第10話 ナタリーの悪意
「ちょっと、あなたがお兄様の奥様になった女なの?」
いきなり鋭い口調で言われたクリスティアーナは顔を上げた。藍色の髪と瞳の女性の右手には人魚の魔紋がある。その相手の視線がクリスティアーナの右手に注がれた。
「あなた、魔紋がないじゃない! 嘘みたい。そんな能なしを妻にするなんてあり得ない。ジェラード様が愛しているのは私よ。私を選ばなかったのだって、巻き込みたくなかったからに決まってるわ。いつ暴走するかわからないご自分のそばに、愛する女を置けるはずがないもの 」
(……そういうことだったの? ……そうよね、わたしなんかが愛されるわけがないもの)
クリスティアーナが青ざめる様子を、ナタリーは満足そうに見つめた。しばらくして、外出していたジェラードが屋敷へ戻ってきた。
「ナタリー。来るなら言ってくれれば良かったのに。叔母上は元気かい?」
「ええ、元気よ。今日はね、ジェラード様の奥様にご挨拶に来たのよ。こちらでは知り合いもいないでしょう? 私が友人になってあげようと思ったの」
「ああ、それはありがとう。クリスティアーナ、良かったな。こちらは俺の母方の従妹でナタリー・ポマード子爵令嬢だ。マリー、お茶を用意してくれ」
マリーが持ってきた紅茶に、ジェラードは慣れた手つきでミルクをたっぷり注ぎ、角砂糖を二個入れた。
「ほら、ナタリーが好きな飲み方だ」
「お兄様、ありがとう。私もお兄様のぶんを作るわね。レモンだけ浮かべて、さあどうぞ」
当たり前のようなその仕草に、ツキンとクリスティアーナの胸が痛んだ。
『ジェラード様が愛しているのは私よ』
先ほどの言葉が、頭の中に蘇った。
(やっぱり……本当なんだわ)
疑う余地なんてないように思えた。
ジェラードはナタリーの好みを覚えている。
ナタリーもまた、ジェラードが紅茶をどう飲むのかを当たり前のように知っていた。
互いに何を好み、何を嫌うのかを知り尽くしているほど、二人は長い時間を一緒に過ごしてきたのだ。
それに比べて、自分はどうだろう。
ジェラードがレモンティーを好むことすら、今初めて知った。
砂糖を入れないことも知らなかった。
(妻なのに……わたし、何も知らない)
途端に情けなくなる。
ナタリーの言う通りなのだ。
ジェラードが彼女を妻にしなかったのは、愛していなかったからではない。
魔力の暴走に巻き込みたくなかったからで、大切だからこそ側に置かなかった。
そう考えれば、すべて辻褄が合うような気がした。
「ジェラード様、この前お話しした海のこと、忘れてしまった? ヨットに乗ってみたいって、前からお願いしていたでしょう」
「忘れてはいないよ。ただ、領地を離れることは難しい」
「じゃあ、近くの湖でボートに乗るだけならいいでしょう?」
「そうだな。クリスティアーナも一緒なら、仕事が片づいたときにでも行くか」
「……奥様も?」
「せっかくだからな。クリスティアーナはまだこの辺りをほとんど見ていないだろう」
「……いえ。お二人で行ってきてください。わたしは大丈夫です」
「そうか?」
ジェラードは少し残念そうにしたものの、それ以上は勧めなかった。
(きっと、わたしに気を遣って声をかけてくださっただけ……本当はナタリー様と二人で出かけたいのに、わたしだけ仲間外れにするのは悪いと思ったのだわ)
ジェラードにとって、ナタリーは赤子の頃から知っている妹のような存在だった。生前の母からも、妹の娘なのだから仲良くしてやるようにと言われていた。そこに恋愛感情はなく、妹がいたらこんなものだろうという感覚しかない。お茶の好みも幼い頃から知っているだけで、特に深い意味などなかった。
とはいえ、その気安いやり取りは、クリスティアーナをすっかり誤解させた。
(こんなふうに話せる相手が、ずっとそばにいたんだ……)
気軽に甘えたり、我が儘を言ったり、当然のようにジェラードの隣にいることなど、クリスティアーナにはとてもできそうになかった。二人の間には、自分の知らない長い時間がある――彼女はそう思い込んだ。
(何を勘違いしていたんだろう)
これはあくまで契約結婚だ。自分は跡継ぎを残すために選ばれただけの妻で、魔紋もなければ魔法も使えない。貴族として誇れるものなど何一つない。そんな自分がジェラードに愛されるはずがないのだ。
クリスティアーナは、少し優しくされたくらいで浮かれていた自分を恥じた。
(馬鹿みたい……わたしなんか愛されるわけがないんだわ)
クリスティアーナはそっと俯いた。今はもう、ジェラードの顔を見ることさえできなかった。
そんな彼女の様子を見て、ナタリーはジェラードに気づかれないよう、満足そうに口元を緩めた。
(魔紋もない女なんか、さっさといなくなればいいのに……私のほうがずっとお兄様にふさわしいわ)




