ジャンクウォーカーを撃て
本日は2話更新です(12時・20時)。
町の古い戦車が工場で直されていった十日のあいだ、僕は工場で働かない日には、毎日のように屑鉄の丘へ通っていた。その十日の中で一度だけ、本気で逃げ出した日がある。
戦車が工場に運び込まれた、次の日か、その次の日のことだった。大ネズミなら二発で倒せるようになって、僕は少しいい気になっていた。いつもより少しだけ広く歩き回っているうちに、崩れたくず鉄の山の陰に、ぽっかり開いた穴を見つけた。大ネズミの巣だ。巣の中には、まだ誰も拾っていない部品があるかもしれない。そう考えた足が、勝手に穴の方へ向いていた。
穴の手前で、止まった。
デションの声が、頭の中で鳴った。――撃つ前に、逃げ道を見とけ。
辺りを見回す。来た道は、くず鉄の壁に挟まれた細い通路だ。それから右手に、壁と壁のあいだの、人ひとりがやっと通れるくらいの狭い隙間があった。あそこを抜ければ、入口の方へ戻れるはずだ。それを確かめてから、穴の方へ向き直った。
一匹、出てきた。いつもの大ネズミだ。落ち着いて銃を構えて、撃った。一発目で足が止まり、二発目で倒れた。
その音で、穴の中が騒がしくなった。
二匹、三匹。四匹。次から次へと、大ネズミが湧き出してくる。そして最後に、それが出てきた。
大きかった。ほかの大ネズミの倍はある。背中の毛は抜け落ちて、その下の皮膚が、錆びた鉄板のような灰色に硬く変わっていた。前歯は、僕の指より長い。そいつが、赤い目で僕を見た。
撃った。当たった。硬い背中に弾かれて、火花が散った。
効いていない。
大きいのが、甲高く鳴いた。周りの大ネズミたちが、一斉に僕の方へ向かってきた。
考えるより先に、身体が動いていた。右の隙間へ飛び込む。くず鉄の角に肩をぶつけ、袖が裂けて、腕に焼けるような痛みが走った。止まらなかった。止まったら終わりだと、考えるまでもなく分かっていた。身体をねじ込むようにして、隙間を抜けた。
後ろで、がちん、と何かが噛み合う音がした。振り返ると、隙間の入口に、あの大きいのが頭を突っ込んでいた。身体が大きすぎて入ってこられない。長い前歯が、僕の靴のすぐ先で、何もない空を噛んでいた。ほかの大ネズミたちが、その脇をすり抜けて入ってこようとする。一匹撃ち、もう一匹撃った。それで、残りは引っ込んだ。
僕はそのまま、這うようにして隙間の奥へ進んだ。入口の方へ出たとたん、膝ががくがく笑い出して、しばらく立ち上がれなかった。袖の裂け目から、血が滲んでいた。
逃げられたのは、逃げ道を見ていたからだ。
見ていなかったら、今頃は、あの前歯に噛み砕かれていた。
その日は、それで帰った。誰にも言わなかった。デションにも、親方にも。袖の破れは自分で縫った。針を持つ指がまだ震えていて、三回も指を刺した。夜、毛布の中で、あの前歯が空を噛む音を何度も聞いた。がちん。がちん。目を閉じるたびに、靴の先で鳴った。
それなのに、三日もすると、また奥へ行きたくなっていた。
あのときは逃げられた。逃げ道さえ見ておけば、逃げられる。だったら、もう少しくらい奥へ行っても大丈夫だ。
今思えば、それがいちばん危ない考え方だった。
ある日、いつもの場所から、少しだけ奥へ進んだ。
本当に少しだけだ。危ないと思ったらすぐ戻る。デションだって「危なかったら逃げろ」と言っていた。逃げる準備さえしておけば、約束を破ったことにはならない。……ならない、はずだ。そうやって自分に言い訳しながら、足は止まらなかった。
入口から離れるにつれて、くず鉄の壁は高くなっていった。二、三メートルだった壁が、四メートル、五メートルと積み上がり、頭上の空が細い帯になる。足元のくず鉄も、入口のようには踏み固められていない。一歩ごとに錆びた板がたわみ、崩れた鉄骨がぎしりと軋む。人の歩いた跡が、ほとんどない。
奥のくず鉄は、入口のものとは様子が違っていた。入口のくず鉄は、何十年も人に拾われ尽くして、細かく砕けた錆の屑ばかりだ。奥には、旧文明の頃の形をそのまま残したものが、まだたくさん埋もれていた。半分潰れた車の骨組み。ガラスの抜けた窓枠がずらりと並ぶ、建物の壁の一部。何に使ったのかも分からない、人の背丈ほどもある歯車。
その中の一枚に、目が留まった。
