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いつも君がいた  作者: 遙香
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077:不安な気持ち



 走る零を追いかけて捕まえる事は簡単だった。

でもそれが出来なかったのは一瞬自分に向けられた、傷付いた子猫の様な瞳のせいだ。


 なぜ零があんなにも不安な瞳をするんだ?健の野郎が余計な事を言ったとも思えないが・・・。


『どうして優しくしてくれるの?』と問いかけた時の、一人にされた子犬のような、雨の中取り残された子猫のような不安に満ちた寂しげな零の瞳が焼きついて離れない。

何を今更、と伊織は思う。俺が零に優しくするのに理由などない。ましてや、守るべき愛する人が泣いている時に優しくしないなどありえない。


・・・そもそも、零は何故泣いているんだ?


根本の疑問に伊織は眉根を寄せる。健が零を泣かせた?あの健が?殴っておきながらそれはないと思う。零に心底惚れているのは健だって同じだ。


またバカな女どもに何か言われたのか・・・?


落ち着いたら、零は理由を話してくれるのだろうか?と思うとたまらなく不安になる。自分が零の事を想う気持ちと、零が自分を想ってくれる気持ちを天秤にかけたら間違いなく自分の方が重い自信がある。今でも本当に零の心が自分の方を向いているのか自信がない、というのが正直なところなのに。

零を不安にさせる要素が何なのか見当がつかないだけに、愛しい人にかけるべき言葉を思いつけずに伊織は唇を噛んだ。


 「痛ぇんだよ!いきなり殴りやがって!俺が零ちゃんの事泣かせるわけねーだろうが!」

「・・・そんなデカい声出さなくても聞こえてる。・・・そうだな、悪かった。」

「・・・まぁ・・・泣いてたのは事実だし・・・」

伊織が素直に謝るとは思っていなかっただけに、拍子抜けした健は殴り返そうとした手を止めて、殴られた頬をさする。

「さっきの感じだと、原因はお前っぽいと思うけど?」

「・・・・」

健の指摘はもっともだ。さっきの問いかけも、あの瞳も、自分に対して向けられたものだったが、思い当たる節がたくさんあるといえばあり、ないといえばない。

「もしお前が本当に零ちゃんを傷つけるようなことをしたのなら、一発殴るくらいじゃすまさないぜ。そもそも俺はお前が零ちゃんの彼氏だって認めてねーからな!」

「・・・何もしてねーよ。」

今すぐにでも追いかけるべきなんだろうか、と伊織は思う。こんな時、かおるなら何を言って何をするんだろう、と思わずそんな事を考えてしまうほどに、今の自分が情けなかった。零の事をもっと良く知りたいと願えば願うほど何も聞けず、今でもまだ彼女の本心を知る事が出来ずにいる。




 また逃げてしまった、と部屋に戻った零は思う。

あの場所にいる事が怖かった。また伊織の優しさに甘えて好かれているんだと錯覚してしまう事が。

一人じゃないと安心して、また独りぼっちにされるなら、最初から一人の方がいい。そう思って泣きやもうとしても一度泣きだすと次々と辛い事ばかりを思い出して新しい涙があふれてしまう。

 健や伊織に会うのが怖いとさえ思った。どんな顔をすればいいのか、何を言えばいいのかわからない。優しくされたらなおさら、辛くなるだけだ。

 上手く呼吸出来ないのは、涙のせいなのか、心の痛みのせいなのか判別できないほど苦しくて零はソファーに丸くなって泣き続けた。

それでも、と零は思う。泣くのは卑怯だと思う。泣けば何が悪いのかが曖昧になるからだ。何も悪くない人が謝って、本当に悪い人が逃げる事もできる。そう分かっているのにあの場所で泣いて逃げてしまった自分が情けなくて辛くてたまらない。


泣くなら、一人になってからにするべきだったのに。


 泣くつもりなんかなかった、といくら心の中で訴えても誰にも届かないことなどわかっていたが、それでも零は心の中でごめんねを繰り返していた。


健君、私のせいで悪者にされてしまって、ごめんなさい。

伊織君、逃げたりして、ごめんなさい。


 どうすればよかったのか、わからない。どうすればいいのかもわからない。零は泣きやむ方法さえ、思い出せずにいた。





 もやもやした心を抱えたまま伊織は自分の部屋に戻り、自分の行動を決めかねている自分に苛立っていた。

零が泣いていると言う事実と、今自分がそばにいないと言う事実。

自分が原因でなければ今すぐにでもそばに行って抱きしめるのにそれが怖い。自分が零の事を想う気持ちが大きすぎて、零の本当の気持ちが見えていないことも知っている。だからこそ余計に苦しくてたまらない。自分の何かが零を傷つけてしまったのにどうしていいのかさえわからない。

怒ってくれたら弁解もできるのに、と思う。今思えば不安なのは自分で、零が不安を感じているなど考えた事もなかった。

「・・・零が、不安?」

思わず呟く。何に?

