第23話 崩壊
彼女と初めて出逢った日。
セント・ラースロー帝国に身を寄せていた自分は、突然婚約破棄され屈辱に耐えて懇願する彼女を黙って見ていられず、飛び出した。
だが本当は、故国の人々や亡き主君を一途に想う彼女の内にある美しさに惹かれて飛び出したのではないか……今、振り返ればルーベンスデルファーにはそんなふうにも思えるのだった。
「俺はもう大丈夫だ」
行こう、と力強く立ち上がった彼にエインゼルも続こうとした。
だが、手に力が入らない。立ち上がろうとしても腕が震え、弱々しくあがくだけだった。それほど身体が弱ってしまったのだ。
もう自力で立ち上がることも出来ない……
だがエインゼルが悲しみを感じる前に、ルーベンスデルファーは逞しい腕で彼女を抱き上げた。さも、それが当然だとでもいうように。
以前は羞恥心に顔を染めていたが、ここには他に誰もいない。エインゼルはルーベンスデルファーの胸にそっと顔を埋めた。
(このまま離れたくない……)
その心の声は伝わるはずもなかったが、ルーベンスデルファーはエインゼルのそんな所作を愛しく感じた。
ドイツ軍人が女々しい真似を……と躊躇う気持ちなど、今は消えていた。
(これからは俺が、生きる力を授けてやる)
「お腹、空いていませんか?」
か細い声でエインゼルが気遣う。
「私のポーチにパンがあります。一切れしかもう残っていませんが……」
「貴女は食べたのか?」
エインゼルは答えなかった。ルーベンスデルファーは黙ってパンを取り出すとそれを半分に千切り、片方をエインゼルの口にそっと押し込んだ。
「美味しい……」
「ああ」
エインゼルが微笑むとルーベンスデルファーも笑った。彼女が笑ってくれるだけで力が湧いて来る。続いて水筒の水を口元へ添えて飲ませようとしたが、エインゼルは上手に飲むことが出来ず零してしまった。
「あ……」
申し訳なさそうにエインゼルがおずおずと見上げると、ルーベンスデルファーは咎めるどころか溶けるように優しい眼差しで見つめていた。
そして水筒の水を口に含むとエインゼルの顎をそっと上げ、その唇に自分の唇を重ねた。己が含んだ水をそこから注ぎ込んだ。
「……」
エインゼルは陶然となってその水を飲んだ。こくっこくっと喉が鳴る。自然と両手をルーベンスデルファーの頬に添えていた。
まるで彼から生きる力を注ぎ込まれたようにエインゼルは感じた。
「美味しい……」
飲み終わったエインゼルは嬉しそうに微笑んだ。
「そうか……では行こう」
ルーベンスデルファーはエインゼルを再び抱き上げた。
死の淵から蘇生したばかりの身体には痛みや疲労感がまだ色濃く残っていたが、愛機へ向かう彼の歩みは力強かった。
とはいえ、この先はもっと過酷な飛行と空戦が待っているに違いない。
少しでも彼女の疲労を軽減したい……そう思ったルーベンスデルファーは、やにわに後部座席の下からパラシュートを引きずり出した。
そして、それを畳んでソファーのように敷くとその上にエインゼルを乗せた。
愛機は無数の被弾で傷ついていたが、スターターを掛けると咳き込むような排気音を立てて煙が吹き出す。エンジンがゆっくりとプロペラを回し始めた。
(俺も、こいつも、まだ飛べる……)
後部座席を見る。エインゼルは弱り切った身体で、それでも微笑みかけた。私は大丈夫です、と言うように。
「エインゼル、辛かったり苦しい時は絶対に無理をするな。空中戦の時でも構わずに俺を呼べ。必ず呼んでくれ」
「はい……」
二人は互いを労わりながらも一刻を惜しみ、再び草原に愛機を走らせて滑走し離陸した。
この先にはフェリーリラ王国への空路最後にして最大の難関「龍の棲み処」が立ちはだかっている……
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王宮の外は騒然となっていた。セント・ラースロー帝国の首都ペストブルダの道という道に群衆がひしめき、押し合いへし合いしている。
身の回りの荷物を抱えた市民たちが首都を離れ、この国を捨てて出てゆこうとしているのである。通常なら警備隊や軍が治安出動して彼等を抑えるのだが、彼等も使命感を捨てて離散し、避難民の列に加わっていた。
国を捨ててゆこうとする、そんな民を王宮の窓から見下ろし、嘆息する者がいる。
「どうして……どうしてこんなことに……」
窓から離れ、力なく閣議室のテーブルを前にうずくまったその男、ランスロットは途方に暮れるばかりだった。