くず鉄の山の斜面に、大きな板が斜めに突き刺さっていた。表面の塗料はほとんど剥げ落ちていたけれど、一部だけ絵が残っている。青い空。見たこともないくらい背の高い、ぴかぴかの建物がいくつも並んだ町。その町の真ん中で、きれいな服を着た人たちが笑っている。子供が、大人に手を引かれて歩いている。
旧文明の町なのだろう。昔の人たちは、こんなところで暮らしていたのだ。腹を空かせることも、モンスターに怆えることもなく。
その町は、今どこにあるのだろう。この屑鉄の丘のどこかに、粉々になって埋まっているのかもしれない。あの笑っている人たちも、空から星が落ちた日に、みんな――。
絵の中の空は、頭の上の本物の空よりもずっと青かった。手を引かれている子供の顔だけ、塗料が剥げて、なくなっていた。しばらく眺めてから、その場を離れた。
途中で、初めて汚染だまりを間近に見た。
くず鉄の山と山のあいだの窪みに、紫色の靄が溜まっていた。そこだけ空気に色がついている。風が吹いても、靄は揺れもしない。見えない器に注がれた水のように、ぴたりとその場に留まっている。窪みの底には、何かの骨が転がっていた。大ネズミのものなのか、もっと別の何かなのか、形が歪みすぎていて分からない。
近づいてはいけない。誰に教わらなくても、身体がそう言っていた。うなじの毛が逆立つ。大きく回り込んで、その窪みから離れた。
回り込んだ先で、初めて見るモンスターに出くわした。
最初は、くず鉄の塊だと思った。壊れた機械を無理やり寄せ集めたような身体で、錆びた脚を引きずりながら歩いている。胴体からは、銃口のようなものが突き出していた。
見た瞬間、くず鉄の陰へ身を隠した。――あいつ、撃ってくる。大ネズミとは違う。近づかなくても、僕を殺せる。心臓が急に速くなった。帰ろう。これがデションの言っていた「嫌な感じ」だ。逃げるべき相手なのかもしれない。
なのに、少しだけ顔を出していた。機械はこちらに気づいていない。背中を向けている。今なら撃てる。大ネズミより大きい。でも機械なら、壊せば止まるはずだ。父さんの銃だって、大ネズミだけを撃つための銃じゃない。都合のいい理屈ばかりが、次から次へと湧いてくる。逃げ道は、右のくず鉄の切れ目。それだけは確かめてから、銃を構えた。
撃った。外れた。機械が、こちらを向く。
「やばっ!」
慌てて身を引く。直後、さっきまで顔があったところで何かが弾けて、くず鉄の破片が頬を打った。本当に撃ってきた。帰ればよかった。今から帰りたい。それでも、もう一度だけ顔を出した。撃つ。外れる。向こうも撃つ。隠れる。息が苦しい。手が震えて、照準がぶれる。でも、まだ生きている。
もう一度撃つ。今度は当たった。機械の身体から、火花が散る。
「当たった……!」
まだ動いている。また撃つ。今度も当たった。機械の動きがぎくしゃくし始める。
「死ね……!」
自分の口から出たとは思えない声だった。もう一発。機械の身体が大きく痙攣して、そのままくず鉄の上へ崩れ落ちた。
しばらく、動けなかった。大ネズミとは全然違った。一歩間違えれば、撃たれていた。頬に触れると、指先に血がついた。破片で切れたらしい。それでも、僕は勝った。
「…………勝った」
笑いが込み上げてきた。止めようとしても止まらなかった。僕はやれる。僕は戦える。僕は――ハンターになれる。
機械の残骸を調べると、胴体から突き出していた銃口は、古い銃の銃身と機関部を、針金で無理やりくくりつけたものだった。一発ずつしか撃てない、粗末な仕掛けだ。それでも部品そのものは旧文明のものらしく、錆びてはいるけれど形は崩れていない。ほかにも、配線の束や、まだ光る小さな部品がいくつも出てきた。袋に詰められるだけ詰めた。帰り道、背中に食い込む重さが嬉しくて、何度も袋を背負い直した。
そこからだった。今思えば、完全に調子に乗っていた。
屑鉄の丘へ行く回数が増えた。入口でくず鉄を拾うだけでは物足りなくなった。昨日より少し奥へ。何もなければ、次の日はもう少し奥へ。モンスターを見つけたら、戦えそうか考える。勝てそうなら撃つ。倒したら残骸を調べて、売れそうな部品を持って帰る。
デションに借りた箱の弾は、気がつけば底が見え始めていた。ネズミの巣から逃げ出したときにも、機械のモンスターとの撃ち合いでも、ずいぶん使ってしまった。
機械の残骸から外した古い銃身と機関部は、親方に見せずに、くず鉄屋へ売った。親方に見せたら、どこで拾ったのか、また聞かれる気がしたからだ。くず鉄屋の親父はそれを手に取るなり、片眉を上げた。
