第18話 クリスティアーナのいない日々
翌朝、クリスティアーナは別邸へ向かうことになった。
別邸は馬車で一時間ほどの場所にある、アルディオン辺境伯家所有の屋敷だ。身の回りの世話をするマリーのほか、数名の使用人が同行し、出産に備えて医師も常駐することになっている。
「何か困ったことがあれば、すぐに知らせるんだぞ。護衛騎士をつけてあるから、彼らに伝言を頼めばいい」
馬車の前で、ジェラードはクリスティアーナに念を押した。別邸には彼女を守るため、十分な数の護衛騎士も配置している。
「はい。ジェラード様も、どうかお身体を大切になさってください」
「ああ。君も元気な子を産んでくれ」
ジェラードに手を取られ、クリスティアーナは馬車へ乗り込んだ。
最後にもう一度、彼の顔を見つめる。本当は離れたくない。そう伝えたい気持ちを必死に抑え、クリスティアーナは小さく微笑んだ。
やがて馬車が動き出し、ジェラードの姿が遠ざかっていく。
クリスティアーナはそっとお腹に手を添えた。待ち望まれていた子供を授かったというのに、胸に広がるのは寂しさばかりだった。
もう二度と、あの人と一緒に暮らすことはできないのだろうか。
そう思うと、涙がこぼれそうになった。
一方、馬車を見送ったジェラードは、安堵の息を吐いていた。
アルディオン辺境伯家の当主は代々短命であり、魔獣の棲む森から領地を守るためにも、跡継ぎを残すことは何より重要な責務だった。
ようやくその見込みが立ったのだ。妻と子供の安全を確保できたことにも満足していた。
妊娠したら別邸へ移ってもらう。それは結婚当初から決めていたことであり、すべて予定どおりだった。
ジェラードは何の疑問も抱かず、屋敷へ戻っていった。
ところが、クリスティアーナが別邸へ移って数日が過ぎた頃、ジェラードは妙なことに気づいた。
執務室で仕事をしていると、無意識に窓の外へ目を向けてしまうのだ。
窓から見える庭園では、いつものように庭師が花壇の手入れをしていた。だが、その傍らにいるはずのクリスティアーナの姿がない。
「……そうだったな」
彼女はもうここにはいないのだ。
わかっているのに、楽しそうに庭師を手伝っていた姿が忘れられず、つい目で探してしまう。
夜になると、その思いはいっそう強くなった。
以前は夫婦の寝室でクリスティアーナと一緒に眠っていたが、今は自室に戻っている。長年使い慣れたベッドのはずなのに、どうにも寝つきが悪い。
最初は遠慮がちにベッドの端で眠っていたクリスティアーナも、最近では安心したように彼へ身を寄せてくるようになっていた。
その華奢な身体を抱き寄せたときの温もりを思い出すと、無性に彼女に会いたくなる。
(……何を考えているんだ、俺は)
ジェラードは苦笑した。
妻を別邸へ移したのは、ほかでもない自分の判断だ。いつ魔力が暴走するかわからない以上、身重の彼女をそばに置いておくわけにはいかない。
別邸からは毎日報告が届いており、クリスティアーナは元気に過ごしているという。何も心配することはないのだ。
それなのに、彼女がいないことがこれほど気になるとは思わなかった。
そんな日々が続いていたある日のことだった。
「……くっ!」
昼食を終えて執務室へ戻ったジェラードは、突然胸を押さえた。
身体の奥に熱がこもり、息苦しさが込み上げてくる。
間違いない。魔力暴走の前兆だ。
クリスティアーナと暮らしていた間は、あれほど穏やかだったというのに。
幸い、その日はしばらく休むことで症状が治まった。だが、翌日も同じような息苦しさに襲われ、さらにその翌日には頭痛まで現れた。
そして数日後、ついに恐れていたことが起こった。
「ぐあっ……!」
午後の執務室で、ジェラードは激しい熱に襲われた。
身体の内側で魔力が急激に膨れ上がり、制御が利かなくなる。
次の瞬間、凄まじい風が室内を吹き荒れた。
机の上の書類が宙を舞い、椅子が床を滑っていく。壁際の花瓶が吹き飛ばされ、派手な音を立てて砕け散った。
「くそっ……鎮まれ!」
ジェラードは歯を食いしばり、必死に魔力を抑え込んだ。
このままでは屋敷にも被害が及び、使用人たちまで巻き込んでしまう。
全神経を集中させ、暴れ回る魔力を身体の内側へ押し戻す。やがて風は勢いを失い、室内に静けさが戻った。
ジェラードは、その場に膝をついた。
「ジェラード様!」
物音を聞いて駆けつけた執事が、慌てて彼を支えた。
「誰か! すぐに医師を呼んでくれ!」
その後、寝室へ運ばれたジェラードは、激しい頭痛に耐えながら天井を見つめていた。
魔力暴走は、これまで何度も経験してきた。だが、クリスティアーナと暮らし始めてからは、まるで嘘のように治まっていたのである。
長年苦しめられてきた症状から、ようやく解放されたと思っていた。
それなのに、なぜ今になって再発したのか。
ジェラードには、その理由がわからなかった。




