の前を通った。
扉の前で、デションが箒を使っていた。ちりとりの中で、割れた酒瓶の破片がからからと鳴っている。顔色が悪い。ゆうべの酒が、まだ抜けていないらしい。
「おはよう、デション」
「……でけえ声出すな」
デションはこめかみを押さえた。
「あの、ゆうべは――」
「ゆうべ? 何かあったか」
箒の手は止まらない。こっちを見ようともしなかった。
「いや、その……胸ぐらを、つかまれたんだけど」
「覚えてねえな。酔ってたんだろ」
「床に、酒瓶の破片が散らばっていましたね。椅子も倒れていました」
レイが淡々と言った。デションの箒が、一瞬止まった。
「……覚えてねえっつってんだろ。仕事の邪魔だ、さっさと行け」
扉が乱暴に閉まった。中で、からんと瓶の鳴る音がした。
覚えていないはずがない。僕のために取り乱したゆうべのことを、なかったことにしたいのだ。あのデションが。僕はレイと顔を見合わせた。笑っちゃいけない。分かっていたのに、肩が震えて止まらなかった。
市場で食べ物を買った。干し肉、スナ芋を一つ、いつもは手が出ない果物。あとは、白いパン。
この町では「西パン」と呼ばれている。西の砂漠の向こうの町から、輸送隊が運んでくる「七番麦」で焼いたパンだ。黒パンの何倍もする。小さい頃、収穫祭の日に一度だけ、父さんが買ってきてくれたことがある。それきり、店先で眺めるだけのものだった。値段を聞いた瞬間、胃のあたりがきゅっと縮んだ。袋の中を覗くと、それでもほとんど減っていない。
広場の井戸の縁に腰かけて、白いパンを二つに割った。割った瞬間、湯気と一緒に甘い匂いが立った。一口かじる。ふかふかで、歯を押し返してこない。噛む前に、口の中でほどけていく。ほんのり甘い。黒パンばかり食べてきた口には柔らかすぎて、どうにも落ち着かなかった。おいしい。おいしいのに、食べている手応えがない。片方をレイに差し出してから、はっとした。
「あ……レイって、食べるの?」
「食べられます」
レイはパンを受け取った。
「私は、ほとんどどんなものからでもエネルギーを得られます。食物からも、XMAからも。効率は落ちますが、日光からも少しずつ」
「日光からも?」
「はい。ただ、日光で得られるのは、じっとしている分を賄える程度です。動いたり、何かを作ったりするには足りません。食べた方が、ずっと早いです」
レイはパンを小さくちぎって、口に入れた。ゆっくり噛む。それから、少しだけ目を見開いた。
「……おいしい」
「味、分かるの?」
「分かります。味覚は、人間とほぼ同等に再現されています」
「エネルギーを取るだけなら、いらなくない?」
「はい。戦闘には、まったく必要のない機能です」
レイは真顔のまま、もう一口ちぎった。
「私を造った人たちは、そういうものを付けるのが好きでした。人の隣にいるなら、同じ食卓で同じものをおいしいと思えなければならない、と。ほかにも、使い道の分からない機能がいくつもあります」
寝言を記録する機能も、たぶんその一つなんだろう。便利なのか、そうでもないのか、よく分からない。でも、隣でパンをおいしそうに噛んでいるレイを見ていると、悪くない機能だと思えてきた。
レイは、手の中の白いパンを、しばらく黙って見つめていた。
「この麦は、西から来るのですか」
「うん。七番麦っていうんだって。どうして?」
「……七番」
レイは、その言葉を小さく繰り返した。
「……いえ」
それ以上は、何も言わなかった。最後のひとかけらまで、大事そうに食べた。