「ジャンクウォーカーの腹から抜いたな、こりゃ」
「ジャンク……何?」
「屑鉄の丘をうろついてる、銃をくっつけた機械だよ。昔の機械の残骸が、くず鉄を寄せ集めて歩き回ってやがる。ハンターの連中はそう呼んでる」
そこで親父は、少しだけ胸を張った。
「呼び始めたのは俺だがな」
やっぱり、と思った。この親父は、店に持ち込まれるものに片っ端から名前をつける。錆びた鍋の蓋にも、ねじ曲がった配管にも、秤に載せる前に名前がついている。ハンターの連中が本当にそう呼んでいるのかどうかは、かなり怪しい。でも、ジャンクウォーカー。くず鉄を寄せ集めて歩くもの。悔しいけれど、あの機械にはぴったりだった。
「弱いほうだが、撃ってくるからな。素人が手を出す相手じゃねえ」
親父はじろりと僕を見たけれど、それ以上は何も聞かなかった。思っていたより、ずっといい値がついた。
その金で、弾を買いに行った。
床板の下の缶には、手をつけなかった。あれは弾に化けさせるための金じゃない。それに、弾一箱で缶の中身がどれだけ減るか、夜中に一度、蓋を開けて数えてしまっていた。数えてから、黙って蓋を閉めて、床板を元に戻した。
大通りの武器屋だ。子供の頃、店の前を通るたびに中を覗き込んでは、店の親父に「買いもしねえガキがいつまで見てんだ」と追い払われた店だ。カウンターに金を置いて、父さんの銃に合う弾をくれと言うと、武器屋の親父は僕の顔と、腰の銃と、カウンターの金を、順番に見た。
「……お前、いつも店の前でぼーっと突っ立ってたガキか」
「覚えてたんだ」
「あんだけ毎日来られりゃな。商売の邪魔で、顔まで覚えちまった」
親父はふん、と鼻を鳴らして、棚から弾の箱を下ろした。
一箱。それだけで、ねず団子が七十本は買える。孤児院の「ねず団子の日」なら、何年分になるのか、数える気にもならない。それを撃ち尽くすのに、たぶん何日もかからない。カウンターの金が、親父の手で一枚ずつ引き寄せられていくのを、僕は息を止めて見ていた。
「グレスの銃か、それ」
「……うん」
「そうか」
親父はそれ以上何も言わなかった。代わりに、何でもないことのように、弾の箱をもう一つ横に置いた。
「死ぬんじゃねえぞ。死なれたら、客が一人減っちまうからな」
「……ありがとう」
「礼なんかいらねえよ。その代わり、また買いに来い。ちゃんと生きて帰ってきてな」
店を出たとき、足が地面から少し浮いていた。初めて、あの店の客になった。店の外から覗くんじゃなく、カウンターの前に立って、金を置いた。
デションには、奥へ行くなと言われている。それは分かっていた。でも、僕は何度も勝っている。危なくなったら逃げればいい。ちゃんと相手を見ている。最初から無茶をしているわけじゃない。そんなふうに、自分に言い訳するのも、日ごとにうまくなっていった。
ハン協で雑用をする日には、デションの顔をまともに見られなかった。デションはときどき、何か言いたそうに僕を見た。頬の傷に目を留めたこともあった。それでも、何も聞かなかった。聞かれなかったことにほっとしている自分が、いちばん嫌だった。それでも、ほっとするのはやめられなかった。
夜は相変わらず、あまり眠れなかった。ただ、眠れない夜に考えることが変わった。青い炎の夢から飛び起きたあと、暗いボロ屋の中で膝を抱えながら、明日はどこまで行けるかを考えるようになった。
そしてもう一つ、頭から離れないものがあった。
戦車だ。
ジョウが言っていた。この屑鉄の丘のどこかに、まだ動かせる戦車が眠っているらしい。ジョウたちは崩れ狼を倒して、それを見つけるつもりでいる。でも、まだジョウの戦車じゃない。誰のものでもない。もし僕が先に見つけたら? もし僕が先に辿り着いて、その戦車を動かせたら? ジョウだけじゃない。僕だって、戦車乗りになれる。ジョウの悔しがる顔まで浮かんできて、毛布の中で一人、にやけていた。
父さんが捨てた戦車のことも、一度だけ頭をよぎった。でも、まさか、とすぐに打ち消した。デションだって、とっくにばらされて売られていると言っていた。二十年も前の戦車が、まだ残っているはずがない。
そんなことを考えながら、僕は毎日、少しずつ奥へ入っていった。
崩れ狼の縄張りがどこから始まるのかも、知らないまま。
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