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荒野でおどれ 〜錆びた戦車と、旧文明の少女〜  作者: 京屋しゃべつ
錆びた戦車と、旧文明の少女

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汚染の底の、二つの目覚め

本日は2話更新です(12時・20時)。

 目を開けたとき、最初に見えたのは紫色だった。ぼんやりとした靄が、あたりを漂っている。背中の下には冷たい床。頭の奥が鈍く痛み、全身も痛い。それでも、これだけ痛むのなら、少なくとも死んではいないらしい。

「……生きてる?」

 声に出してから、慌てて自分の身体を見た。腕がある。脚もある。皮膚の色も変わっていない。指を一本ずつ折って、開いてみる。ちゃんと動く。顔に触れる。鼻も口も、ちゃんとある。

 ガニーの姿が浮かんだ。汚染だまりへ落ちて、ほんのわずかなあいだに人間ではなくなった。骨が鳴って、皮膚が裂けて、腕が捻じれて。僕も、同じようなところへ落ちたはずだった。

「なんで……」

 起き上がろうとして、後ろ頭が床に引っぱられた。

 髪が、床に貼りついている。べりっと嫌な音を立てて剥がれた。振り返って、息が止まった。さっきまで頭のあったところに、黒い染みが広がっていた。両腕で輪を作ったくらいの大きさがある。縁の方は乾いて茶色くひび割れ、真ん中だけが、まだ少しぬめって光っていた。靄の匂いに混じって、鉄の匂いがする。

 血だ。

 後ろ頭に手をやった。髪が固まって、ごわごわの束になっている。指を差し込むと、乾いた血のかけらがぱらぱらと剥がれ落ちた。その下の地肌を、恐る恐る探る。こぶがあるはずだ。裂けたところがあるはずだ。これだけ流れたのなら、指が沈むような傷があるはずだった。

 どこにもなかった。

 何度触っても、指先に当たるのは、つるりとした頭の皮膚だけだった。落ちたとき、どこかに頭をぶつけたのか。覚えていない。落ちていく途中で、何も分からなくなったから。だったら、気を失ったまま、この底で打ったのだろうか。それにしても、傷がない。これだけの血が、本当に僕のものなのかどうかも分からない。僕のじゃないなら、いったい誰の――。

 首筋のあたりが、ぞわりとした。

 それに、あれだけ高いところから落ちたのに、骨もどこも折れていないらしい。身体じゅうが痛むだけで、ちゃんと動ける。崩れ狼の前脚をまともに受けたはずの左腕も、痣ができているだけだった。

 汚染に強い人間がいる、という噂くらいは聞いたことがある。普通の人より長く汚染地帯にいられるとか、多少なら平気だとか。入口の汚染だまりの縁で僕だけ頭が痛くならないのも、慣れだと思っていた。でも、こんな濃い場所へ直接落ちて無事だなんて話は、一度も聞いたことがない。

 やめろ。頭の中で、自分に言った。考え出したら、ここから一歩も動けなくなる。分からないことを数えている暇があったら、出口を探す方が先だ。

 父さんの銃は、すぐそばに転がっていた。傷はついているけれど、壊れてはいない。拾い上げて、胸に抱いた。それだけで、少しだけ息ができるようになった。

 見上げる。崩れた天井の向こうは遠い。地下三階か、四階か。四角く切り取られた空が、小さく見えるだけだった。ジョウたちの声も、崩れ狼の咆哮も聞こえない。砲声もしない。

 逃げられたのだろうか。

 マリカは。ジョウは。ポンチョスは。

 最後に聞こえたのは、ジョウの「退却するぞ」という声だった。戦車は動いていた。マリカは、僕が突き飛ばしたあと、どうなったのだろう。逃げられたなら、今頃はジョウの戦車に揺られて――そこまで考えて、胸の奥が勝手にちりっと焦げた。僕がこんな穴の底で血まみれになっているあいだに、あいつはまた、ジョウの隣に座っているのか。助けたのは僕なのに。

 そんなことを考えた自分に、うんざりした。助かっていてほしい。それだけで、いいはずだった。

 ……ガニーは。

 あれは、もうガニーではなかった。

 目を閉じて、首を振った。考えても仕方がない。

 まず、ここから出ないと。


 立ち上がり、紫色の靄の中を進んだ。昔は何かの施設だったらしい。床は継ぎ目のない固い石のようなもので、ところどころ大きくひび割れている。壁には見たことのない機械が並び、そのほとんどが壊れていた。それでも、あちこちで小さな光が点滅している。気の遠くなるほど長い年月が経っても、まだ生きている機械があるのだ。