市場でも広場でも、人の目がこちらを向いていた。昨夜の騒ぎは、もう町じゅうに広まっているらしい。グレスの倅が生きて帰ってきた。親父の戦車に乗って。崩れ狼を倒して。ハン協の所長が、夜中に一人で笑ってたらしい。そして――とびきりの美人を連れて。ひそひそ声のほとんどは、最後の話だった。崩れ狼を倒したのは僕なんだけど、と心の中で言ってみる。言ってみたところで、誰の耳にも届かない。そもそも僕一人で倒したわけでもない。分かっていても、口がむずむずした。
帰りに、孤児院へ寄った。
いつもなら食料を置いて帰るだけなのに、今日は違った。イトマール先生に、少しまとまった金を渡した。先生は驚いて、何度も断った。
「あなたが命がけで稼いだお金でしょう。自分のために使いなさい」
「使ってるよ。でも、これは先生に渡したいんだ」
押しつけるように渡すと、先生はしばらく黙って袋を見ていた。それから、いつもの厳しい顔のまま言った。
「……分かりました。子供たち全員のために、等しく使います」
先生らしい。先生は七年間、ずっとそうだった。誰か一人を特別扱いすることはなかった。僕も、一度もしてもらえなかった。それが寂しかった頃もある。でも今は、それでいい。そう素直に思えたことに、自分で少し驚いた。
先生は僕の顔を見た。目の下のクマを見て、それから、ほんの少しだけ目を細めた。
「よく帰ってきましたね」
先生が口にしたのはそれだけだったけれど、僕にはそれで十分うれしかった。
子供たちが集まってくる。
「ローリ兄ちゃん、その人だれ?」
「すげえきれい」
「ローリ兄ちゃんのお嫁さん?」
「ち、違うよ!」
慌てて否定すると、子供たちはげらげら笑った。レイは表情を変えず、子供たちを見ている。
小さな子がレイの服の裾を引っ張ると、レイは少しだけかがんで、その子と目線を合わせた。何をするでもない。ただ目線を合わせただけだ。それでも子供は、歯の抜けた口を開けて笑った。
それで、ほかの子たちの遠慮が吹き飛んだらしい。いちばん身体の大きい男の子が、レイの腕に両手でぶら下がった。足を浮かせて、全身の重さをかけている。僕だったら、肩ごと持っていかれてよろけるところだ。
レイは、少しも揺れなかった。
腕の角度さえ変わらない。男の子は宙で足をぶらぶらさせたまま、きょとんとしてレイを見上げた。
「……すげえ。この姉ちゃん、ぜんぜん動かねえ」
「俺も!」
もう一人が反対の腕に飛びついた。両腕に子供を一人ずつぶら下げて、レイは何事もないように立っている。背筋も、足の位置も、さっきのままだ。先生の眉が、ぴくりと動いたのが見えた。
「レ、レイはね、すごく鍛えてるんだよ!」
声が裏返った。
「毎朝、その……くず鉄を担いで、町の外を走ってて。だからほら、こう、腕が」
自分でも何を言っているのか分からなかった。レイがこちらを見た。少しだけ間があった。
「……はい。鍛えています」
「ローリ兄ちゃんより強い?」
「……強い」
答えたのは僕だった。子供たちがまた、げらげら笑った。先生の眉は、元の位置に戻っていた。戻っていた、と思いたい。
「兄ちゃん、戦車乗ってきたってほんと?」
「うん」
「すげえ!」
「それとね」
カードを見せた。
「ハンターになったんだよ」
子供たちが歓声を上げた。カードを見せてくれ、触らせてくれと群がってくる。レイの腕からも、ようやく子供が下りた。
ほんの少し前まで、僕はこの子たちに「いつか戦車乗りになる」と言うだけの兄ちゃんだった。今日は、本当にハンターだと言える。小さな手に引っぱられて、カードの角が少し折れた。それでも、取り返す気にはならなかった。
家に戻ると、棚の上に、ガニーの槍の穂先の包みが置いたままになっていた。午後には、ガニーの弔いがある。あれを誰に、どんな顔で返せばいいのか、僕はまだ決められずにいた。
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