「こいつは僕がやる」
地上へ続く道を探して、崩れかけた斜路を登っていた。女の人は、もう後部座席には戻らなかった。操縦席の後ろ、砲塔の脇に立って、僕の肩越しに前を見ている。上着はきちんと羽織り直していた。袖が短すぎて、手首がまるごと出ている。
すぐ後ろに立たれると、どうにも落ち着かない。振り返れないので、前だけを見て操縦する。運転のためには、たぶんその方がいい。ふと、女の人が自分の手を見ているのに気づいた。握る。開く。また握る。さっきから、何度も同じことを繰り返している。
「……どうかしたの?」
「いいえ」
女の人はそう言って、手を下ろした。
「斜路の先、左へ。地上まで、あと少しです」
言われた通りに左へ切ると、また車体のどこかでカタカタと鳴った。その音に重なるように、女の人がすっと顔を上げた。
「来ます」
「え?」
次の瞬間、瓦礫の向こうから巨大な影が飛び出した。見覚えがある。忘れるはずがない。
「崩れ狼……!」
生きていた。ジョウたちとの戦いの傷は、そのまま残っていた。身体のあちこちから血が流れ、主砲を受けたところは大きく抉れている。左の脇腹には、何か細長いものが突き立ったまま揺れていた。それでも、動きに弱々しさはかけらもない。むしろ、怒っている。
僕たちを見つけた崩れ狼が、低く唸った。喉の奥で砂利を転がすような音が斜路の壁に跳ね返って、操縦席の床まで震わせた。いきなり来た。身構える暇もなかった。崩れ狼が斜路を駆け下り、巨大な前脚で戦車の鼻先を叩いた。
――ガンッ!!
車体が横へ跳ね、斜路の壁に叩きつけられた。額を計器盤にぶつけて、目の前に白い星が散る。計器の表示がいくつか、ちかちかと瞬いた。
「っ……!」
「後退を」
女の人の声。言われるままに後ろへ下げる。崩れ狼の爪が、さっきまで操縦席があった場所の装甲を引き裂いた。鉄の裂ける音が、歯の根にまで響いた。
逃げたい。
頭より先に、身体がそう言っていた。足がアクセルではなく、下がる方ばかり探している。あいつに殴り飛ばされて、僕は汚染だまりへ落ちた。ガニーがあんな姿になった。マリカも殺されかけた。もう一度あいつとやり合うなんて、どうかしている。
「戦うべきです」
女の人が言った。
「え?」
「車両で通れる地上への経路は、この斜路だけです。ここで退けば、追跡されます。対象は損傷しています。この車両も戦闘可能です」
女の人は崩れ狼から目を離さないまま、続けた。
「消耗戦になります。それでも、勝算はあります」
迷いのない声だった。こっちは迷いしかないのに。
「……分かった」
操縦桿を握る。手が震えている。握り直しても、震えは止まらなかった。そのとき、今さらになって大事なことに気づいた。
「そういえば……名前」
「はい?」
「君の名前。まだ聞いてなかった」
こんなときに聞くことか、と自分でも呆れた。でも、今聞かなかったら、もう聞く機会はないかもしれなかった。女の人は、少しだけ僕を見た。
「レイです」
「レイ……」
「はい」
「分かった。レイ、行くよ」
崩れ狼が、再び身体を沈めた。
「来ます」
照準ハンドルの赤い引き金を引く。右の銃架が首を振って火を噴き、弾が崩れ狼の身体へ吸い込まれていった。何発かが肉を弾く。それでも止まらない。巨体が斜路を蹴って跳び上がった。
レイが、戦車から飛び降りた。
「えっ!?」
そのまま崩れ狼へ向かっていく。速い。人間の速さじゃない。宙にいる崩れ狼の真下へ潜り込み、その脇腹を蹴り上げた。鈍い音がして、崩れ狼の巨体が、空中でわずかに向きを変える。爪が、戦車の横の壁を削っていった。
「すご……」
見惚れている場合じゃない。崩れ狼がレイに向き直った。爪が振られる。レイはそれを避けて懐へ入り、拳を叩き込む。崩れ狼の巨体が揺れた。武器も何も持っていない。素手だ。それなのに、あの化け物と真正面からやり合っている。
でも、何かがおかしかった。僕に戦いのことなんて分からない。それでも、見ていれば分かった。レイの動きは速い。速すぎるくらいだ。なのに、ときどき、ほんの一瞬だけ引っかかる。次の動きに移る前に、身体が一拍だけ遅れる。爪をかわすたびに、本当ならもっと小さく避けられるはずのところを、大きく跳んで避けている。
レイが、誰に言うでもなく呟いた。
