074:静かな火花
台風が去り、季節は秋へと向かって加速していく。10月も後半にさしかかったある週末、あの日以来ずっとそうしているように伊織は零を自分の部屋に呼び、何をするでもなく二人の静かな時間を過ごしていた。
ソファーに座り、腕の中に零を閉じ込めて心音を重ねるだけで満ち足りた幸せに包まれる。他愛のない話をして笑って、時々キスをする。何度そうしても慣れない零が腕の中で硬直するのが可愛くてたまらない。
そんな時間を邪魔するようにノックの音が部屋に響いた。
「伊織、ちょっといい?」
穏やかなかおるの声に、零との時間を邪魔しやがって、と伊織は軽く舌打ちしながらも零を膝の上に抱きしめたままどうぞ、と返事をする。
「何の用だよ?]
部屋の扉を開けて顔を覗かせたかおるに、伊織は不機嫌そうな、それでいて少し楽しそうな視線を投げ腕の中の零の髪を撫でる。
「・・・伊織に用はないよ。」
いつものかおるらしくなく、不機嫌そうにそう答え、伊織の腕の中で困惑したような表情を浮かべている零に視線を投げた。
「用がないなら、邪魔すんなよ。」
伊織は零の髪に口づけてチラリとかおるの方を見る。
こんなにも、他人の事を殴りたいと思ったのは初めてだ、とかおるは内心思う。自分の愛する人を手に入れて絶対的優位に立つ伊織に、どうしても怒りの炎が燃え上がる。
「伊織、そのくらいにしておけ、」
・・・僕は今、絶対に笑えていない、とかおるは思う。できる事なら伊織を殴り飛ばして零を連れて帰りたいと願ってしまう自分がいる。
命がけで零を守り、その対価として零の心を連れて行った伊織がうらやましくも憎らしくもあった。
「だから、何の用なんだよ?人の部屋に入ってきて邪魔しやがって、」
「クラスリーダーの会議があるから零ちゃんを迎えに来たんだ、」
「・・・ふぅん?」
腕の中の零を見ると、零は少し慌てて壁の時計に目をやる。どうやら、かおるの言葉は本当らしい、と判断して伊織は零から手を離した。
「早く帰ってこいよ、零。」
かおるに促されて部屋を出て行く零に伊織は声をかけ、零は振り向いて小さく頷いた。かおると共に部屋を出て行く零の姿に胸が苦しくなり、このまま帰ってこないのではないかという不安が心をよぎる。
完璧なナイトであるかおるは、今でも本気で零を想っている。今は自分のそばにいてくれる零がいつ心変わりしてもおかしくない、と思う自分がいることも事実だ。せっかく振り向かせた零の心をどうやったらつなぎとめておけるのだろう?今まで、異性の事を本気で好きになった事などないし、女は向こうから言い寄ってくるもので適当にあしらって相手をしておけばいいと思っていた。
でも零は違う。少し目を離して、少し手を離せばあっという間に他の誰かに奪われてしまうであろう無防備さと、目の前にいても次の瞬間にはフッと消えてしまいそうな儚さで常に伊織を翻弄する。
・・・この俺をこんなにも苦しめるヤツがいるなんてな。
さっきまで腕の中にいた零がいなくなっただけで、自分でも驚くほどの喪失感がある。一人でいることが辛い、と感じるのはこれが初めてだ。そんな自分を誤魔化すように、ステレオの電源を入れて音楽をかけた。
「零ちゃんが約束に遅刻するなんて、珍しいね?」
かおるにやんわりと注意されて零は俯く。
「な・・・なんだか最近いろいろありすぎちゃって・・・日にちの感覚がずれちゃってたの・・・。ごめんなさい・・。」
・・・要するに、忘れてた、んだけど、と零は心の中で思う。零は時々かおるが実はものすごく怖い人なのではないかと錯覚する時がある。決して口調はきつくないし、優しい笑顔なのにとても怖く感じてしまう。
「いろいろ、大変だったからね。・・・体調はもういいの?」
