幕間 負け犬たちの帰り道
本日2話目の更新です。12時にも更新しています。
戦車は、ひどい音を立てていた。最初に崩れ狼の爪をまともに受けた後部の装甲が大きくひしゃげ、その歪みがどこかの部品に食い込んでいるらしい。履帯が回るたびに、金属の擦れ合う甲高い悲鳴が上がった。側面にも砲塔にも、爪で抉られた溝が何本も走り、機銃の台座は曲がったまま、銃身があらぬ方を向いている。朝あれほど力強く唸っていたエンジンも、今は一歩ごとに息を切らすように咳き込んでいた。
ジョウは、指の関節が白くなるほど強く操縦桿を握りしめていた。前だけを見て、一度も振り返らない。くず鉄の壁の間を抜けるたびに車体のどこかが擦れて、火花が散った。来るときには、一度もぶつけなかったのに。
誰も、何も喋らなかった。
後部座席では、ポンチョスが両腕で自分の身体を抱えるようにして縮こまっていた。揺れるたびに頭が車体の壁にぶつかったが、それにも気づいていないようだった。砲塔の座席では、マリカが膝を抱えて震えている。歯の根が合わず、かちかちと小さな音が鳴っていた。
屑鉄の丘を抜けたのは、日が西に傾き始めた頃だった。干上がった貯水池の縁が見えたところで、ジョウは戦車を止めた。エンジンは咳き込みながらも回り続けている。ジョウは操縦桿から手を離さないまま、しばらく黙っていた。
「……ガニーは」
かすれた声だった。そこで止まって、続きは出てこなかった。ジョウは唇を噛み、何かを振り払うように首を振った。
「……あいつが、勝手に飛び出したんだ」
誰に言うでもない呟きだった。
「俺は出ろなんて言ってねえ。戦車の中にいりゃよかったんだ。あいつが勝手に……槍なんか持って……」
ポンチョスが、びくりと肩を震わせた。何か言いたげに口を開いて、閉じた。ジョウはまた戦車を動かした。それきり、ガニーの名前は口にしなかった。
ポンチョスは、自分の膝を見つめていた。ガニーの最後の声が、耳の奥にこびりついて離れない。兄貴、助けてくれ。兄貴。ガニーはずっとジョウの後ろにいた。ジョウの名前で威張り、ジョウに飯をおごらせ、困ればジョウを頼ってきた。だから最後に助けを求めたのも、ジョウだった。
そのジョウは、ガニーを置いて戦車を出した。ポンチョスも、それを止めなかった。止められるはずがなかった。止めて、何ができた。汚染だまりに飛び込んで、ガニーを引きずり出せたとでもいうのか。自分も同じようになるだけだ。分かっている。分かっているのに、膝の上の指が勝手に震えた。
兄貴と呼ぶ声がひしゃげて途切れる直前、もう一つだけ、言葉が聞こえた。
とうちゃん。
町では誰より図体がでかくて、誰より偉そうだったあのガニーが、いつもは「親父」としか呼ばなかったくせに、小さな子供のように父親を呼んでいた。胸の奥が重くて、息がうまくできなかった。
それに、もう一つ。
ポンチョスは見ていた。
崩れ狼がマリカに飛びかかろうとした瞬間、くず鉄の陰から、何かが飛び出してきた。速すぎて、最初は何なのか分からなかった。人間だと気づいたのは、それがマリカの前で止まったときだった。
あいつだった。くず鉄拾いの、ひょろひょろの、いつもガニーに石をぶつけられていた、あいつだ。
あんな距離を、どうやって一瞬で詰めたのかは分からない。分からないけれど、あいつはマリカを突き飛ばして、代わりに崩れ狼に殴り飛ばされた。そして、崩れた床の向こうへ落ちていった。紫色の靄の中へ。
崩れ狼の方も、何が起きたのか分からなかったらしい。前脚を振り抜いた格好のまま、あいつが落ちていった穴の方を見て、ほんの少しのあいだ動かなかった。その隙に、ポンチョスは砲塔から身を乗り出して、地面に転がっていたマリカを引っぱり上げた。ジョウが戦車を後ろへ下げ、そのまま逃げ出すことができたのは、あの一瞬があったからだ。
あいつがいなければ、今頃マリカは、ガニーと同じところにいた。
ポンチョスは顔を上げて、砲塔の座席のマリカを見た。それから、ジョウの背中を見た。言わなきゃいけない。あいつがマリカさんを助けたっす、と。あいつ、すごかったっす、と。
口を開いた。
「…………」
声が出なかった。
ジョウの背中が、何も言うなと言っていた。今ここで、あいつの話をしたら。ガニーを置いてきたことと一緒に、あいつのことまで持ち出したら。ジョウがどんな顔をするか、ポンチョスには想像がついた。
ポンチョスは、口を閉じた。
昨夜、路地で鉢合わせたときのことを思い出した。あのときも、何か言おうとして、言えなかった。工場で、みんなと一緒に笑ってしまったことを謝りたかった。笑うつもりなんてなかったのに、ガニーとジョウが笑っていたから、つい笑ってしまったのだと。
結局、自分は一度も、何も言えなかった。
あいつがあんなところへ落ちてしまった今では、もう謝ることもできない。
ポンチョスはまた膝を見つめた。戦車の悲鳴のような軋みが、いつまでも続いていた。
マリカの震えは、なかなか止まらなかった。目を閉じると、ガニーの姿が浮かぶ。骨の鳴る音。皮膚の下で何かが膨れ上がる様子。人の形が、ぐにゃりと崩れていくところ。目を開けても、それは消えなかった。
そして、その次に浮かぶのは、あいつの顔だった。目の前に、急に現れた。どこから来たのか分からなかった。気づいたら、そこにいた。目の下に濃いクマを作った、痩せた、見慣れた顔。でもそのとき、その顔は、マリカの知っているどの顔とも違っていた。
――逃げろ!!
