第22話 誓い
(ルーベンスデルファー……)
(生きて……)
己の命を彼の中に注ぎ込んでゆく。
すると同時にエインゼルの心に、様々なルーベンスデルファーの記憶が流れ込んできた。エインゼルがずっと知りたかったルーベンスデルファーの過去。
罪悪感を感じた。
だが、それ以上に彼女は想い人のことを知りたかった。むさぼるようにエインゼルはルーベンスデルファーの思い出をたぐり寄せる。
『まぁ、エルン。こんな立派な軍人になって。でもね……』
暗いアパートの部屋の一室。軍服姿のルーベンスデルファーへ年老いた女性が辛そうに告げる。
『こんなことを言ったらゲシュタポ(秘密警察)に連れてゆかれるかも知れないけど……お母さんは、本当はお前に軍人になって欲しくなかったんだよ』
『仕方ないよ母さん。誰かが戦わなきゃ空襲は止められないんだ……』
僕は大丈夫だよ、と逞しい手が老いた母親の背を優しく撫でる。
『エルン、配給が苦しくてね。せっかくお前が帰郷してくれたのに、こんなアイントプフ(スープ)しか用意出来なかったの。ごめんよ……』
『何言ってるんだよ。空軍の食事なんて脱走したくなるくらいまずくてっさ、本当に参ってんだ。それに比べたら母さんのアイントプフなんて最高のご馳走だよ! さぁ、泣いてないで座って。一緒に食べよう』
母親を慰めるルーベンスデルファーの目は慈しむように優しかった。
思わず手をそっと伸ばして触れたとき、エインゼルは彼がこの思い出を宝物のように大切にしていたことが分かった。
(父さんがスターリングラードで戦死してから母さんは泣いてばかりだ……急に老けこんで、こんなに小さくなってしまった)
(母さんにはもう僕だけだ。僕は絶対に死んではいけない。絶対に母さんを守ってやるんだ)
ルーベンスデルファーの心の声が聞こえる。
『母さん、空襲は酷くなる一方だけどもうすぐ戦争は終わるよ。もう四年も続いているんだ。チャーチルもルーズベルト(※ドイツと戦争しているイギリス首相とアメリカ大統領)もウンザリしてるさ』
『そうかねぇ……』
『そうだよ! そうしたら僕が死んだお父さんの時計屋を継いで繁盛させるからね。母さんも手伝ってくれよ』
『そうだね……あとは……そうだ、お前にお嫁さんを探してやらなくちゃ』
ルーベンスデルファーは困ったように笑ったが、母親が楽しそうに将来を語りだしたことが嬉しかった。
『そうは言うけどドイツ空軍はどこを向いても男ばっかりだよ。お嫁さんなんて見つけるアテもないや。困ったなぁ』
『大通りの花屋、ディートリッヒさんを覚えてるかい? あそこの娘さんがすっかり綺麗になっててね。実は母さん、いつかあの娘をお前のお嫁さんにって思ってたんだけど、空襲が酷くなって先月引っ越してしまったんだよ』
『逃げられちゃったか。そりゃ残念だ』
『困ったねぇ』
『大丈夫だよ。僕は飛行機乗りだ。いつか童話の王子さまみたいに、魔王に囚われたお姫様を空から救い出して、お嫁さんに連れて来るから』
『またこの子ったら夢みたいなことを……そもそも魔王とお姫様って一体どこにいるんだい?』
貧しい食卓を囲みながら二人きりの家族が笑いあっている。
エインゼルは微笑んだ。
思い出の欠片はそこで彼女の手から離れていった。今度は離れた場所にポツンとある黒い色の思い出が気になって触れる。
しかし触れた瞬間、彼女に言いようのない痛みがほとばしった。
(……)
今度の記憶は灰色の空の下だった。
ルーベンスデルファーは、瓦礫の中にうずくまっている。
何をしているんだろう、片付けものだろうか……エインゼルは不思議に思って見つめる。
よく見るとそこは街の中で、ただ瓦礫だらけだった。壁だけ残った家もあったが焼け焦げている。エインゼルは何故そうなってしまったのか分からなかった。
……異世界の少女は空襲というものを知らない。魔法のない世界の近代戦争がどんなに無慈悲で、むごたらしい惨禍をもたらすものかも。
ルーベンスデルファーは子供のように泣きじゃくっている。泣きながら何かを丁寧に掬ってバケツに入れていた。
エインゼルがバケツの中を覗き込むと、それは赤茶けた小さな欠片だった。
そして……
『母さん……』
彼がつぶやいたときエインゼルは絶句した。それが、爆撃で四散した彼の母親の肉片だと分かったのである。
バケツの中に彼の涙がポタポタと零れ落ちた。
『ちくしょう、こんな卑怯な戦争ってあるか!』
地面をコブシで打ち付けて叫んだルーベンスデルファーは、瓦礫の中に泣き伏した。
『母さんを守れなかった……僕、一人になっちゃった……』
見つめているエインゼルは心が張り裂けそうだった。彼が自分の身の上やドイツの話を話したくなかったのは何故なのかを彼女は知った。
エインゼルは思わず抱き着いたが、実体のない記憶の中である。彼女は幽霊のようにルーベンスデルファーの身体をすり抜けただけだった。
撃墜章を幾つも軍服に付けた空の騎士が、子供のように泣きながらつぶやく。
『母さん……母さん……僕、さびしいよ……』
悲しい記憶の欠片はそこで途切れ、手から離れていった。彼女は他の記憶に触れたが、どれも激しい空の戦いの苦しみや戦争で親しい友人を失い悲しんでいるような、辛いものばかりだった。楽しい記憶はほとんどなかった。
本来なら自分が触れることも知ることもなかった未知の世界の物語。