「……反応が、記録より遅れています。出力に問題はありません。ただ、身体が、記録と合わない」
崩れ狼の爪が、レイの髪を一房さらっていった。レイは眉一つ動かさずに着地し、また踏み込む。斜路を登りながら何度も手を握っては開いていたのは、これだったのか。長い眠りのあとで、初めて動かす身体。それも、ついさっき元の形に戻ったばかりの身体だ。レイ自身も、それを今、初めて確かめているところなのだ。
「問題ありません。修正します」
レイの声は、少しも揺れていなかった。僕も機銃を撃つ。崩れ狼がレイを追う。レイは攻撃を避けながら、斜路から広い場所へ、崩れ狼を少しずつ誘い出していく。誘い出す先は、いつも僕の撃ちやすい位置だった。レイは、自分で戦いながら、僕が撃ちやすいように崩れ狼を動かしてくれているのだ。
「射線、右」
レイの声。戦車を右へ振ると、崩れ狼の脇腹が照準の真ん中に入った。撃つ。機銃弾が肉を叩き、崩れ狼が吠える。
いける。そう思った瞬間、崩れ狼がこちらを見た。レイではなく、僕を。
まずい。
崩れ狼が、身体を低くする。その姿を見た瞬間、頭の中で何かがつながった。
ジョウたちが戦っていたとき。煙の中から消えて、気づいたら戦車の頭上にいた、あの最初の一撃。ジョウは片側の履帯を止めて車体を振り、爪を砲塔から紙一重で外させた。悔しいけど、うまかった。くず鉄の陰で、僕は本気でそう認めてしまった。
でも、あれは跳んだのを見てから動いたぶん、ぎりぎりだった。そのあとは、一度も完全にはかわせなかった。二撃目で後ろをやられて、戦車が傷んでいたせいもある。でも、それだけじゃない。あのとき遠くにいた僕には、見えていた。こいつは跳ぶ前に、戦車へ顔を向ける。身体を沈める。その直後に跳ぶ。
跳んでから動いたんじゃ、間に合わない。だったら、沈んだ瞬間に動けばいい。
「ここだ!」
アクセルを踏み込んだ。戦車が前へ飛び出す。直後、巨大な爪が、さっきまで戦車のいた場所を薙いだ。今度は、かすりもしなかった。
「避けた……!」
一度見ただけなのに。ジョウがあの最初の一回のあと、一度も避けきれなかった跳びかかりを、僕は避けた。ジョウより、僕の方がうまい。頭のどこかで、そんな声がした。ここにいもしないジョウに向かって、僕は胸を張っている。あいつの戦車は早いうちに後ろをやられていたんだから、比べるのは筋違いだ。分かっているのに、口の端がひくりと持ち上がった。
浮かれている暇はない。車体を回す。機銃。崩れ狼が追ってくる。速度を上げて、瓦礫を避ける。逃げているだけじゃ、駄目だ。
そのとき、頭の奥で、あの音が鳴った。歌うようなエンジン音。七年前の夜、炎の中で見た真紅の戦車。怪物の炎を鼻先でかわし、止まらず、退かず、気づいたときにはもう怪物の横に回り込んでいた。車体を傾けて急旋回し、撃ちながら滑るように回る。何度も夢に見た。何度も頭の中でなぞった。
あの戦車は、町のどの戦車よりずっと大きく、重い履帯で走る車体だった。あんなに重い車体で、あんな動きができたのだ。だったら、こいつにだってできるはずだ。父さんの戦車は小さい。大きな車輪で走る、軽い車体だ。重さで押し合ったら勝てない。でも、小さく回ることなら、きっと負けない。
崩れ狼が跳ぶ。沈んだ瞬間に、僕はもう動いている。前へ逃げるんじゃない。操縦桿を倒して、車体を傾ける。大きな車輪が地面を噛み、砂利を跳ね上げた。車体がぐらりと傾いて、片側の車輪が浮いた。
「うわっ……!」
倒れる。
「倒れるな、倒れるなって……!」
慌てて操縦桿を戻した。浮いた車輪が地面に叩きつけられ、尻が座席から跳ねる。崩れ狼の爪が、すぐ横の瓦礫を砕いていった。全然、あんなふうにはいかない。あの戦車は、もっと滑らかだった。傾けても倒れなかった。回りながら撃っていた。僕は回るだけで精一杯で、撃つ余裕なんてどこにもない。
それでも。もう一度。
崩れ狼が沈む。今度は、傾けすぎない。車輪が浮く手前で止める。速度を殺さないまま、崩れ狼の脇を抜けるように回る。爪が、さっきより遠いところを通り過ぎた。崩れ狼が振り返ったとき、僕はもうその横にいた。撃つ。機銃弾が、崩れ狼の脇腹を叩いた。
「……できた」