前日、水源の枯渇という非常事態を知らされた彼は、しらけ切って背を向けた人々へ「セント・ラースローの国難になにをボヤボヤしている。専門家や機関を集めてなんとかしろ!」と怒鳴り散らしていた。それでなんとか出来るだろうと思っていたのだ。
だが、なんとか出来る者はいなかった。
翌朝……近習が誰も自分を起こしに来なかった為に朝寝坊したランスロットは、昨日のうちに多くの政務官や近習たちが職務を放棄して王宮が半ばもぬけの殻になったことを知って愕然となった。
「この緊急事態に何をしている! さっさと閣僚を集めろ!」
右往左往する人々の中に見知った近習を見つけて怒鳴りつけると、彼は怯えた顔で「わかりました」と応え、いずこかへと走り去った。
だが、いくら待っても一向に閣僚の集まる気配はなかった。ランスロットの命令を無視してその近習も王宮から逃亡したのである。
「こんな馬鹿なことがあっていいものか! このまま余の帝国が崩壊するなど……」
この崩壊を阻止し、立て直す術があるはずだ……そう思って探し回るうちに今度は老侍従長を見つけた。
また逃げられては元も子もない。ランスロットは「国家の緊急事態である。余は咎めぬゆえ、政務を負う者は誰でもよいから閣議室へ集まるように伝えて参れ」と、出来るだけ穏やかに命じたのだった。
こうして、民政尚書や宮内尚書、軍務省副官など、集められるだけの主だった政府高官はようやく集まったものの、その数は少なかった。
閣議室の外では慌ただしく行き来している者達の足音が絶えない。彼等もこの王宮から逃げ出そうとしているのだろう。かつて廊下のあちこちに屹立していた近衛兵も今は一人もいない。
「水が……これほど貴重な資源だとは正直、余は思っておらなんだ」
ここに至って、ランスロットは認めるしかなかった。
「水源の枯渇について、何か原因はわかっておらぬのか?」
「水源管理局で色々調査しておりましたが、原因は究明出来ておりません」
「何としても原因を突き止めよ!」
「ですが……調査担当も研究員も、もう残っておりません」
彼等も国を見捨て逃亡したと知って、怒りがこみ上げる。
だがここで怒りを爆発させれば、ここにいる者たちも自分を見放して逃げるに違いない。ランスロットは必死に自分を抑えた。
「そうだ、隣国から水資源を急ぎ輸入しよう! 金なら幾らでもある。セント・ラースロー帝国の威光を持ってすれば、向こうから水などいくらでも貢ぎに来るに決まっておるわ!」
ランスロットは皆を安心させようと笑ったが、外務の補佐次官が恐る恐る「そのことですが……」と切り出した。
「水不足だった頃から、既に近隣諸国へ水の買い付けは行っておりまして……」
「なんだ、それなら……」
「ところがその……不足量があまりにも急に増えたせいで買い付けが間に合わず……また、水の価格もどんどん釣り上げられまして国庫にはもう、幾らも金は残っておりません」
不快なことなど聞きたくないと言ったばかりに、そんなことを知らされていなかったランスロットは愕然となった。
「そんな……」
「外務大臣や政務官が幾度も交渉の場を設けましたが、足許を見透かされてどうしようもなかったそうです。彼等はそれを上申しようとしましたが殿下に怒鳴りつけられ皆、辞めました。後任はなり手がおらず、現在も空席のままです」
ランスロットは、もう耳を塞ぎたかった。
「余は悪くない! たかが水だぞ……なんとかならなかったのか!」
「外務大臣のクラスト卿は、土下座までして水を分けて欲しいと頼んだそうですが……最後は嘲笑されるばかりで相手にされなかったそうです」
「おのれ、諸外国の奴ら……セント・ラースローの臣民がどれほど苦しむか知っていながら、よくもそんな真似を……!」
地団駄を踏んだ彼は、そこでハッとなって口を噤んだ。
(どうかロゼリア様の為にもフェリーリラへ今まで同じように水のお恵みをお願いいたします……)
(は? 何をふざけたことを。ここまで余を愚弄しておいて)
婚約破棄を高らかに宣言したあの晩。
水が絶たれて苦しむ自国の民を助けて下さいと涙ながらに懇願したエインゼルを、あのとき同じように嘲笑し足蹴にしようとしたのは……他ならぬ自分ではなかったか。
(恥を知れ!)
怒りに満ちたルーベンスデルファーの言葉がふいに心に蘇る。
ランスロットは唇をわなわなと震わせた。
「違う……余はそんなつもりではなかったのだ。真実の愛を見出したから婚約破棄の口実にしただけで……」
今さらそんな言い訳を口にしたところで何にもならなかった。誰かが聞いてくれる訳でも同情してくれる訳でもなく……そして、崩れゆく己の帝国を救えるはずもない。
(どうしてこんなことに……)
(助けてくれ……誰か助けてくれ……)