相手の気持ちがわからないから不安になる。少なくとも、今自分が感じている不安はそれだ。もし零も同じだとしたら・・・。

そこまで考えたところで、鳴り出した携帯に思考をさえぎられた。着信相手は父親。伊織は小さくため息をついて電話を取った。

どうせ、迎えをやったから今すぐこいと言う、断る隙を与えない呼び出しに決まっている。自分の強引さは父親ゆずりだと、伊織は心の中で呟いた。





「零、入るぞ。」

父親との電話を終えた伊織は零の部屋をノックしていた。父親の呼び出しで、少なくとも明日の夜中まで寮には戻れない。しばらく距離を置いて落ち着くのを待つ事も考えたが、このまま何も話さずに零のそばを離れてしまうのが怖いと思ったからだ。

ガタッ、と部屋の中で音がした。伊織は一瞬躊躇った後、零の返事を待たずに部屋のドアを開けた。

ドアを開けた瞬間、デジャヴの様な光景に伊織はため息をつく。部屋の電気も付けず、ソファーに丸くなっている零の姿を少し前にも見た。あの時は零の心を自分の方へ向けさせることに成功したけれど、今回はどうなんだろう、とふと思う。

「零、」

ごめん、と続けようとして、その言葉を伊織は飲み込む。零の涙の理由が分からないのに、謝ってしまう事が躊躇われたからだ。

「・・・・・」

自分に背中を向けて丸くなっている零に掛ける言葉を見つけられずにしばらく立ちつくしていた伊織だったが、零のそばに歩みより、半ば強引に抱き上げた。

「・・・や・・放し・・・」

「大人しくしろよ。ここで話すより、俺の部屋の方がいい。ここで話すとお前の監視役に聞こえるからな。」

聞かせたいなら話は違うけど、と耳元で囁くと、抵抗しかけていた零が大人しくなった。

伊織は零を連れて寮の自室に戻り、ソファーに座る。声を立てずに小さく震える零を膝の上に乗せて、黙ったまま抱きしめてそっと髪を撫でる。

泣いている理由さえ分かれば、と伊織は思う。《どうして優しくしてくれるの?》と問いかけた零の瞳を思い出して伊織はまた苦しくなった。

「零、どうして泣いているのか、教えてくれないか。」

そっと問いかけてみる。

「俺が原因なら、謝る。だから、何が悪いのか教えてくれ。」

伊織がそう言うと、零は小さく首を横に振る。何となく、零の言いたい事は何となくわかった。悪いのは自分だと、そう言いたいのだろう。

「零、じゃあそのまま聞いて。」

伊織は零から言葉を引き出す事を諦め、自分の不安を伝える事にした。

どうせもう少ししたら迎えの車が来てしまう。あまり時間もなかった。

「俺、零の事が大切すぎて、愛しすぎて、失う事が怖くて、本当はもっと零が思っている事や感じている事を知りたいのにいつも何も聞けずにいるんだ。」

「・・・・?!」

「黙って、聞いて。」

驚いて顔を上げようとする零の頭を抱き寄せて、伊織は自分の腕の中に零を閉じ込める。

「この俺が、いつも怯えてるんだ。側にいられない時はいつも、もう零が俺のところに戻ってこないんじゃないか、他の誰かに奪われるんじゃないか、またくだらない嫉妬で誰かに心無い事を言われて傷ついてるんじゃないか、」

そっと髪を撫でながら囁かれる伊織の言葉に、零の心が震える。伊織が、そんな事を思っていたなんて知らなかった。

「零を傷つける全てから守りたいといつも思ってる。零が、ほんの少しの不安も感じずにいつも笑っていられるように、俺が出来る全ての事をしたい。本当は今すぐにでも零を連れて誰にも邪魔されないところへ行ってしまいたいと思ってるよ。でも、」

伊織はそこで言葉を切り、少し迷った後に再び言葉を続ける。

「零が何を望んでいるのかが分からないから、怖くて何も出来ずにいるんだ。だからいつも、不安で仕方がない。」

「俺が無理強いしているだけで、本当は俺の側にいることなんか望んでないんじゃないかって思いながらも、それでも零がいなくなることが怖くて今もこうやって抱きしめてしまってるんだ。」

いつもの自信に満ち溢れた伊織からは想像できない、不安に満ちた声。声だけを聞いていると、泣いているんじゃないかと錯覚するほどの切ない響きに零は戸惑う。

「好きだよ、零。愛してる。」

「何をすれば、どう言えば伝わる?どうすれば零は笑ってくれる?零が望むなら何だってする。」

伊織の言葉は麻薬のように零の心を痺れさせる。情熱的でもあり、切なくもある愛の言葉に偽りの影は見当たらないけれど、それでも零の心から消えない不安。何故そこまで、言ってくれるのだろう?伊織の言葉が向けられるべき相手は、自分ではないもっと他の誰かであるべきだ、と思う。

いつも、眩しいほどに堂々と振舞う、生まれ持っての《王の威厳》とでも言うべき伊織の立ち居振る舞いは周囲に畏れさえ抱かせるほどに完璧で、容易に近づく事さえ叶わない。そんな彼が、なぜ?

「・・・私・・・」

伊織の腕の中は温かくて、居心地が良くて、優しく髪を撫でてくれる手が嬉しくて、いつの間にか涙は止まっていた。

零は少し迷った後に自分の中に渦巻く不安を伊織に伝える事にした。伊織が何を言ってくれても決して容易には消えないであろう、不安を。



ラブラブあまあまが大好きな私には少々辛いゾーンにさしかかりました・・・。

いつも読んで下さってありがとうございます♪


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