ヤマネコ号、起動
少し休んで、ようやく立ち上がれるようになった。操縦席へ乗り込もうとして、車体の縁に手をかける。ざらりとした感触がして、手のひらを見ると、剥がれた錆がこびりついていた。天井の穴から落ちてくる細い光の中で、それは茶色というより赤に見えた。
赤。
七年前の夜、炎の中を駆け抜けていった真紅の戦車。同じ夜の夕飯の席で、収穫が終わったら堤のてっぺんで見せてやると父さんが約束してくれた夕日。赤いものを見ると、いつもどちらかが勝手に浮かんでくる。錆の色にまで引っかかるのだから、我ながらしつこい。手のひらをズボンにこすりつけて、操縦席へ潜り込んだ。
中は埃だらけだった。座席の革はひび割れ、足元には天井から落ちた砂が積もっている。見たことのない計器がずらりと並んでいて、完全に死んでいるわけではないらしく、いくつかの表示が弱々しく光っていた。前の隅に、小さなものが落ちている。さっき光をはね返していたのは、これだ。
古いロケットだった。留め金は固く、爪を立てるとかちりと開いた。中に写真が一枚入っている。若い女の人が写っていた。すっかり色褪せていたけれど、それでも誰なのかは分かった。
「……母さん?」
僕が知っている母さんより若い。髪が長くて、少し照れたように笑っている。それでも見間違えるはずがなかった。夕飯の席で「あなた、それ今日三回目よ」と笑った、あの顔だ。
どうして、母さんの写真がこんなところに。デションの言葉が、耳の奥でよみがえった。――けじめだとか言って、屑鉄の丘に捨ててきやがった。
まさか。
「これ……父さんの戦車?」
確かめる方法はない。でも、ほかの答えが一つも浮かばなかった。大きな車輪の、戦車と車の中間みたいな形。父さんが昔どんな戦車に乗っていたのか、僕は知らない。聞いても父さんは「昔の話だ」と笑うだけで、一度も教えてくれなかった。
デションの話が本当なら、父さんは母さんと畑をやるために、この戦車を屑鉄の丘の奥へ置いていった。母さんの写真を、ここに残したまま。忘れていったんじゃないのかもしれない。母さんのために戦車を手放すのだから、せめて母さんの写真だけは戦車と一緒に置いていこうと思ったのかもしれない。本当のところは分からない。もう、聞くこともできない。
ロケットを握りしめた。小さな角が、手のひらに食い込んだ。
操作盤が光り、文字が浮かんだ。パスワード。
「パスワード……」
何を入れればいい。手の中の写真を見る。母さん。名前は――。
「HANNA」
一文字ずつ、確かめながら打ち込んだ。一瞬、何も起きなかった。次の瞬間、車内のあちこちに灯りがともった。
――認証。
計器の針が震え、表示が一つ、また一つと点いていく。
「つ、ついた!」
声が裏返った。誰も聞いていないのに、と思ってから、後ろに一人いることを思い出した。けれど、喜べたのはそこまでだった。灯りはついたのに、車体はぴくりとも動かない。エンジンがかからない。どこを押しても、何を引いても、かちり、かちり、と乾いた音が返ってくるだけだ。
「動かない……」
ここまで来て。喉の奥で、悔しさが苦く固まった。
「車体の電装系は生きています。駆動系が起動しない原因があります」
後部座席から、女の人の声がした。
「計器の左から三番目を見てください。燃料の残量です」
言われた通りに見る。針が、ほんの少しだけ持ち上がっていた。
「……ちょっとだけ、ある」
「密閉が保たれていたのでしょう。地上へ出るには十分です。次に、座席の下を見てください。黒い箱があるはずです」
座席の下を覗き込むと、確かに黒い箱があった。そこから太い線が二本出ていて、その付け根が、白っぽい粉のようなものでびっしりと覆われている。
「端子が腐食しています。表面を削れば、通電が回復する可能性があります」
「削るって……何で?」
「刃物か、硬い金属があれば」
腰に差していた、先を尖らせた鉄パイプを思い出した。くず鉄拾いのときに、大ネズミを追い払っていたあれだ。尖った先で、白い粉をがりがりと削り落とす。粉が舞って、鼻の奥がつんとした。下から、鈍い金属の色が覗いた。
「その線を、もう一度強く押し込んでください」
押し込む。
「では、もう一度起動を」
操縦席へ戻り、さっきと同じように操作する。
――ぐずっ。
エンジンが、一度だけ咳き込んで、黙った。
「かかりそう!」
「吸気口が詰まっている可能性があります。車体の前方、右側。格子状の部分です」
戦車の前に回り込む。格子の隙間に、砂と錆と、何かの枯れた根っこのようなものがぎっしり詰まっていた。手を突っ込んで、掻き出す。錆の縁で指先が切れて、血がにじんだ。痛いはずなのに、手は止まらなかった。掻き出して、掻き出して、格子の向こうが見えるようになるまで。
「これで、どう?」
「試してください」
操縦席へ飛び込む。操作する。
――ぐずっ。
一回。止まりそうになる。
――ぐずっ。
二回。止まるな。頼むから。
――ドルン。
低い音が、車体を震わせた。それからエンジンが回り始めた。最初は途切れ途切れに、やがて一定の調子で。足の裏から、座席から、背骨を伝って身体の芯まで、低い振動が上がってくる。
「動いた……」
本当に、動いた。喉が詰まった。息を吸おうとしたら、変な音が出た。泣いているのか笑っているのか、自分でも分からない。
父さんが、母さんと一緒になるために捨てて、ここに置いていった戦車。僕がずっと欲しかった戦車が、今、僕の手の下で動いている。
