第27話 求愛
安心して、心が緩んだのだろう。エインゼルはとうとう泣き出してしまった。
(好きなだけ、泣かせてあげよう……)
ルーベンスデルファーは何も言わずに微笑んだ。
エインゼルは、小さな声で泣き続けている。
黙ったまま彼がしばらく操縦桿を握っていると「ルーベンスデルファー……」と、改まって自分を呼ぶ声が聞こえた。
「ありがとうございます。ここまで……貴方にはひとかたならぬ苦労をお掛けました」
「いや」
「心からお礼を言わせて下さい。いいえ、言葉だけじゃ……なにか、お礼出来るものがあればいいのに……私にはもう何もありません。ごめんなさい」
何もない、という言葉にルーベンスデルファーの胸がぐっと詰まった。
「なにか望みはありませんか? フェリーリラに着いたら国王陛下に申し上げて……きっと叶えて差し上げます」
ルーベンスデルファーは涙が出そうだった。自分のために生命さえ投げうったこの少女は、生命の灯さえ消えそうな身になってなお、何かを与えたいと思っている。
「……」
彼方の山脈に向かって愛機を飛ばしながらルーベンスデルファーはしばらく考え込んだ。
そして……
「いいだろう」
「はい」
「俺の望みはエインゼル……貴女の願いを叶えてやることだ」
「ええっ!?」
思わぬ返答に、エインゼルはびっくりした。
「そ、そんな……私の願いだなんて……」
「俺は真剣だ。貴女は今まで色んなものを犠牲にしてきた。せめて、何か俺が出来ることで報いたい」
ルーベンスデルファーは口には出さず、付け足した。
(俺は、貴女に生きる希望を与えたいんだ)
「どんな願いでもいい。お望みなら歌も歌ってやるぞ。正直なところ、聴くに耐えないほど下手くそだがな」
「まぁ」
ルーベンスデルファーが大声で笑うと、エインゼルも思わず小さな声で笑ってしまった。
「遠慮せずに言ってくれ。なんでもいい。亡きロゼリア姫も、きっと望んでおられるはずだ……」
その言葉を聞いたとき、笑っていたエインゼルはハッとなった。
(ロゼリア様が……私に望んでいたこと……)
(私が今、望んでいること……)
それは、どちらも同じ願いではないか。
「ルーベンスデルファー……本当ですか? 貴方に出来ることなら本当に叶えて下さるんですか」
「ああ、ドイツ軍人の名誉に掛けて誓う」
エインゼルはしばらく躊躇している様子だったが、やがて震え声で話し始めた。
「……ロゼリア様がお亡くなりになったときの話です。眠るように亡くなるあの方をなんとか引き止めたくて……泣きながら言いました。一緒に空を飛びましょう……だから、死なないでって。そうしたらロゼリア様は最後の力で私に縋り付いて……」
(エインゼル、いつか私の代わりに空を飛んでね……)
(でも空を飛ぶだけじゃだめ。素敵な人と巡り合って本当の恋をして)
(わたし、いつか恋をしたかったの……ここではないどこかへ……空の向こうへさらっていって欲しかったの)
「恋なんて……そう思って諦めていました。身代わりの身になる自分には……セント・ラースロー帝国でランスロット皇子を好きになるしかない運命を選んだ自分には……」
「エインゼル……」
「でも、まるでロゼリア様のお導きのように……私は貴方に出逢ってしまいました」
エインゼルが消え入りそうな声で告げた言葉を、しかしルーベンスデルファーは正しく聞き留めた。
「貴方を……愛しています……」
機内をしばらく沈黙が覆った。
彼はなんと応えるだろう……エインゼルの胸は早鐘のように鳴り、今にも止まってしまいそうだった。
「戦争で死んでしまった母さんに……約束したことがあるんだ」
ルーベンスデルファーはポツリと言った。
「“僕は飛行機乗りだ。いつか童話の王子さまみたいに魔王に囚われたどこかのお姫様を空から救い出して、お嫁さんに連れて来るから”って」
「あ……」
エインゼルは既に知っていた。自分の生命を彼へ与えた時に覗き見た、彼の記憶の中の情景。母親を慰めるために彼がおどけて言ったその言葉を……
「貴女は亡くなった姉の身代わりになったお姫様。俺はこの通り、童話の王子様なんて柄ではないが……」
「ルーベンスデルファー……」
「一緒にドイツへ行こう。もう滅んでしまったかも知れないが、それならどこか静かに暮らせる場所を見つけてやる。俺は……いつまでも貴女に傍にいて欲しい」