真似にもなっていない。あの夜の真紅の戦車に比べたら、よちよち歩きもいいところだ。それでも、正面から逃げ回るだけじゃなく、横へ回れた。ついさっきまで、教えてもらわなければまともに動かすことさえできなかった戦車なのに、今は次に何をすればいいのかが少しずつ分かる。
いや、むしろ分かりすぎるくらいだった。
考えるより先に、手が動いている。大きな車輪が瓦礫を噛む感触。車体が傾く角度。崩れ狼の脚の運び。全部が、身体の中へ流れ込んでくる。
そこから先は、長かった。崩れ狼は倒れなかった。機銃弾を何十発浴びても、レイの拳と蹴りを何度受けても、そのたびに唸り声を上げて起き上がってくる。崩れた肉の下で、何か別の力が、壊れた身体を無理やり動かしているようだった。
レイも止まらなかった。跳び、かわし、懐へ入り、打つ。最初のうち目立っていた一瞬の引っかかりが、打ち合うたびに少しずつ消えていく。大きく跳んでいた回避が、小さくなっていく。爪をぎりぎりで外し、そのまま反撃に移るまでの間が、どんどん短くなっていく。身体を、思い出しているんだ。戦いながら、長い長い空白を、一つずつ埋めているんだ。
僕は撃ち、走らせ、また撃った。機銃の残弾の表示が、少しずつ減っていく。崩れ狼の爪が装甲を掠めるたびに、車体のどこかが嫌な音を立てた。
「頼む、もうちょっとだけ持ってくれ……」
気がつくと、声に出していた。戦車に話しかけたところで、どうなるものでもない。分かっていても、口が止まらなかった。腕が痺れる。喉が張りつくほど渇く。それでも、手だけは止めなかった。
消耗戦になる、とレイは言った。本当に、その通りだった。お互いに少しずつ相手を削っていって、どちらが先に倒れるかを待つような戦いになった。
何度目かに車体を回したとき、レイが崩れ狼から目を離さないまま言った。
「対象は、左への旋回が遅れています。右に比べて、わずかですが」
「え?」
「左の脇腹に、異物があります。身体をひねるたびに、それが動いています」
言われて、目を凝らした。崩れ狼が左へ身体をひねる。その脇腹で、何かが揺れた。
ガニーの槍の穂先だった。あのとき、ガニーが全体重を乗せて突き立てた槍。刺さらないと思った。肉に食い込んだところで止まったように見えた。でも、止まっていなかった。穂先は抜けずに、今も崩れ狼の脇腹の奥に残っている。身体をひねるたびに、それが肉の中で暴れているのだ。
ガニーは嫌なやつだった。弱い人間を殴った。僕に石を投げた。ジョウの後ろで威張り散らしていた。最後は、汚染だまりの中で、人間の形を失った。
でも、あの一撃は本物だった。誰も気づかなかった隙を見つけて、たった一人で戦車から飛び出して、化け物の脇腹に槍を突き立てた。僕には、あんなことはできなかった。あのとき、僕はくず鉄の陰から見ていただけだった。
あいつは、戦ったんだ。
「私が右から行きます。左を、お願いします」
「……分かった!」
レイが崩れ狼の右側へ回り込み、脚を蹴りつける。崩れ狼が右を向く。その瞬間、僕は戦車を左へ回した。どこかでまたカタカタと鳴る。左が苦手なのは、向こうだけじゃないらしい。崩れ狼の左の脇腹が、がら空きになった。撃つ。機銃弾が、槍の刺さった傷口へ集まっていく。崩れ狼が、今まででいちばん大きな声で吠えた。
効いている。
「いける……!」
膝はまだ震えている。でも、戦える。今度は一人じゃない。戦車がある。レイもいる。
崩れ狼の動きが、目に見えて乱れてきた。脚がもつれる。息が荒い。傷口から流れる血のようなものが、地面に黒い溜まりを作っていく。それでも、倒れない。
「決定打が不足しています」
レイが言った。息一つ乱していない。崩れ狼の爪は、あれから一度もレイに届いていなかった。
「機銃では、致命傷を与えられません」
「主砲は?」
計器を見る。残弾の表示。一発。
「一発だけある!」
「使用してください。射線を作ります」
レイが崩れ狼の前へ出た。
「ちょ、危ない!」
崩れ狼が飛びかかる。レイは直前まで動かない。
「レイ!」
その瞬間、レイの姿がなくなった。どこへ行ったのか、一拍遅れて分かった。真横だ。さっきまでとは比べものにならない速さで、横へ跳んでいた。崩れ狼の爪が空を切り、その正面が開く。こっちを向いている。
今だ。
照準ハンドルの上のボタンを親指で押し込んで、主砲に切り替える。照準の印が、崩れ狼の胸に重なった。
