第8話 闇に光る眼
ルーベンスデルファーとエインゼルが飛び立っていった後のセント・ラースロー帝国の王宮は蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。
「なんだ? あの飛行機は……」
「凄い速さで飛んで行ったぞ! 空軍の新型機か?」
蒼穹を高く上昇して行く翼を見上げ、人々は驚く。
彼等はこれほど高速で空を駆ける飛行機など今まで見たことがなかった。大きな口をポカンと開けたまま、去ってゆく飛行機を見送っている者もいる。
ベランダから玉座の間に駆け込んだランスロットは「グズグズするな! 絶対に捕まえろ!」と周囲へ喚きたてたが、だからと言ってどうすればいいのやら……近習達はオロオロするばかり。
アリストゥスは「なんてことなの! 私の水宝玉が……」と絶句し、顔を真っ青にした。
ランスロットは心配するなと言うように彼女を抱き寄せる。
「大丈夫だ。セント・ラースロー帝国の水源、水宝玉は百もある。奪われたのはそのうちの一つだ。大したことはない。それに、すぐ取り戻してやるさ」
「……」
険しい顔のまま、アリストゥスは不承不承うなずいた。
「殿下、とりあえず首都防空の近衛飛行隊に追撃命令を出しました」
「遅いぞ馬鹿者! さっさと追わせて必ず捕まえ……あ、ちょっと待て」
思い直したランスロットは、報告した空軍将校のバレストン中佐へ「同乗しているエインゼルは傷つけるな。余のもとへ必ず連れて来い。いいな!」と命じた。
そんな都合のいいことなど出来るかとバレストンはあきれたが、ここでそれを言っても無駄だと思い、黙って敬礼し踵を返した。
アリストゥスは、横目で退出する空軍将校をチラリと見た。傍に控えていた近習の一人が恐る恐るランスロットへ声を掛ける。
「殿下、取り合えずお召替えを……」
「うるさい! こんな時にそんなノンキに着替えなんぞ……」
「いえ、違うのです……その……今日は国民へ殿下とアリストゥス様の婚約を披露するご予定になっておりますので……」
「ああ、そうか……だったら最初からそう言え!」
近習は泣きそうな顔で皇子の礼服を用意すると、その場から逃げるように去った。
「余にとって晴れの日だというのに、どいつこいつも気が利かない奴等だ……」
不機嫌そうに礼服へ袖を通し始めたランスロットへアリストゥスは艶然と微笑みかけた。
「殿下、どうか機嫌を直して下さいまし。後で一緒に甘い物でも召し上がりましょう」
「ああ、そうだな。ありがとう、アリストゥス」
「では、私もあちらでお召替えして参りますわ」
ランスロットのご機嫌を取り結ぶように素早く唇を奪うと、ドレスの裾をさやさやと鳴らしながらアリストゥスは退出してゆき、ランスロットはそれを笑顔で見送った。
だが……玉座の間を出るやいなや、アリストゥスは小走りに走り出した。
向かう先は……
「中佐さま」
呼びかけられ振り向いたのは、ランスロットから無茶な命令を言い渡されて辟易しながら退出したさっきの空軍将校、バレストン中佐だった。
「アリストゥス様?」
彼は怪訝そうな顔をしたが相手は未来の皇后たる座を約束された少女である。姿勢を正すと丁寧に敬礼した。
「私に何か御用でしょうか」
「はい」
アリストゥスはついさっきランスロットへ向けた時と同じように、艶然と微笑みかけた。
「ご相談がありまして。手短に申し上げますわ」
「?」
媚びるように上目遣いで彼を見ながらアリストゥスは話し始めた。
「脱走した彼等は、どこへ向かっていると思いますか?」
「ロゼリア姫の故国であったフェリーリラ王国なのは間違いないでしょう」
「……でしょう? それでね」
軍事のことなど皆目無知なはずのこの令嬢が、ここで「彼らが国境を越える前に、飛行経路を予測して付近の飛行隊に待ち伏せさせてはどうでしょうか」と言い出したので、バレストン中佐は驚いた。
追撃隊は先ほど離陸したが、飛行機のスピードに差がありすぎる。ルーベンスデルファーの戦闘機に追いつけるのはおそらく無理だと彼は思っていた。
しかし、予想される空路付近の飛行場へ今から通信を送り、彼女の云う通りに戦闘機隊を空に上げておけば、確かにルーベンスデルファー機を捕捉出来る可能性が高い。
それは、この異世界では画期的な考え方だった。
「なるほど、それは確かに。ではランスロット殿下に申し上げて許可を頂いてまいります」
「そんなこと悠長にやってたら間に合わないじゃない! すぐやってよ」
「そうは参りません」
ランスロットの理不尽な叱責や命令に平身低頭して従うだけの軍人も、婚約者の命令には頑として首を横に振った。
「なんでよ!」
「貴女はまだ殿下の正式な妃として即位されておられません。命令をお聞きする訳にはいかないのです」
「でも私はランスロット様の婚約者なのよ! 聞いてくれたっていいじゃない!」
「おい、つけあがるな」
それまでへりくだった様子で接していたバレストン中佐は、ふいに軍人らしい厳しい顔で態度を改めた。
「お前はまだランスロット殿下の婚約者。我が帝国に何の権限も持っていないということを忘れるな」
「なんですって!」
駄々を捏ねていたアリストゥスの美貌が怒りで鬼のように変貌したが、しょせんは我儘な女のヒステリックと高を括ったバレストンはフンと鼻で笑った。
「殿下の寵愛を得ているからといって思いあがるなよ、小娘が。分をわきまえ……」
彼は最後まで言い終わることが出来なかった。人間と思えない速さでアリストゥスが首を掴んで壁に叩きつけたのだ。
「あ……が……」
「わらわを誰と思っている。このまま首をねじ切ってやろうか? ……貴様こそつけあがるなよ」
締め上げるアリストゥスを振りほどこうとバレストンは必死にもがいたが、彼女の細腕はどんなに抵抗してもびくともしなかった。それどころか、首を絞め続けられて意識が次第に遠のいてゆく。
殺されそうな恐怖に耐えきれなくなった彼は「わかった……わかったからやめてくれ!」と命乞いした。
そのままスッと手を引かれ、バレストンはどっと床に倒れ込んだ。ゲホゲホと咳き込む彼を見下ろしたアリストゥスは、まるで何事もなかったように「じゃあ、お願いね中佐さん」と微笑みかけて、さっとドレスを翻した。
「……」
暗がりへと消えてゆく彼女の後姿を慄きながら見送っていたバレストンは、彼女がふと足を止めたのでギョッとなった。
「そうだ、言い忘れてたわ」
彼女は向こうを向いたまま、蛇のように首をぐるりとこちらへ回した。
思わず「ヒッ」と声をあげたバレストンへ、アリストゥスはささやいた。
「わかっているでしょうけど、このことを話したら生命はないものと思いなさい」
「……」
「あの女がどこへ逃げようと、私は決して逃がさない。お前もよ。あの水は私のもの、フェリーリラに水一滴だって潤わせるものですか……」
闇の中で、アリストゥスの瞳は赤く光っていた。ゾッとなったバレストンの身体が我知らず震え出す。
闇の中に光が消えた後もその震えはしばらくの間、止まらなかった……




