闇と光への一歩に、恐怖はない。
*その後、シゼとカヤの不穏な話、シゼがカヤを嫌う理由です。
珍しいこともある、とシィゼイユは目の前に立つ人物を見て思った。嫌われていることは承知であろうに、それでもなお目の前に現われるのだ。その気持ちがよくわからない。
「なにか用かい、カヤ」
姉の夫、最強の魔導師と謳われるカヤは、シィゼイユがこの世で公爵夫人の次に嫌う人物だ。
カヤに対してだけは、シィゼイユは容赦なく嫌悪を向ける。公爵夫人のように周囲を気遣う必要がないからだ。なにせ姉の夫だ。気遣いなど初めから不要である。
それに、カヤ自身も、本当はシィゼイユが嫌いなはずだ。苦手としているのは確実だ。それは妻の弟だから、ではない。人間的に、シィゼイユはカヤの嫌悪する対象になっているはずである。ただ、それを表に出すことはない。建前でそうしているのではなく、嫌いだからといって態度に出すほど、カヤが人間味のある魔導師ではないだけだ。もしかしたら、自身のその感情に気づいてすらいない可能性がある。
だからシィゼイユは、容赦なくカヤを嫌悪する。その感情に気づけと、おまえもそうなのだと、理解させるように睨みつける。
「そこまで警戒されるほどのことでもないが」
「警戒? 違うよ。わたしはおまえが嫌いだと、常々言っているはずだが?」
「それはわかっているが……」
はあ、と息をついたカヤは、目深に被っていた外套の頭巾を取りはらうと、真っ白な髪を露わにする。深い森色の双眸は、少し困惑気味だ。
「なぜ風詠を迎えた」
「おまえに言われたくないね」
「魔導師の行く末をわかっているだろう」
「充分に、承知しているよ。だからこそおまえに言われたくない」
「覚悟があるというのか」
「必要ない。わたしはギアを手放す気など、これっぽっちもないからね」
カヤは知っている。ギア以外に、シィゼイユのそれを見抜いたのは、姉だけではない。この鈍感な魔導師も、シィゼイユのそれには気づいていた。
だからシィゼイユはカヤが嫌いなのだ。
「風詠は魔導師だ」
「だから?」
「数多の人とは違う」
「わたしも、そうだよ。おまえが、そうであるようにね」
「……シィゼイユ」
森色の双眸が、きゅっと、細められる。ともすれば睨んでいるような視線に、しかしシィゼイユは怯むこともない。カヤの顔など見慣れている。
「そもそもおまえに、ギアのことでとやかく言われたくない。ギアはわたしのものだ。ほかの誰のものにもならない」
「……わからないのか」
なにを、と言うまでもなく、カヤは続ける。
「魔導師だろう、おまえは」
そう言われて、はん、と唇が歪む。
「そうかもしれないね。誰の子だと言われ続けて、架空の両親を捏造したわたしは、魔導師の子という設定を自分自身に課した。だから魔導師という生きもののことは、誰よりも理解しているよ」
自身が魔導師のような行動を取っているのは、わかっている。魔導師が唯一許された自由、それが人を愛することだ。シィゼイユは、ギアがいれば世界などどうでもいいと、本気で思うくらいには自身が魔導師みたいな生きものになっていると、そういう自覚がある。
「イーヴェはおまえにそんなことは望まなかったはずだ」
懐かしい名に、少しだけ気が緩んだ。
「イーヴェ、か……」
とても懐かしい。思い出として語られるようになって、けれどもシィゼイユの前で語る人は少なくて、なかなかその名を口にできずにいた人だ。
「影響を受け過ぎだ。その力をいい加減、捨てろ」
緩みかけていた思考が、一気に力を取り戻す。
「捨てろ? よく簡単に言えるね。イーヴェの力でわたしは生きているのだよ?」
「おれが代わりに力をやる」
「迷惑だ」
「シィゼイユ」
乞うかのように伸びてきたカヤの手を、ぱん、と叩いて払う。