「くらえ!」
引き金を引いた。
――何も起きない。
「え?」
もう一度。動かない。
「嘘だろ!?」
計器を見る。主砲の表示が消えている。さっきまで点いていたのに。最初に斜路の壁に叩きつけられたときか。あのとき、計器がちかちかしていた。どこかが壊れたのか。
「頼むから……動いてよ!」
三度目。引き金は、かちりとも言わなかった。
崩れ狼が、こちらを見る。低く唸る。そして、身体を沈めた。レイではなく、僕を見ていた。主砲を向けた僕を。この中でいちばん弱くて、いちばん目障りなものを。
視界の端で、レイが地面を蹴るのが見えた。崩れ狼と戦車のあいだへ割り込もうと、全力でこちらへ走ってくる。今のレイなら間に合う。崩れ狼の横から飛び込んで、もう一度蹴り飛ばしてくれる。そうすれば、僕は逃げられる。さっきみたいに避ければいい。
そう思った。でも、身体が動かなかった。
時間が、妙に間延びしていた。天井の穴から落ちる光の中で、舞い上がった砂粒が一つずつ見える。額から流れた汗が、眉のところで止まって、なかなか落ちてこない。足の裏で、エンジンが規則正しく震えている。
またこいつだ。こいつに殺されかけた。汚染だまりへ落とされた。ガニーがあんな姿になった。マリカも殺されかけた。
燃える町が、まぶたの裏をよぎった。青い炎。父さんの背中。母さんの笑顔。何もできずに震えていた自分。誰かが助けに来てくれるのを、ただ待っていた自分。あの夜も、真っ赤な戦車が助けてくれた。
それで、いいのか。
また僕は、誰かに助けてもらうのを、待っているだけなのか。
「来るな!!」
叫んでいた。自分でも驚くほど、大きな声だった。
レイの足が、止まった。
「レイ、来なくていい!」
操縦桿を握り直す。手はまだ震えている。怖い。死にたくない。それでも、握った指は開かなかった。
「そこで見てて」
崩れ狼が、地面を蹴った。
「こいつは――僕がやる!!」
アクセルを踏み抜いた。
「死ぬのは、お前の方だ!!」
右下のボタンを叩いて機銃に戻し、引き金を引きっぱなしにする。肩まで響く連射の振動。火薬の匂いが、操縦席の中まで流れ込んでくる。崩れ狼も止まらない。僕も止まらない。
真正面から、距離が縮まる。大きく見える。もっと大きく見える。半分溶けた顔の、濁った目の片方が、僕だけを見ている。
狙うのは、左だ。ガニーの槍が刺さった、あの脇腹だ。ほんの少しだけ、操縦桿を左へ倒す。
カタカタ。
鳴ってもいい。鳴ってもいいから、曲がれ。
崩れ狼が身体をひねる。左へ。
遅い。
「うわああああああ!!」
激突した。
ものすごい衝撃が、前から突き抜けた。身体が前へ投げ出され、胸が操縦桿に打ちつけられて、息が全部押し出される。戦車の前部が、崩れ狼の左の脇腹へ食い込んでいた。刺さったままだった槍の穂先の、その根元へ。車体の重さが、穂先を肉の奥深くまで一気に押し込んだ。
崩れ狼が、絶叫した。
巨体が弾き飛ばされた。どれだけ強くても、相手は生身の身体だ。速度の乗った戦車を真正面から受ければ、無事では済まない。崩れ狼が地面を転がった。
「やった……?」
そのとき。
――ピッ。
小さな音がした。計器の一つ。さっきまで消えていた主砲の表示が、点いていた。
「……動いた」
今の衝撃で、どこかがつながったのか。
「お前……今ごろかよ」
理由なんてどうでもいい。主砲が撃てる。崩れ狼が起き上がろうとしている。脚が震えている。脇腹から黒い血が溢れ出して、地面の溜まりを広げていく。それでも、まだこちらを睨んでいる。
上のボタンを押す。砲塔が、低い音を立てて回る。
一秒。照準の印が、崩れ狼の頭へ滑っていく。
二秒。崩れ狼の前脚が、地面を掻いた。立ち上がる。
三秒。印が、重なった。
今度は近い。外すはずがない。息を止めた。赤い引き金に、指がかかる。
「ダメ押しだ!!」
引いた。
轟音。
至近距離から放たれた砲弾が、崩れ狼に直撃した。巨体が爆炎に包まれる。耳鳴りの向こうで、何かが崩れ落ちる重い音がした。
今度は、動かない。
しばらくして、レイが近づいていった。崩れ狼を確かめて、それから、僕を見た。
「活動停止を確認しました」
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