 壁に、文字が書かれていた。旧文明の文字だ。塗料がほとんど剥げ落ちていて、読める部分は少ない。読めたとしても、意味は分からなかっただろう。ただ、大きな矢印が一つ、通路の奥を指していた。何かを案内する標識だったのだろう。ずっと昔、ここを誰かが歩いていた。この矢印を見て、どこかへ向かっていたのだ。

 その人たちは、どこへ行ったのだろう。

 通路を進むにつれて、壁の様子が変わってきた。最初は、ひび割れだと思った。違った。壁の表面が、何本もの深い溝で抉られていた。一本一本が、僕の腕よりも太い。それが三本、四本と平行に並んで、天井近くから床まで斜めに走っている。固い壁を、柔らかい土でもすくうように削り取った跡だった。

 爪痕だ。

 崩れ狼の爪よりも、ずっと大きい。比べものにならない。崩れ狼がどれだけ暴れても、こんな跡は残せないだろう。

 通路の先は、広い空間に開けていた。天井が半分崩れ落ちて、瓦礫の山ができている。紫色の靄は、ここがいちばん濃かった。足元がほとんど見えないくらいだ。

 その靄の中に、何かが沈んでいた。白っぽい、弓なりに反った柱のようなもの。最初は旧文明の建材かと思った。近づいて、それが骨だと分かった。

 肋骨だった。

 一本だけで、僕の背丈の倍ほどもある。それが、靄の中から何本も突き出していた。半分以上は瓦礫と靄に埋もれていて、全体の形は分からない。どれほどの大きさの生き物だったのか、想像もつかなかった。

 背骨に沿って、冷たいものが這い上がった。こんなものが生きていた時代があったのだ。こんなものが、この場所で暴れていたのだ。そして、何かがこれを倒したのだ。

 何が?

 分からない。僕には何一つ分からない。分かるのは、ここに長くいてはいけないということだけだった。

 骨の山から目を逸らして、僕は先を急いだ。


 そのとき、何かが聞こえた。

 ――バチッ。

 電気が弾けるような音だった。足を止める。息を殺す。

 もう一度。

 ――バチ、バチッ。

 骨の山から少し離れた、崩れた壁の瓦礫の方からだ。銃を構えて、慎重に近づいた。逃げ道を確かめる。来た通路。それから、右の崩れた壁の隙間。大丈夫だ、走れば間に合う。たぶん。

 瓦礫の山の前で、足が止まった。崩れたコンクリートの塊と、ねじれた鉄骨が折り重なっている。その隙間から、何かが突き出していた。

 白い。細い。五本の指がある。

 手だった。

「……っ!」

 瓦礫の下から、人間の腕が一本、肘のあたりまで突き出している。指は軽く曲がったまま、ぴくりとも動かない。

 心臓が跳ね上がった。誰かが、ここに埋まっている。ガニーのことが頭をよぎった。でも、あれとは違う。あんな形をしていない。これは、ちゃんとした人間の腕だ。白くて、細くて、きれいな――。

 誰だ。こんなところに、どうして。僕と同じように、上から落ちてきたのか。ハンターか。くず鉄拾いか。それとも――。

 考えるより先に、身体が動いていた。銃を置いて、瓦礫に手をかける。崩れたコンクリートの破片を、一つずつどかしていく。重い。指の皮が擦り剥けて、爪の間に砂が詰まる。それでも手は止まらなかった。この汚染の中で、まだ生きているはずがない。分かっていた。分かっていても、放っておけなかった。

 腕の付け根が見えた。肩が見えた。長い髪が、瓦礫の隙間からさらりとこぼれ出た。銀色の髪だった。この町で、そんな色の髪をした人は見たことがない。

 そして、顔が見えた。

 女の人だった。

 目を閉じていた。眠っているようだった。煤も泥もついていない。輪郭がくっきりとしていて、額から鼻筋、顎へと続く線のどこにも、歪みがない。右と左が、鏡に映したようにそっくり同じだった。僕の顔なんて、ボロ屋のひびの入った鏡で見ると、右の眉だけ少し下がっている。この顔には、そういうところが一つもなかった。長い睫毛まで、左右で同じだけ並んでいるように見えた。汚れた地下の中で、そこだけが別の場所から切り取られて置かれたみたいだった。こんな場所には、あまりにも似合わない。

 きれいな人だ。

 そう見とれてしまってから、そんなことを考えている場合じゃないと首を振った。何をやっているんだ、僕は。

「……あの」

 声をかける。返事はない。もう少し瓦礫をどかすと、胸元が見え、反対側の肩が見えた。

 そこで、手が止まった。

 反対側の腕が、なかった。

 肩のすぐ下から先が、ない。それなのに、血が出ていない。断面から覗いているのは、骨でも肉でもなかった。金属のようなものと、細い線と、僕には何なのか分からない部品。その奥で、小さな火花が散っていた。