「わたしに触れるな」
「イーヴェの力を手放せ」
「今頃わたしのそれに気づいたおまえに、なぜそんなことを言われなければならないのかな」
「おまえが隠していたからだろう。ロルガルーンに結界を作らせ、おれから、それを隠しただろう」
「わたしはおまえが嫌いだからね」
強く睨めば、無表情のカヤにも、僅かだが怒りにも似た感情が浮き出てくる。
「イーヴェの力は絶望に満ちていた。わからないのか、シィゼイユ。それは、イーヴェの感情なんだ」
「魔導師のように振る舞うこれが、イーヴェの影響だとしてもね、わたしは捨てる気などないよ」
「シィゼイユ」
「そう幾度も呼ぶな。嫌いだと、いくら言えばわかる」
「その感情がイーヴェのものなんだ。イーヴェは世界に絶望し、人を愛しながら人を嫌っていた。イーヴェの力に呑み込まれているんだ、シィゼイユ」
「尊敬する師を、よくそこまで言うね?」
「師だからだ。イーヴェは、だからおれが殺すはずだった」
「誰かに影響を及ぼす前に? だが残念だね。わたしは、とうの昔に、そのイーヴェから力を施された。身体の機能を、正常化させるほどにね」
今さら遅い、とシィゼイユは吐き出すように言う。
「帰ってくれないかな、カヤ。そろそろギアが帰ってくるし、嫌いなおまえといつまでも会話できるほど、わたしの心は穏やかではないからね」
「シィゼイユ」
「それともおまえは、わたしに死ねと言っているのかい?」
自嘲気味に笑いながら言うと、カヤが凍りついたように固まる。
「べつに、誰にも迷惑はかけていないだろう。ギアはわたしのものになった。わたしはギアの唯一になった。誰に迷惑をかけている?」
「……魔導師は、数多の人とは、違う」
「おまえ、どの魔導師にもそう言っているようだが、なぜ自由を許してやらない? おまえのその感情だって、イーヴェの影響そのものだろうが。わたしにだけそれを押しつけるのは、あまりにも自分勝手ではないか?」
「おれは悲しませたくないだけだ。ユゥリアを……ただ、悲しませたくないから」
「それなら、連れていけばいい。簡単なことだろうが」
「できるわけがない。ユゥリアはおれにとって唯一のぬくもりだ」
「それならますます、連れていくべきだね」
はあ、と息を吐き出す。
思えば悲しいことだ。カヤだって、望んでシィゼイユが嫌うような人物になったわけではない。イーヴェ・ガディアンという、今は亡き大魔導師の影響をカヤも受けているから、シィゼイユはカヤが嫌いなのだ。
「わたしはね、カヤ……もともと排他的なのだよ。イーヴェの影響だけが原因ではない。もともと、世界が無意味に嫌いなんだ。どこが嫌いかなんてこともわからないくらい、本当に意味もなく嫌いなものが多い」
「だから、それがイーヴェの影響だと」
「違うよ」
シィゼイユは真っ直ぐと、嫌悪のない双眸で、カヤを見つめる。
「言っただろう。わたしは、誰の子だ、と言われ続けた。それだけで、充分、世界を嫌うことができる」
「……だが」
「自分の存在を否定するなど、簡単だ。誰の子だ、そう言われ続ければわかる。もっとも、両親を知らないおまえには、理解できないかもしれないがね」
親に恵まれたからこそ、生まれる負の感情がある。だからべつに、イーヴェの影響を深く受けているわけではない。これはシィゼイユが、自ら生み出した感情なのだ。
「……まさかおまえが、あちら側に行くとは、思っていなかった。行くとしたら、おれだと思っていたのに」
カヤから苦しげに吐き出された言葉に、シィゼイユは目を細める。
「忘れているようだがね、カヤ……わたしは、王族なんだよ」
本来なら魔導師が、それを、危ぶまれる。力が極端に強い魔導師、例えばカヤやロザヴィンのような魔導師が「あちら側へ行くのでは」と危ぶまれる。