「うん・・・」
「・・・伊織はどう?伊織は炎みたいなヤツだから、零ちゃんのこと傷つけたりしてないか心配してるんだよ?」
優しい言葉。かおるが自分の事を想ってくれている事を知っているだけに、心が痛くなる。
「なんだか、別人みたいに優しいの。」
「別人・・・か。零ちゃんにしか見せない顔が、あるんだろうね、きっと。」
ふわり、と優しく微笑むかおるの笑顔が少し辛い。どんな思いで笑っているんだろう。いつもいつも、穏やかな笑顔の向こうにあるかおるの心は何を思っているんだろう、と零は思う。
「僕はね、零ちゃんの事を諦めるつもりはないから。・・・相手が伊織ならやりやすいよ。」
にっこり、と今でも心を奪われそうになる100%の笑顔を向けられる。
「零ちゃん、僕は君の事が好きだ。もし伊織がほんの少しでも零ちゃんの事を傷つけるようなことがあったら、僕は必ず伊織から零ちゃんを奪うよ。」
口調は穏やかで、今日はいい天気だね、とでも言っているようだが内容は違う。風のない夜に音もなくゆっくりと燃え広がる炎の様に熱い想いが零の心に刺さる。
「でも今は、伊織の側にいるって決めた零ちゃんのために、零ちゃんが傷つかないように見守るつもりだよ。」
「かおる君・・・」
・・・心が、痛いよ。どうしてそんな風に、言えてしまうんだろう。私なんかのために、どうしてそんな事・・・。
階段を下りながら、そっと手を握られる。エスコートするように、あまりにも自然に繋がれた手。もしこの光景を伊織が見たらどう思うのだろう、と思うと少し心がざわめいた。
クラスリーダーの会議は定刻通りに終了し、零はかおるに誘われて構内にあるカフェテラスに来ていた。海外進学棟の屋上にあるオープンスペース。コーヒーと紅茶しかないが、ちょっとした喫茶店気分を味わえる。
「屋上、気持ちいいね!」
高台に建てられている校舎の屋上。街や遠くの山々の景色が遠くまで見渡せる。
「姫、そんなところに登っては危ないですよ、」
遠くを見ようと、手すりに登ろうとしている零をかおるは後ろから抱える。
「だっ、大丈夫だよっ!落ちたりしないしっ!」
不意に背中から抱きしめられた零は耳元で囁かれるかおるの声に真っ赤になって慌てる。
「ダメ。零ちゃんは危なっかしくて見てられない。」
言ってかおるはひょいと零を抱き上げた。
「これで遠くまで見えるでしょ?」
「だ、大丈夫だってばっ!み・・みんないるしっ!」
「みんながいたら、何?」
・・・な、何ってっ!みんなが見てる前でお姫様抱っこは絶対にナシだと思う!
真っ赤になって抗議の視線を向ける零にかおるはにっこりと笑みを返す。
「騎士が姫のために身を捧げるのは当然でしょ?みんな解ってるから大丈夫だよ。ほら、ちゃんと掴まって!」
・・・無理・・・無理だよ。何その騎士が身を捧げるって・・・。
「零、好きだよ。」
「・・・っ!」
零を抱き上げたまま、急に少し哀しげな、真摯な瞳でかおるが呟く。思わず顔を上げた零をかおるは見つめる。
「どうして伊織なの?僕の方が君の事を想ってるのに。」
「綺麗なウソをつけない瞳も、かわいい唇も、柔らかい髪も、すぐ真っ赤になっちゃう照れ屋さんなところも、みんなに平等に優しい笑顔も、困った顔も、泣きそうなのに我慢しちゃう強さも、こうやって抱きしめた時の温もりも、全部。零ちゃんの全てが好きだよ。伊織なんかに、任せられない。」
「か、おる君・・・」
・・・ずるいよ、そんなこと・・・。
甘い言葉、なのにその言葉は一つ一つが零の心を切なく締め上げる。『どうして、伊織なの?』
・・・そんなの、わかんないよ・・・。