その言葉を聞いた瞬間のエインゼルの感激は、例えようもないものだった。
彼女は頬を紅潮させ、ルーベンスデルファーへ予言した。
「その願いは必ず叶います。水をフェリーリラに届けることが出来ればきっと……!」
そのときだった。
『いいえ、叶わないわ!』
ふいに、悪意に満ちた声が会話に割り込んだ。
それは二人の頭の中に直接響いてくる心話だった。
「今の声は……!」
『その水は私のものよ!』
ルーベンスデルファー機の行く手に、ふっと紫色の靄が現れた。周囲に電光を放ちながら広がってゆく。
『その水の一滴も、すべてわらわが復活するのに必要なのもの。返してもらうぞ!』
「その声には聞き覚えがあるぞ。セント・ラースロー帝国の略奪妃、アリストゥスだな!」
問いただすルーベンスデルファーの声に、ククク……という不気味な嘲笑が応える。
『それは、あの国の宮廷へ入り込むため人に成り済ましていた時の仮の名よ。わらわの真の名は……』
黒い靄は巨大な雲となり、そこから羽を生やした巨大な蛇がその奇怪な姿を現した。
エインゼルは信じられないように「ウロボロス……!」と絶句した。
「エインゼル、あの蛇は……」
「あれは……太古の昔に神が封じたと言われている邪神です! 私も昔話でしか聞いたことがありません。でもそれが何故ここに……」
『決まっておろう小娘! 貴様が盗んだその水宝玉、それさえわらわが取り込めば、完全に復活出来るのよ。セント・ラースロー帝国に神が落とした水宝玉は、わらわが既にすべて吸い尽くしたわ。残るはお前の持つ最後の一個……ククク』
アリストゥスの正体と、その意図を知ったエインゼルは恐怖のあまり声も出ない。
『しぶとく逃げ続けおったな。だがその水宝玉、いい加減返してもらうぞ』
身体をうねらせて飛翔するウロボロスは、言うが早いかルーベンスデルファー機に襲い掛かった。
遊弋していた大小の鳥達は、蜘蛛の子を散らすように四方八方へ逃げ散ってゆく。
だが、そこへ騒ぎを聞きつけて飛龍達が現れた。生色を失ったルーベンスデルファーの顔に希望が蘇える。
もちろん自分の味方ではないが、彼等は邪悪な瘴気をまき散らす巨大な蛇神に激しい敵意を向けていたのだ。彼等が倒してくれるかも知れない。
一匹がかん高い雄叫びを上げると、それを合図に彼等は一斉にウロボロスへ襲いかかったが……
『馬鹿め! 貴様ら如き、かなうような相手と思うてか! 身の程をわきまえろ!』
次の瞬間、ウロボロスの身体から凄まじい雷光が轟音と共に煌めく。
まとわりついていた飛龍たちはあっという間に感電し、一匹残らず消滅してしまった。
その隙にルーベンスデルファーは逃走を図ったが、それを見たウロボロスは敏捷な身のこなしでたちまち追いついてしまった。
『逃げても無駄ぞ! その水宝玉をわらわに返せば少しは楽に死なせてやろう』
ルーベンスデルファーはウロボロスの呼びかけになど取り合おうとしなかったが、相手が速度で自機に優ることを知って驚いた。
(これは、逃げ切れる相手ではない)
龍の棲み処に入国してから命懸けの連続だった。疲労困憊し、愛機もももうボロボロである。戦うには条件が最悪すぎた。
それでもルーベンスデルファーは疲れ切った身体に鞭打って戦おうとしたが、相手の動きは俊敏で海を泳ぐように空を動き回った。彼女を照準に捉えることなど思いも寄らない。
(戦っても勝ち目は十に一つもない……)
螺旋を描いて巻き付こうとする只中をすり抜け、掴みかかる鋭い鉤爪をかわすだけでも精一杯だった。それとてルーベンスデルファーの卓越した操縦技術がなければ、出来ない芸当だった。並みのパイロットなら、当の昔に機体を引き裂かれていたことだろう。
そして……
「エインゼル」
「私は……大丈夫……」
ルーベンスデルファーは自分のことより、エインゼルが心配でたまらなかった。瀕死の身体で疲れきっているのに、更に激しい操縦で右に左に、彼女は弱りきった身体を何度も機内に叩きつけられている。ルーベンスデルファーの胸は痛んだ。
だが今は労る余裕すらない。
(一体どうすれば……)
必死に考えるルーベンスデルファーを更に絶望へ陥れるかのように、機体のそばを灼熱の曳痕がよぎる。
ハッとして振り向くと、後方には死神のようなあのロシア戦闘機の姿があった。
「こんなときに……!」
(とうとう追いついたわ! 今度こそ逃さない!)