 ――バチッ。

 さっきから聞こえていた音は、これだった。

 瓦礫の隙間からは、脚も出ていた。片方は、膝のあたりから先がない。その断面にも、同じように金属が覗いている。

「……機械?」

 思わず後ずさった。旧文明の機械。しかも、人間そっくりの。

 屑鉄の丘をうろつくジャンクウォーカーを思い出した。銃口を突き出して、僕の顔のすぐ横を撃ち抜いたあいつ。あれだって、昔は何か別のものだったのかもしれない。人間の形をしているから安全だなんて保証は、どこにもない。

 足元に置いた銃を拾い上げ、両手で握った。震える指で、銃口を女の人の顔へ向ける。

 撃つのか。

 撃たないのか。

 動かない。機械なら、壊れているのかもしれない。このまま放っておいて、先へ進めばいい。でも、もし動き出したら――。

 引き金に、指がかかった。

 その瞬間。

 女の人の目が、ぱちりと開いた。


   ◇


 ――起動。

 最初に戻ってきたのは、音だった。金属の擦れる音。瓦礫の動く音。そして、すぐ近くで聞こえる、速くて浅い呼吸の音。

 次に、体内の状態が流れ込んでくる。

 左腕、肩部より先、欠損。右脚、膝部より先、欠損。全体の修復率、およそ八割。駆動系、未修復。体幹および四肢への動力伝達、停止。エネルギー残量、十分。ナノマシン活動率、極めて低い。周囲環境、高濃度の変質XMA。修復阻害、継続中。

 私は、どうなったのだろう。

 記録を辿る。最後の戦いの記録は、欠けずに残っていた。巨大な敵。熱。咆哮。西の砂漠から東へ、食料を運ぶ道を通すために、私はあれと戦った。最後の一撃は、確かに届いた。中枢を断った手応えも、記録に残っている。

 倒したはずだ。

 倒しきれた、だろうか。

 そのあとの記録は、空が遠ざかっていく感覚と、身体が砕けていく感覚で終わっている。その先にあるのは、記録と呼べるものではなかった。暗闇。紫色の靄。ごくわずかずつ、自分という形を組み直していく、気が遠くなるほど長い作業。繰り返し、繰り返し。終わりの見えない修復の記録だけが、途方もない長さで積み重なっている。

 それでも、身体を動かすための部分だけは、どうしても組み上がらなかった。人工筋肉へ力を送る経路は、それ自体がXMAを流して動く。変質したXMAに満ちたこの底では、組み直したそばから狂っていく。この速度では、あと何十年かかるのか見当もつかなかった。内部の時計も、とうに狂っている。どれだけの時間が経ったのか、正確には分からない。ただ、長い。とても長い。

 人類は、この地を越えられるようになっただろうか。西の食料は、東へ届くようになっただろうか。もし道が通じていれば、人はあれ以上衰えることはないはずだ。どれだけ時間が経っていたとしても。共に戦った者たちは、どうしたのだろう。

 答えはどこにもなかった。暗い汚染の底で、問いだけが浮かんでは沈んでいった。

 いつだったか、上から重い金属の塊が落ちてきたことがあった。記録に残っているのは、それだけだ。それ以外には何も起きず、誰も来なかった。

 少し前、上で大きな振動があった。大型の生物。爆発に似た衝撃。それから、何かが落ちてきた音。

 そして今、すぐ近くに、誰かがいる。

 感覚器を一つずつ立ち上げる。視覚は、まだ戻らない。熱源。呼吸。心拍。体温。

 人間だ。

 あり得ない。この濃度の変質XMAの中で、生身の人間が活動できるはずがない。数分と経たずに、人の形を保てなくなる。それなのに、この人間は動いている。瓦礫をどかし、私を掘り出し、今は私のすぐ前にいる。心拍が速い。呼吸が浅い。怯えている。

 金属の擦れる、小さな音がした。銃だ。旧式の、火薬で弾を撃ち出す銃。金属音と熱源の位置から、その銃口が私に向けられていると分かった。金属は、小刻みに鳴り続けている。引き金にかかった指が、震えているのだろう。

 旧式の火薬銃の弾なら、この身体に致命的な傷を負わせることはない。せいぜい、修復の手間が少し増える程度だ。もっとも、今の私には、身をよじる力さえないのだけれど。

 それよりも、これほど怯えている人間が、なぜ逃げずにここにいるのか。そちらの方が、気にかかった。この人間は、私を掘り出した。汚染の底で、たった一人で、息を切らしながら。初めから撃つつもりなら、わざわざ掘り出したりはしないはずだ。

 長い時間の果てに、ようやく誰かが来た。

 視覚が戻る。

 私は、目を開けた。

お読みいただきありがとうございます。

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