苦しくて、切なくて、言葉が出ない。そしてふと、自分がかおるに抱き上げられている事を思い出す。クラスメイトや後輩や、見知った顔の人もいるのに、かおるはそんな事など全く気にもしない。そう言う意味では、かおるも伊織も激しさの差はあるにしろ似たもの同士なのかもしれないとかおるの腕の中でぼんやりと零は思う。
「好きだよ。」
囁くように告げられる想い。抱き上げられた腕の熱さが伝わって自然と鼓動が早くなる。その時、フワリ、と風に混じって柑橘系のムスクの香りがした。
「邪魔するな、伊織、」
振り向きもせず、かおるが言う。先刻までとは違う硬質な声。
「俺の女に手を出すとは、相変わらずいい度胸だな?かおる、」
いつもの挑発的な声ではなく、明らかな怒りを含んだ伊織の声に零は思わず身をすくめる。
「・・・伊織、零ちゃんを怖がらせるような声、出さないでくれる?仮にも、自分を零ちゃんの彼氏だと言うのなら、そう言う態度が零ちゃんを傷つける事くらい解ってるだろう、」
「貴様のやってる事が一番零を傷つけてんだよっ!さっさと零を放せ、」
「・・・・断る。」
「上等じゃねーか、お前がその気なら、こっちも本気でやらせてもらうぜ?姫を抱いたままでは分が悪いんじゃねーのか?」
「騎士は姫を守るために生きてるんだ、このままで十分さ、」
「フン、ほざいてろ、」
周囲のクラスメイト達の存在も、零の存在すらもなくなったような二人の激しいやり取りに、零は逃げ出したくなる。
「・・・や、やめてよ!二人とも、お願い・・・」
零が困惑した声をあげると、今にも爆発しそうなほど激しく飛び散っていた二人の間の火花が終息する。
「・・・・かおる君、下ろして?」
零が訴えると、かおるはしぶしぶ抱き上げていた零をおろした。
「零、帰るぞ、」
憮然としたまま、伊織が零の腕を掴んで引き寄せると、そのまま腕の中に抱き寄せる。
「隙作んなって、言ってんだろうが、」
お前は目を離すとすぐ誰かに攫われちまうな、とギュッと強く抱きしめられると何も言えなくなる。怒っていると思ったがその声のトーンは優しくて、零は余計苦しくなった。
・・・かおる君も、伊織君も、どうしてそんな風に言えるんだろう。どうして、こんなにも堂々としていられるんだろう。私、恥かしくて、顔が上げられないよ・・・。
恥ずかしさと気まずさに囚われて何も言えないまま、零は大勢いる生徒達の真ん中を、伊織に手を引かれてカフェテラスを横切り、校舎を後にする。
「零、」
「・・・何?」
「他の男に、隙見せんな・・・・って、言っても無駄だって解って言ってんだけどよ、」
かおるはまだいい、と伊織は心の中で思う。アイツは零の心を奪う事はあっても、無理強いして零を傷つけるような事は絶対にしない。そう言う意味では、まだ、いい。
逆に、自分が側にいられない時にかおるが側にいてくれる事である意味安心できるのも事実だ。もしそれで、かおるに零の心を奪われたとしたらそれはそれで仕方がない、と思える自分がいる。
・・・まぁ、絶対にそんなことさせないけどな。伊織は心の中で呟いて、ギュッと、つないだ手に力を込める。
「・・・ご・ごめんなさい、私・・・」
「いいよ、解ってる。お前が誰に対しても隙だらけだってことくらい。だから俺から離れんなって言ってるだろ。俺が守ってやるから。」
「・・伊織君・・・」
怒られると思ったのに、優しく微笑まれて零は少し戸惑う。
「解ったか?」
「・・・うん。」
「零、」
「何?」
「お前はもっと、笑ってろ」
「・・・え・・?」
驚いて伊織を見る零に、そんな見んなよ、と照れたように笑って伊織は珍しく零から目をそらせ、そのまま零の手を引いて寮の部屋へ戻っていった。
零ちゃんが羨ましい今日この頃です。
大切にされたいと願うなら、自分を磨かなきゃだめだな!と思う私でした。




