082:伊織の不安
別れ際にごめんなさいと小さく呟いた零の悲しげな声が耳について離れない。
謝らせたかったわけではない。
ただ、苦しかっただけ。
今まで自分が取ってきた行動を思えば、にわかに信じろと言って難しい事も理解しているし、彼女が過去に負った心の傷の事も知っている。
だから、彼女が他人よりも自分を卑下してしまう事も、必要以上に自信を手放してしまっている事も分かっているのに、あんな態度をとってしまった。
恋人と呼ぶにはあまりにも遠い心の距離が辛かった。
無理やり振り向かせたものの、振り向いただけで近づけたわけではないと言う現実を思い知らされた気がして。
それに、と伊織は心の中で思う。俺たちにはもう、時間がない。
時間は有限だ。自分たちがここにいる意味。
自分たちは、それぞれの目指す夢を実現するためにここにいる。卒業の日が来れば、嫌でもみなそれぞれの場所へ離れてしまう。
それまでに、もっと彼女の心に触れたい。身体の距離が離れても不安を感じずにいられるように、彼女の心を抱きしめたいと、そう願うのは身勝手なのだろうか。
「伊織様、どうかなされましたか?」
目的地に着いても車を降りず、深い思考に沈んでいた伊織は運転手の声にハッとする。
「いや、なんでもない。ありがとう。」
運転手も執事も、こんな若造相手にいつも頭を下げて悔しくないんだろうか、と時々思う。親父に言わせれば、それが彼らの仕事であり、居場所であり、なすべき事で、俺がその上に立ち、毅然と振る舞う事で成立するのだと。
彼らはプロフェッショナルだと、いつも思う。そんな彼らに敬意を払い、俺は俺の立ち位置で接する事で彼らに報いることが出来る。そう、思う事にしている。
車を降り、執事に迎えられる。久しぶりの実家だが、さして嬉しくもない。親父の呼び出しはいつもロクな内容じゃない。
また何かのパーティーか、海外からくる客の相手をさせるのか、そんなところだろう。
そんな事を思いながら自分の家ながら落ち着かない客間のソファーに腰をおろした。
前に一度、ほんの少しだけ自分の事を零に話した事がある。あの時も、特別興味を持ってくれるわけでもなかったな、と当時の事を思い出して伊織は苦笑した。
何も聞いてくれないから、何も話せない。何も聞いてくれないから、彼女の事も何も聞けない。らしくなく、負のスパイラルの中でもがいている自分に気付いていても、一歩を踏み出せずにいた。
「伊織、元気そうだな。」
「おかげさまで、」
皮肉をこめてそう答え、高校生を平日昼間に呼び出すなんて非常識だ、と指摘した。
「お前どうせ授業なんて聞いてないんだろう。」
父親は悪びれもせず、合法的に抜け出す口実を与えてやったんだ、と答え、たまには呼び出さなくても顔くらい見せに来い、と返された。
「そんなことより、お前が命がけで守ったって言う相手はいつ連れてくるつもりなんだ?」
「?!」
父親の言葉に、一瞬言葉を失う。あの時の事は、公にせず学校内で完結したはずだったのに。
「高花グループの情報力をナメてもらっちゃ困るな。」
驚いて言葉を失っている伊織を見て父親は楽しげにそう言って笑い、探るようにな視線を伊織に投げた。
「そんな情報力があるなら、俺に聞かなくても大体わかってるんだろう。」
不機嫌にそう答えると、父親は面白がるように笑い、お前が他人のために行動するなんて大した進歩だ、と伊織の肩を叩いた。
「彼女は守るべき相手だからな。親父だって、愛する女の事は何を置いても守るだろう。」
言外に、干渉するな、とにじませる。
「守るべき相手かどうかは、逢ってみなければ判断できないからな。認めて欲しいのなら早く連れてこい。」
「・・・そんなくだらない事を言うためにわざわざ呼び出したわけか?」
この呼び出しがなければ、あのタイミングで零のそばを離れる事はなかったのに、と思うとやり場のない怒りがこみ上げる。