ジョウの戦車は、町のお下がりだ。でも、こっちは父さんの――。そこまで考えたとき、胸の中で何かが小さくふんぞり返ったのが分かった。ジョウたちが今どこにいるのかも知らない。ガニーは、もう。それなのに僕は、勝った気になっている。最低だ。最低だと分かっていても、操縦桿を握った手は、なかなか離れなかった。
「よかったですね」
後部座席から声がした。振り返ると、女の人がこちらを見ていた。表情はほとんど変わっていない。でも、声が少しだけ柔らかかった。
「……うん。ありがとう。僕一人じゃ、絶対に分からなかった」
「私は場所を伝えただけです。削ったのも、掻き出したのも、あなたです」
女の人は、僕の切れた指先を見た。
「車体各部に著しい劣化があります。装甲、駆動系ともに正常とは言えません」
「それでも動くんだよね?」
「現時点では」
「じゃあ、使える」
操縦席へ座り直して、そこで固まった。何をどうすればいいのか、さっぱり分からない。
「操縦経験は?」
「ない」
「では説明します」
言われた通りに操作すると、戦車が、がくんと前へ跳ねた。
「うわっ!」
慌てて足を離すと、エンジンまで一緒に止まった。
「入力が急です」
「ご、ごめん」
「もう少し緩やかに。もう一度、起動からです」
起動をやり直す。
――ぐずっ。ぐずっ。――ドルン。
まただ。さっきも二回だった。一回でも三回でもなく、きっちり二回咳払いをしてからでないと、こいつは目を覚まさないらしい。親方が朝いちばんに工場の戸を開けるときの咳払いに、ちょっと似ていた。もう一度、今度はそっと踏む。車体が、さっきより少しだけ素直に前へ出た。
「そうです」
「……できた」
何度か繰り返すうちに、少しずつ感覚がつかめてくる。曲がる。止まる。速度を変える。最初は一つ操作するたびに考えていたのに、慣れてくると身体の方が勝手に次を覚えていく。左へ曲がったときだった。車体のどこかで、カタカタと小さな音がした。
「今の、何?」
「特定できません。左へ旋回したときにだけ発生しているようです」
試しにもう一度、左へ曲げてみる。カタカタ。右へ曲げる。何も鳴らない。左。カタカタ。
「壊れてる?」
「少なくとも、走行に支障が出るものではありません」
どこで鳴っているのか、最後まで分からなかった。父さんも、この音を聞きながら走っていたんだろうか。そう考えたら、うるさいとは感じなくなった。
「上達が速いですね」
「本当?」
「はい。……非常に」
口の端が勝手に上がっていくのを、止められなかった。誰かに褒められたのなんて、いつ以来だろう。親方の「まあまあだな」を数に入れなければ、思い出せない。
戦車を動かしている。僕が。ずっと夢に見ていたものを、本当に自分の手で動かしている。
女の人の案内で、地下の崩れた通路を進んだ。瓦礫を踏み越えるたびに車体が大きく揺れて、操縦席の僕は右へ左へ振られる。それでも必死に進路を保った。大きな車輪が瓦礫を噛み、乗り越え、また沈む。やがて、紫色の靄が薄くなってきた。
「まもなく汚染域を離脱します」
「汚染……変質したXMA、だっけ」
「はい」
「僕にはまだ、汚染の方が分かりやすいな」
「構いません」
さらに進むと、紫色が、消えた。空気の味が変わった。思わず、肺の底まで息を吐いた。
「出た……」
あの中から出られた。生きている。おまけに、戦車まで手に入れた。
そのとき、後ろが明るくなった。
「え?」
振り返ると、女の人の身体が、淡い光に包まれていた。
「な、何!?」
失われていた腕の先に光が集まり、輪郭を作っていく。脚も同じだった。壊れていた身体が、目の前で少しずつ元の形へ戻っていく。
戦車はまだ瓦礫の上を走っている。僕は揺れるたびに身体を持っていかれる。それなのに女の人は、もう後部座席に座ってはいなかった。いつの間にか、何にもつかまらずに立っていた。車体が大きく跳ねても、ほとんど姿勢を崩さない。足元だけで、揺れを全部吸い込んでいるようだった。
やっぱり、人間じゃない。
光が収まった。そこには、さっきまで腕と脚を失っていたとは思えない姿の女の人が立っていた。僕がかけた上着が、肩からずり落ちかけている。
「治った……?」
女の人は自分の手を開き、指を一本ずつ動かした。握る。開く。もう一度握る。確かめるのに、ほんの少しだけ手間取っているように見えた。それから、新しくなった脚で、車体の床を踏みしめて、静かに言った。
「ようやくです」
その一言に、どれだけのものが詰まっていたのか。そのときの僕には、まだ分からなかった。
女の人は、ずり落ちかけた上着を肩に掛け直すと、後部座席に目を落とした。座席に掛けてあった古い幌布と、床に敷かれた擦り切れたゴムの敷物。それを拾い上げて、両手で包むように持つ。また、淡い光がともった。今度は短かった。
光が消えたとき、女の人の手の中の幌布と敷物は、ほとんどなくなっていた。代わりに上着の下で、薄くてなめらかな黒いものが女の人の身体を覆っていた。布ではない。ゴムを薄く引き延ばしたような、継ぎ目のない膜だ。身体にぴったりと沿った半袖の上と、膝の上までの短い下。冬に服の下へ着込む肌着を、もっと薄く、身体に貼りつくようにしたような、飾り気のない形をしている。
「今は、これで十分です。上にいた大きな生き物が、また来るかもしれません。時間はかけられません」
女の人はそう言って、上着の前を合わせた。
「この上着は、もう少しお借りしていてもよろしいですか」
「う、うん。もちろん」
僕は慌てて前を向いた。
向き直る直前、視界の端で、女の人が新しい手をもう一度握って、開くのが見えた。
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