だから誰もシィゼイユのそれには気づかなかった。シィゼイユが魔導師ではないからだ。だが、魔導師の力は、根源を辿れば王族の異能から派生したと言われているものだ。ならば王族にも「あちら側へ行くのでは」と危ぶまれる要素があるということになる。シィゼイユが、すでに片足をあちら側へ持ち去られているのは、その要素を初めから持っていただけに過ぎない。まして、イーヴェの力の影響を受けている身ではなおさら、留まることはできても戻ることはできないところにまで来ていることになる。もしイーヴェに「あちら側へ行く」要素がなければ、カヤの言うように、シィゼイユがイーヴェの影響を深く受けることはなかったのかもしれない。
シィゼイユが「あちら側へ行く」ことになってしまったのは、王族であることと、イーヴェの力を身に受けたからだと言えるだろう。
「……おまえは、来てはいけないよ、カヤ。おまえだけは駄目だ」
「行くべきではないのは、おまえのほうだ」
「もう遅い」
どうにもならないのだと、シィゼイユは嗤う。
カヤが悲しげに目を細めた。
「なぜ風詠を迎え入れた……あちら側へ、行くとわかっていながら」
「ギアだから、わたしはまだ半分、こちらに残っていられる」
「……半分?」
ふとカヤから視線を外し、見るともなしに空を眺め、ふっと短い息をつく。そろそろ夕暮れが近い。
「ギアがいなかったら……わたしは随分と昔に、あちら側へ渡っていただろうね」
闇へ一歩近づくことに、恐怖を感じたことはない。逆に、光りへ一歩踏み出すことに、恐怖を感じたこともない。ちょうど自分は狭間にいるのだろうと、シィゼイユは思っている。そこにいられるのは、ギアの存在があるからだ。
だから、かろうじてシィゼイユは、「あちら側へ行く」ことなく存在していられる。完全に、「あちら側へ行く」ことは、ない。
「……留まっていられるのか、シィゼイユ」
確認するように問うてくるカヤに、シィゼイユは視線を戻した。
「自ら進んであちら側へ行きたいと、望んだわけではないからね。イーヴェは、そうではなかったようだが……おまえだってそうだろう、カヤ」
わたしは、おまえと同じだ。だからわたしは、おまえが嫌いなのだ。おまえだって、わたしが嫌いなはずだ。行きたくもないのに向かってしまう先が、同じなのだから。
「……そうか」
ほっと、カヤが息をついた。安心したのか、それともとりあえず納得しただけなのか、どちらにせよ安堵したことには変わりないだろう。
「そういうわけだから……帰れ、あほ魔導師。ギアが帰ってきたらどうするつもりだい。そもそもおまえは姉上のそばにさえいればいいんだよ。ああいや、いつものように失踪してくれてかまわないな。帰ってこなくてもいいよ」
「……シィゼイユ」
「とにかくわたしの視界に入らないでくれるかな。わたしはおまえが嫌いなんだよ。一秒だって長く同じ空気を吸いたくないのだよ。とっとと帰れ、鈍感魔導師」
わかったなら帰れ、とカヤに手を振り、くるりと背を向けた。
「シィゼイユ」
「だから、幾度も呼ぶなと言っているだろう」
「シィゼイユ」
「……うるさいね。なんだい」
「おれは、おまえが言うほど、おまえが嫌いではない」
「……、ああそう。ではね」
もう呼び止めるなよ、と思いながら扉に手をかけると、また「シィゼイユ」と呼ばれる。いい加減うんざりして目を据わらせると、隙間から見えたカヤが、珍しく笑っていた。
「風詠を幸せにしてくれ」
「……おまえに言われたくないね」
ふん、と不敵に笑って返し、シィゼイユは今度こそ扉を閉め、カヤを追い出した。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
これにて完結とさせていただきます。