「来月、新しいビルの竣工記念パーティがある。その時に連れてこい。海外からの来賓も多い。ふさわしい相手ならフィアンセとして紹介してやる。」
「フィアンセ・・・?」
そんな事、勝手に決めるな、と心の中で思う。零の気持ちさえまだつかめずにいるのに、そんな事が言えるはずがない。
「連れてこないなら、パーティーを共に過ごすフィアンセ候補を準備しておく。どうするかはお前が決めろ。」
「何勝手にっ!」
「勝手?お前が選んだ相手を連れてこいと言っているだけだ。愛する相手ならできるだろう?」
強引でも、正論で、彼のこの提案は確実に彼の求める情報と判断材料を彼に与えるだろう。相手に選択させるように見せかけて、実は自分の選択した道を相手に選ばせる。そう言うところを尊敬もしていたが、何も反論出来ない自分がみじめでもあった。
「・・・わかった。」
「どうせ、お前の片思いなんだろう。言いよってくる相手には見向きもしないくせに、自分が好きになった相手には臆病なのは昔からだな。」
「・・・ほっといてくれ。本気だから、大切にしたいだけだ。」
お前は見かけによらずまじめだからな、と冷やかされて伊織は不機嫌に黙りこんだ。いつもそうだ。父親と話すと手のひらで踊らされているようで調子が狂う。
自分の未来の選択は自分でつかみ取るものだ、と言う父親の言葉を反芻しながら伊織は久しぶりの自室に戻る。実家の自分の部屋。だからと言って特別落ち着くと言うわけでもない。
無駄に広くて、無駄に静かで落ち着かない。一等地に建てられた邸宅。幼いころは遊ぶ場所にはことかかなかった。家の中でかくれんぼをしたら日が暮れるまで遊べた。中学に進むころには敷地内のテニスコートでテニスしたり、弓道場で弓を引いたりもした。周りの友人もみな同じような環境で育っていたし、誰もみなそういう生活をしているのだと思っていた。
執事がいて、運転手がいて、食事の世話をする料理人や使用人がいて。成長に伴い、自分の置かれている立場を理解した。理解した上で、ただ金持ちの家の息子とだけ思われる存在にはなりたくないと思った。だから勉強も、スポーツも、遊びも、どれも一流になれるように努力した。そしてその努力を決して表には出さなかった。
高校に進学し、そこで出会ったかおるとはいい意味でも悪い意味でもお互いに刺激を与えあう関係だと思う。同じような立場の彼は憎らしいほどに完璧で隙がない。他人と自分を比べる事は好きではないが、かおると自分は水と炎だと思う。彼はいつも穏やかで、自分はいつも攻撃的だ。
かおるが感情を表に出さず、穏やかで柔らかい物腰を崩さない自分を創っているように、自分も本来の自分とは違う自分を作っている。近寄りがたい雰囲気と、誰に対しても優位に立つ言動を。身勝手で自己中心的に見えても、必ず筋は通す。
いつか、人の上に立つには必要だと思っている。ある程度の強引さと、相手の心を見抜く力、そして自分の本心を見せない強さが。
一人で眠るには大きすぎる寝台の上に寝転んで白塗りの天井を見つめる。
今、零は何をしているのだろう。かおるがいつものようにうまく慰めて、もう笑っているのだろうか、とそんな事を考えると心の奥が苦しくなる。
零はまた自分に対して笑ってくれるのだろうか、と思うとたまらなくなった。どうしてあんな風に言ってしまったのだろう。傷つけたくない、守りたいと言いながら、零が傷付く言葉を投げつけてしまった。
ごめんと言えば、零は許してくれるのだろうか。それとも、もう・・・。
自分を演じる強さみたいな、そう言うものを持ちたいと思ったりしつつ。
外から見て強い人の持つ弱さ的な、そう言うのが好きです・・・。
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