彼がその世界のなかでどれほどもがき苦しんできたかをエインゼルは知った。胸が激しく痛む。
(ルーベンスデルファー……)
(貴方はそんな辛い世界の中でひとりぼっちになってしまったのね……)
きっと彼は、自分のように家族を失い悲しみに暮れる人を一人でも減らそうと死を恐れず戦い続けてきたのだろう。
流れ込む記憶に触れたエインゼルは、この青年へ、たまらない哀しみと愛おしさを覚えた。彼の魂に向かって、エインゼルは呼び掛ける。
(ルーベンスデルファー。私の生命をあげる……)
(だから、生きて……生き抜いて)
小さな煌めきを残して魔法が消えると、虚脱感と今までにないほどの疲労感がすべてを覆い尽くし、その波に呑み込まれるように彼女は気を失った。
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まだ人が足を踏み入れたことのない異世界の森にも、黎明は等しく訪れた。
どこからか鳥のさえずりが聞こえる。
しばらくして朝陽が差し込んだが、硝煙と排気に汚れ切った翼は、なおもしばらくの間二人の影となってくれた。
やがて……朝の気配に気づいて先に目を開いたのはルーベンスデルファーだった。
網膜に届く朝の光は柔らかかったが、元いた世界で急な迎撃任務に幾度も飛び起きた経験からさっと上体を起こした。
……だが、実際には起こそうとした身体が鉛でも詰まっているように重く感じられ、のろのろとしか起きられなかった。
「ここは……」
頭の上に、オークに似た大樹が枝を広げていた。
そして、自分の胸の上でエインゼルが眠っていた。寝顔は天使のようだったが、その表情はいかにも疲れ切っていた。
「……」
全身に気怠さと鈍い痛みが残っている。
昨日自分が重傷を負ってここへ着陸し、気を失ったことを彼は思い出した。
エインゼルが必死に自分を操縦席から降ろして、この大樹の根元まで担いで運んでくれたのだ。
ルーベンスデルファーは優しい笑みを浮かべて自分の胸に顔を埋めている少女を見つめる。エインゼルの身体は、胸に重みをほとんど感じないほど軽かった。
「俺は……」
思い出したように額に手をやる。そこには裂傷があり血が噴き出した箇所だったが、今は傷跡だけが残っていた。細かい切り傷だらけだった手を見ると、そこも赤みを帯びた傷跡になっている。
負傷した経験なら無数にあるルーベンスデルファーは首を傾げた。一晩で治るような傷ではない。なのに、疲労や痛みこそ残っているが治っている。
そこでハッと思い至り、傍らを見る。そんなことが出来るのは……
「まさか……」
顔色を変え、上体を起こしたルーベンスデルファーは伏せているエインゼルの身体を慌てて揺さぶった。彼女は眠っているのではなく、力尽きていたのだ。
ロシア機の銃撃を浴びて本来なら戦死しておかしくない重傷を負ったのだ。それを回復するのに彼女があの禁断の魔法を使ったのだとしたら……
「エインゼル!」
彼女は炎上した愛機を蘇らせるのに既に膨大な生命を使っている。残った生命さえもすべて費やしてしまったのだとしたら……ルーベンスデルファーはエインゼルがそのまま息絶えてしまったのかと真っ青になった。
「エインゼル!」
「ルーベンス……デルファー……」
揺さぶられ、エインゼルはうっすらと目を開いた。弱々しく微笑みかける。
「よかった……生きてくれたのね……」
「それは、俺が今言いたかったことだ! ああ……」
ルーベンスデルファーは思わずエインゼルの身体を抱きしめた。
すっかり弱く脆くなってしまった彼女の身体が尊く、愛しく感じられる。エインゼルはおずおずとルーベンスデルファーの背中に手を回した。
「使ってしまったんだな。あの魔法を……」
どうして、と聞くのも愚かだった。エインゼルは何も言わなかったが、ルーベンスデルファーをさらに強く抱きしめようとして……それも出来なくなっていた。痙攣を起こしたように、その腕は震えている。
ルーベンスデルファーの目から思わず涙が溢れた。
「いいの……」
貴方が、こうして生きてくれたから……というささやきは、あまりにもか細そかった。
薄幸な身で二度も生命を捧げたこの少女をこれ以上辛い目に遭わせてはならない……窮地を歯を喰いしばって耐え抜いた男が、涙ながらに哀願した。
「エインゼル。約束してくれ。もう二度とその魔法を使わないと」
「ええ……たぶん、もう使えません……」
恥じるのも忘れ、ルーベンスデルファーは泣きながらエインゼルを見つめる。
「もうひとつ俺に約束してくれ。どんなことがあっても生きる、と……」
「ルーベンスデルファー。それは、私が貴方に約束して欲しかったことです。昨日、それをどれほど願ったことか……」
エインゼルの目は切実だった。ルーベンスデルファーはその目を真剣な表情で受け止め、うなずいた。
ドイツ空軍に入隊した時の宣誓と同じように、厳かな口調で彼は誓った。
「俺は生きている。これからも、貴女が生き続ける限り俺は。だから……」
さぁ……と乞われるまま、エインゼルも同じ誓いの言葉を口にした。
「生きます……どんなに辛くても生きるわ、私……」
故国の為に水宝玉を盗むまでした少女が、瀕死の病人のようだった。
出会った時は清楚で可憐な佇まいが今は見る影もなく、儚さと哀しみを秘めた美しさに変わっている。
だが、ルーベンスデルファーはこの少女をこれほど愛しいと思ったことはなかった……




