窓の向こうのマリカ
本日2話目の更新です。12時にも更新しています。
オーバーホールが終わったのは、町の古い戦車が工場に運び込まれてから十日目のことだった。その日の夕方、三番ベイから、あの戦車が自分の力で走り出てきた。運び込まれたときの濁った音は、もうしない。腹の底に響く、低くて太い唸りだった。錆を落とした車体には新しい塗料が塗られ、欠けていた履帯の板も全部新しくなっている。左の側面にあった焼け跡も、塗り直された下に消えていた。
工場の前の広場で、ジョウが戦車の上に立って声を張り上げた。
「明日の朝、出るぞ! 屑鉄の丘だ! 崩れ狼をぶっ倒して、賞金首の牙を持って帰ってきてやる!」
守備隊の若い連中が歓声を上げ、通りすがりの町の人たちも、何事かと足を止めて戦車を見上げた。ガニーが車体の上で拳を突き上げ、ポンチョスがその横で手を叩いている。マリカは油まみれの顔のまま、満足そうに車体を撫でていた。自分の手で直した戦車だ。胸を張りたくもなるだろう。分かっているのに、その手つきがやけに優しく見えて、僕は目を逸らした。
親方は工場の入口に腕を組んで立ち、その騒ぎを黙って見ていた。娘を見る顔は、誇らしいようでも、心配しているようでもあった。
僕は、その輪の外にいた。
床を掃いていた箒を握ったまま、突っ立っていることしかできなかった。この十日、あの戦車が少しずつきれいになっていくのを、僕は床を掃きながら横目で見ていた。見ていただけだった。
その夜、ジョウたちはポンチョスの実家の定食屋で騒いでいた。大通りから一本外れた路地にある、小さな店だ。ふだんは近所の人や、安く腹を満たしたい輸送車の運転手が来るくらいなのに、その夜は守備隊の若い連中が詰めかけて、店の外まで人が溢れていた。窓という窓から明かりと笑い声が漏れ、焼いた肉と酒の匂いが路地いっぱいに広がっている。腹が鳴った。こんなときでも鳴るのか、と自分の腹を殴りたくなった。
ボロ屋へ帰るには、その路地を抜けるのが近道だった。通らなければいい。遠回りすればいい。分かっていたのに、足は路地の方へ向いていた。見たくないものを、わざわざ見に行く。我ながら、どうかしている。
窓の前を通り過ぎるとき、中が見えた。大きな卓の真ん中にジョウが座っている。顔を赤くして、杯を掲げて、何か大声で喑っていた。その周りを守備隊の連中が囲み、ガニーは誰かの肩に腕を回してゲラゲラと笑っている。
そして、ジョウの隣にマリカがいた。
油汚れを落として、髪をきれいに結い直している。昼間の作業着ではなく、町の娘らしい明るい色の服だった。ジョウが何か言うたびに、マリカは身体を揺らして笑い、ジョウの肩に軽く手を置く。僕の知らない顔だ、と一瞬思った。違う。知っている。子供の頃、倉庫の裏で針金の指輪を作ってくれたときと同じ、楽しくてたまらないときのマリカの顔だ。
ただ、その顔の向いている先が、僕ではないだけだった。
足が止まっていたことに気づいて、慌てて歩き出そうとした。そのとき、店の裏口が開いた。出てきたのはポンチョスだった。両手に生ごみの入った桶を抱えている。店の手伝いをさせられているのだろう。主役の一人のはずなのに、エプロンをつけて、額に汗を浮かべていた。
目が合った。
ポンチョスの足が止まり、僕の足も止まった。路地の暗がりで、どちらも何も言わない。店の中から、ジョウの大きな笑い声が聞こえてくる。マリカの笑い声も、その中に混じっていた。ポンチョスは口を開きかけて、桶を抱え直して、目を泳がせた。
「……あの」
「…………」
「その……この前の、工場の……」
そこで、ポンチョスは黙った。続きは、いくら待っても出てこなかった。代わりに、ひどく気まずそうに目を伏せる。
「……じゃ、明日早いんで、これで失礼するっす」
それだけ言うと、ポンチョスは桶の中身を路地の隅のごみ溜めにぶちまけて、そそくさと裏口へ戻っていった。扉が閉まる直前、もう一度だけ、ちらりとこちらを振り返ったような気がした。
何を言おうとしたのかは分からない。謝ろうとしたのか、笑おうとしたのか、それとも別の何かだったのか。どれだったとしても、あいつはあの日、工場で笑っていた。それは変わらない。変わらない、とわざわざ自分に言い聞かせている時点で、少し気になっているのが自分でも嫌だった。
僕は路地を抜けて、ボロ屋とは反対の方へ歩いた。
堤の塔を登りきった頃には、すっかり夜になっていた。夕日はもうない。荒野は真っ暗で、西の方にレイラインの町の灯がぽつぽつと見えるだけだった。大通りのあたりが少し明るい。あの明かりのどれかが、ポンチョスの定食屋なのだろう。今もまだ、杯を掲げているのだろうか。
見上げると、数えきれないほどの星が出ていた。その中に、ゆっくりと動いていく光がいくつかある。瞬かずに、まっすぐに、夜空を横切っていく小さな光だ。子供の頃、父さんに教えてもらった。あれは本物の星じゃない。昔の人たちが空の上に打ち上げた機械の、なれの果てなのだという。地上の国がなくなっても、あれだけは誰に命じられたわけでもなく、まだ空を回り続けている。
昔の人は、あんなところにまで手が届いたのだ。それなのに、世界は終わった。星が落ちてきた夜も、こんなふうに星が出ていたのだろうか。考えたところで、答えてくれる人はいない。父さんがいれば、何か言ってくれたのかもしれないけれど。
もう一度、町の方を見た。町の灯の向こう、北西の暗がりに、屑鉄の丘の影が黒く盛り上がっている。星明かりの下だと、昼間よりずっと大きく、ずっと不気味に見えた。あの奥のどこかに崩れ狼がいる。そして、もう一台の戦車が眠っている。
明日の朝、ジョウたちはあそこへ行く。
崩れ狼を倒して、牙を持って帰ってくるのかもしれない。もう一台の戦車も見つけて、二台を連ねて町を出ていくのかもしれない。マリカを、その隣に乗せて。
――負ければいい。
ふっと、そんな言葉が浮かんだ。崩れ狼に追い返されて、すごすご戻ってくればいい。マリカの前で、恥をかけばいい。浮かんでから、膝を抱える腕に力が入った。最低だ。人がしくじるのを待つことしかできないなんて、ジョウに笑われても仕方がない。それに、ジョウたちが負けて帰ってきたところで、僕が戦車に乗れるわけでもなかった。
そうなったら、僕は。
僕は明日も、くず鉄を拾うのか。
膝を抱えたまま、黒い屑鉄の丘をずっと見ていた。冷たい夜風が、継ぎ当てだらけの上着の隙間から入り込んでくる。腰の銃が、ずしりと重かった。その夜も、ほとんど眠らなかった。
翌朝、僕はいつもより早く屑鉄の丘へ向かった。ジョウたちを追いかけるつもりだったわけじゃない。少なくとも、そのときの僕はそう思い込んでいた。いつも通りくず鉄を拾いに行くだけだ。モンスターを撃って、部品を拾って、帰るだけ。
それなのに、その日の僕は、今まででいちばん奥まで入り込んでいた。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になると思っていただけたら、ブックマークや、下の☆☆☆☆☆からの評価をいただけると励みになります。




