第17話 喜びの先に待つ別れ
ジェラードは執務室で書類に目を通しながら、ここ最近の自分の体調について考えていた。以前は朝こそ問題なく過ごせても、昼を過ぎた頃から徐々に身体が重くなり、胸の奥が締めつけられるような苦しさに襲われることが多かった。ひどいときには頭痛まで起こり、仕事を中断せざるを得ない日もあった。それもすべて、生まれつき身体に宿している強大な魔力が原因だった。
ところが、最近は午後になっても身体が軽く、一日中何事もなく仕事を続けられるようになっていた。そういえば、最後に魔力が暴走したのはいつだっただろうか。思い返してみても、すぐには思い当たらない。
これまでは夜になると症状が落ち着いていたものの、翌日にはまた同じ苦しみを繰り返していた。それなのに、今では一日を通して体調が安定している。
長年、多くの医師に診てもらっても改善しなかった体質が、なぜ突然落ち着いたのかはわからない。
もっとも、苦痛がないのはありがたいことだ。ジェラードは不思議に思いながらも、それ以上深く考えることなく、再び書類へ目を落とした。
しばらくして、何気なく窓の外へ目を向けると、庭園の花壇に見慣れた姿があった。クリスティアーナだ。
庭師の隣にしゃがみ込み、何やら楽しそうに話しながら花の手入れをしている。どうやら枯れた花を摘み取る作業を手伝っているらしい。
「まったく、じっとしていることができない奥様だな」
ジェラードは思わず笑みを浮かべた。
屋敷に来た当初から、彼女には何も働く必要はないと伝えてある。それでもクリスティアーナはなにかしら手伝う。
長年、実家で使用人同然の扱いを受けていたせいだ。最初は不憫に思っていたジェラードだったが、最近では誰かの役に立てることを心から喜んでいる彼女の姿を、好ましく感じるようになっていた。
庭師とすっかり仲良くなったらしく、何かを教えてもらったクリスティアーナが嬉しそうに頷いている。
その様子を眺めていたジェラードの表情が、不意に強張る。クリスティアーナが突然、口元を押さえてうずくまったのだ。
「クリスティアーナ!」
ジェラードは椅子から弾かれたように立ち上がり、執務室を飛び出した。階段を駆け下り、庭園へ出ると、庭師が心配そうに彼女の背中をさすっていた。
「どうしたんだ、クリスティアーナ!」
「ジェラード様……」
顔を上げたクリスティアーナは、青ざめた顔で弱々しく微笑んだ。
「急に気持ちが悪くなってしまって……。でも、少し休めば大丈夫だと思います」
「そんな顔色で何を言っている。無理をするな」
ジェラードは彼女を抱き上げると、庭師に医師を呼ぶよう命じ、そのまま屋敷へ引き返した。
クリスティアーナは突然抱き上げられたことに驚いたものの、すっかり心配しているジェラードの表情を見て、おとなしく彼の腕に身を任せた。
寝室へ運ばれると、ほどなくして辺境伯家お抱えの医師がやってきた。診察の間、ジェラードは部屋の外で待つことになった。マリーは何度も扉を気にしながら落ち着かない様子で立ち尽くし、知らせを聞いて駆けつけた侍女長のエルダも、心配そうに廊下を行き来していた。
やがて診察を終えた医師が扉を開き、ジェラードたちを室内へ招き入れた。
「妻はどうなんだ? まさか深刻な病気じゃないよな?」
待ちきれずに尋ねたジェラードに、医師は穏やかな笑みを向けた。
「ご安心ください。奥様はご病気ではございません。ご懐妊でございますよ。」
「……懐妊だと?」
「はい。まだ初期ではございますが、お子様を授かっておいでです。おめでとうございます!」
その言葉に、室内が一瞬静まり返り、真っ先に声を上げたのはマリーだった。
「まあ! 奥様、おめでとうございます!」
「なんと喜ばしいことでしょう。おめでとうございます、旦那様、奥様」
エルダも満面の笑みを浮かべ、目元をそっと押さえている。
クリスティアーナはベッドの上で、信じられないというように自分のお腹へ手を添えた。
「わたしに……赤ちゃんが?」
「そうですよ、奥様。お身体を大切になさってください」
医師の言葉を聞いたクリスティアーナの瞳に、みるみる涙が浮かんだ。
自分にも、ようやくジェラードの役に立てる日が来たのだ。魔紋がないために何もできないと蔑まれてきた彼女にとって、跡継ぎを授かったという事実は、何よりも嬉しいことだった。
「ジェラード様……わたし、やっとお役に立てました……嬉しいです」
「ああ。ありがとう、クリスティアーナ。よく頑張ってくれた。これからは身体を第一に考えてくれ。決して無理をしてはいけないぞ」
ジェラードはベッドのそばに腰を下ろし、彼女の手を取った。
「はい!」
クリスティアーナは満面の笑みで頷いたのだが、ジェラードはしばらく彼女を見つめたあと、少し表情を改めた。
「ところで、以前に話したことだが……予定どおり出産までは別邸で過ごしてもらいたい」
「……え?」
「俺の魔力がいつ暴走するかわからない以上、君と子供を危険にさらすわけにはいかない。別邸なら安心して過ごせるし、必要な使用人やお産に詳しい医師も同行させる」
クリスティアーナの笑顔が、ゆっくりと消えていった。もちろん、その話は覚えている。この屋敷に着いた初日に、妊娠したら別邸へ移るように言われていたのだから。けれどもジェラードと暮らすうちに、いつしかその約束を忘れてしまっていた。
「そうでしたね……はい。わかりました」
「体に気をつけて、元気な子を産んでくれ。クリスティアーナには本当に感謝している。子供が生まれたあとの生活についても、心配する必要はない。君が望むなら、王都に屋敷を用意することもできる。金銭面で不自由させるつもりはないからな」
ジェラードは彼女を安心させようと、そう告げた。
その言葉を聞いたクリスティアーナは、膝の上でそっと両手を握りしめた。ジェラードは、自分がこの屋敷を去ったあとのことまで考えてくれている。何ひとつ不自由のない暮らしを約束してくれるのだから、感謝しなければならないはずだ。
けれども、今のクリスティアーナが望んでいるのは、新しい屋敷でも、十分な金銭でもなかった。ただ、ジェラードのそばにいたい、それだけだ。
「……ありがとうございます。ジェラード様」
ようやくそれだけを口にすると、クリスティアーナは彼に涙を見られないよう、そっと顔を伏せた。
ジェラードは彼女が出産を不安に思っているのだろうと考え、それ以上は何も言わなかった。