あいつが、あんな声を出すのを、初めて聞いた。
突き飛ばされて地面を転がって、顔を上げたときには、あいつはもう宙を飛んでいた。崩れた床の縁を越えて、紫色の靄の中へ、吸い込まれるように落ちていった。
マリカは、膝を抱える腕に力を込めた。
違う。
あいつが勝手に飛び込んできただけだ。頼んでなんかいない。助けてなんて言っていない。あいつが、勝手に。それに、あれは汚染だまりだった。ガニーがどうなったか、この目で見た。あいつだって同じだ。きっと今頃は、もう――。
どうせ、死んだ。
そう思った瞬間、胸の奥で何かがちくりと痛んだ。マリカは、それに気づかないふりをした。
考えなければいけないことは、他にあった。町に帰ったら、どう説明するか。ガニーのこと。あいつのこと。父さんは、きっとものすごく怒る。町長だって黙っていないだろう。一度で二人も死なせて、戦車まで壊して帰ってくるのだから。
マリカは、操縦席のジョウの背中を見た。
ジョウは失敗した。崩れ狼に負けた。ガニーを置いて逃げた。それでもジョウには、まだ戦車がある。壊れてはいるけれど、直せないほどではない。自分が直せばいい。それにジョウは町長の息子だ。金もある。町長だって、息子をこのまま放っておくはずがない。
まだ、大丈夫。
ジョウの隣にいて、損はない。
そう計算したところで、小さく息が漏れた。震えが、少しだけ収まった。
それでも、目を閉じるたびに、あの声が聞こえた。
――逃げろ!!
マリカは、目を閉じないようにした。
ジョウは、前だけを見ていた。見ていないと、何かが崩れてしまいそうだった。
崩れ狼なんか大したことはない。たまにしか出てこない臆病者だ。主砲を一発ぶち込めば終わる。工場で、あれだけ大口を叩いた。マリカの前で。守備隊の連中の前で。ポンチョスの定食屋で、杯を掲げて。
主砲は直撃した。それで終わるはずだった。
終わらなかった。
煙の中から消えて、気づいたら頭の上にいた。あの瞬間を思い出すと、操縦桿を握る手に勝手に力が入る。考えるより先に、右の履帯を止めて車体を振っていた。爪は砲塔をかすめて、空を切った。かわしたのだ。守備隊の誰に、あんな真似ができる。それなのに、着地したあいつの次の一撃で、戦車の後ろをやられた。
そこから先は、何度跳ばれても、一度も避けきれなかった。反応はできていた。操縦桿は倒していた。それなのに、戦車がついてこなかった。あと一拍早く動けていたら。あの一撃さえなければ。
守備隊で、何度もモンスターを追い払ってきた。戦車にも乗った。町の周りでは、自分より強いやつなんかいなかった。だから外でも通用すると思っていた。親父だって、兄貴だって、自分の腕を認めていた。認めていたはずだ。
町に帰ったら、親父は何と言うだろう。
ジョウは、その先を考えないことにした。代わりに、別のことを考えた。たまたまだ。あの狼が、思っていたより少しだけ強かっただけだ。準備が足りなかっただけだ。次は、もっとでかい砲を積めばいい。もっといい戦車に乗ればいい。そうすれば。
戦車の軋みが、ジョウの考えを遮るように、いつまでも鳴り続けていた。
日が沈みかけた頃、レイラインの手前の坂で、エンジンが止まった。ジョウが何度かけ直しても、空回りするような音がするだけで、二度と唸らなかった。
「……どいて」
マリカが砲塔から這い出した。震える手で工具箱を開け、手提げの灯りをともして、車体の下へ潜り込む。爪をまともに受けて歪んだ後部の奥で、何かが擦れて焼けていた。
日が沈み切って、あたりが真っ暗になっても、マリカは車体の下から出てこなかった。ときどき、押し殺した泣き声のようなものが聞こえた。ジョウは操縦席から動かなかった。ポンチョスは灯りを掲げて、黙ってマリカの手元を照らし続けた。
ようやくエンジンがかかったのは、すっかり夜になってからだった。戦車は、人が歩くほどの速さでしか進まなかった。
町の灯が見えた。大通りの明かり。宿場の窓の明かり。修理工場の明かり。昨夜、ポンチョスの定食屋で騒いでいたときと、同じ明かりだった。
町の入口を越えたところで、戦車は軋みを上げて、また止まった。今度は、マリカも何も言わなかった。道の半分を塞ぐように斜めに止まった戦車を置いて、三人は降りた。
入口からほど近い守備隊の詰所の前、開けた空き地に、夜番の灯りがともっていた。戦車の悲鳴のような音を聞きつけて、家々から人が出てくる。三人はその灯りの方へ、引きずるような足取りで歩いていった。
空き地に着くなり、ポンチョスが地面に座り込んだ。マリカもその横にしゃがみ込んだ。ジョウだけが立っていたけれど、その膝は震えていた。
「ガニーは、どうした」
誰かが聞いた。誰も、すぐには答えられなかった。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になると思っていただけたら、ブックマークや、下の☆☆☆☆☆からの評価をいただけると励みになります。




