第26話 虹
「あれは!!」
普通なら積乱雲は飛行機が最も忌避すべき危険な存在である。不安定な大気によって上昇気流が発達して出来る巨大なこの雷雲は、ゲリラ豪雨や雷、突風をもたらすのだ。近寄るだけでも墜落の危険が高く、自殺行為に近い。
だが……
(あれだ! この窮地をしのぐ為には、あの雲を利用する以外ない!)
ルーベンスデルファーはおもむろに操縦桿を引き、愛機を上昇させた。スロットルを全開にし、積乱雲へ向かって突っ込んでゆく。
「エインゼル」
「はい」
「今まで以上に苦しい飛行になる。辛いだろうが……堪えてくれ」
「貴方の為なら、私どんなに苦しくても耐えて見せるわ」
「……」
ルーベンスデルファーは黙ってうなずいた。
もし、これが飛行中でなければ、彼はエインゼルを抱きしめていただろう。
(俺は……この少女を愛している)
ルーベンスデルファーが、自分の気持ちをはっきり悟った瞬間だった。
「いくぞ!」
雷鳴や突風で荒れる雲の中に突入すると、たちまち激しい雨が機体を叩きつけた。
間近に真っ白い閃光が炸裂し、直後に鼓膜も破れんばかりの落雷音が轟く。
エインゼルは思わず悲鳴をあげたが、前の操縦席にいるルーベンスデルファーにさえ聞こえなかったほどだった。
だが、生身でルーベンスデルファーを追う飛龍たちにとって、この大自然の脅威は恐るべき敵となった。
飛龍たちはルーベンスデルファーを追って積乱雲の中へ勇敢に飛び込んだが強風に煽られ、たちまち失速して墜落するものや落雷の余波を間近に浴びて逃走するものが相次いだ。
それでもなお、諦めずに追い続ける飛龍がいる。彼等も激しい雨に視界を奪われ、己の位置すら把握出来なくなってしまった。
一方のルーベンスデルファーは操縦席の計器だけを頼りに操縦桿を握り続ける。
視界はまったくなかった。目の前は叩きつける雨で何も見えない。完全な盲目飛行だった。高度は上げ続けているが、目の前にもし何か障害物でもあれば避けることも出来ず、激突して一巻の終わりである。
ルーベンスデルファーは計器の数値と方角、自分の勘だけを頼りに跳び続けた。
エインゼルは震える手で水宝玉を抱きしめ、祈り続けている。
そうして、どれほどの時間が経っただろう……
激しく叩きつける雨、吹きすさぶ突風、触れれば一瞬で生命を奪う落雷も、耐え続けるルーベンスデルファーとエインゼルに対してついに根負けした……とでもいうように次第に衰えていった。
なおもしばらく降り続いていた雨が止んだ頃には、風のうなりも次第に穏やかなものへと変わった。
真っ黒だった空が灰色に薄まり、エインゼルが「ルーベンスデルファー、もしかしたら……」と言いかけたとき、出し抜けにルーベンスデルファーの戦闘機は積乱雲を抜け出した。
「……」
疲れ切ったルーベンスデルファーとエインゼルは声もなく、風防から周囲を見回す。
眼下は全て切り立った断崖と深い森だった。樹齢千年を優に越えるであろう巨大な樹木が聳え立っている。それは、明らかに人の住む場所とは次元の異なる世界を形成していた。様々な鳥がゆったりと羽ばたき、周囲を行き交っている。
荘厳と雄大の二語でしか現せない世界が、そこに広がっていた。
大きな鳥の中には異質な存在であるルーベンスデルファー機にちらりと視線を向けるものもいたが、ただ直線に飛んでいるのを知ると興味を無くしたように明後日を向いた。
「ここは、まだ龍の棲み処なんだろうが……」
ルーベンスデルファーはポツリとつぶやき、血走った眼を左右へ向ける。自分達を襲っていた飛龍の姿はどこにもない。送り狼のように付きまとっていたロシア戦闘機も……
敵意あるものの存在がないことを知ったエインゼルが小さな声でつぶやいた。
「私たち、助かったんですね……」
「ああ……」
口にしたものの、疲れ切った二人はしばらくの間「助かった」という実感が湧かず、飛行機は低速でフラフラと飛び続けていた。休息を取ろうにも地上へ降りるのは危険すぎた。降りられる平地さえ見当たらない。
先に人心地がついたのはやはりルーベンスデルファーの方だった。
「エインゼル、大丈夫か?」
「はい。ルーベンスデルファー、貴方は……?」
「俺もだ。だいぶん、くたびれたがな」
「ふふっ、私もです……」
疲れ果てながらも笑みを浮かべたエインゼルに、ルーベンスデルファーも微笑む。
互いを労わる気持ちで支え合い、窮地をついに脱したのだと二人はようやく実感した。
(助かったのだ……)
その時。
彼方の空で雲間から幾つもの光条がさっと地上を照らした。
何気なく目をやったエインゼルは雲間から差し込んでくる光条の美しさに息を呑んだ。
そして、その向こうに差し掛かる色鮮やかな七色の光彩を見て、思わず声を上げた。
「ルーベンスデルファー、あれを見て下さい! あれは一体……」
「虹」
エインゼルには初めて見るものだった。彼女は心を奪われたようにその光景を見つめている。
「そうか、この異世界にも神の約束した『証』はあったのだな」
ルーベンスデルファーの言葉にはどこか敬虔な響きがあった。
「証?」
「俺のいた世界では、虹は神が人へ贈ったものと言われている」
「……」
「俺の世界では遠い昔、人が神を敬わなくなってしまったので水害で滅んだという神話がある。その話の最後に虹が出てくるんだ」
「ルーベンスデルファー、どんなお話なの? 教えて……」
ルーベンスデルファーは乞われるまま、「ノアの箱舟」にまつわる聖書の話をエインゼルへ聞かせた。
その昔、人類が生命を大切にしなくなり堕落したこと。そのために神の怒りに触れ、水害によって滅んだこと。
しかし、一組の家族だけは神の言葉を信じて箱舟を作り、それに乗って助かった。水が引き、世界が荒れ果てた様を目の当たりにして神の怒りの凄まじさに恐れ慄く彼等に、神は美しい虹を創って贈り、誓約したのだという。
『この世界を二度と滅ぼすことはしない』と……
「この世界にも虹があるんだ。神に人を慈しむ心があるのなら、エインゼルの願いをきっとかなえて下さるだろう」
ルーベンスデルファーの言葉にエインゼルは目を潤ませ、うなずいた。
「それにしても、ここはどこなのか……」
ルーベンスデルファーはつぶやいた。地図上でも空白な場所なのだ。おおまかな位置の見当さえつかない。
そのとき、彼方の虹をうっとり眺めていたエインゼルが「あっ!」と目を見開いた。
「ルーベンスデルファー、見て下さい……ほら、虹のある方角のずっと先……」
「……」
ルーベンスデルファーはエインゼルの指し示す先へ目を凝らす。
地平線の遥か彼方に、険しい山がそびえているのがうっすらと見えた。
「山らしいものが見えるな。頂上が三つの頂に分かれているようだが……」
「……チアパルカ山脈。フェリーリラ王国の国境の先にある山です」
エインゼルの声は震えていた。
「あの山を越えれば……フェリーリラです」
「本当か!」
「はい、本当です! フェリーリラ……私の故国が……」
苦難に満ちた旅の果てに、彼等はついに辿り着くべき場所への最後の道標を見出したのだ。
「天のロゼリア様、見て下さいますか……貴女の故郷です……もうすぐ水が届きますよ、ロゼリア様……」




