第9話 優しいジェラード
その日の夕方、クリスティアーナは侍女たちに連れられて浴室へ向かった。
湯船には淡い色の花びらが浮かべられ、いつもとは違う甘い香りが漂っている。
「今日は特別、豪華にしましたよ」
その言葉に、クリスティアーナの頬がほんのりと赤くなる。もちろん、今夜のことを忘れていたわけではない。むしろ朝からずっと意識していたからこそ、改めて言葉にされると急に緊張が増した。
湯から上がったあとも、準備はなかなか終わらない。髪を丁寧に乾かされ、肌にはほのかに花の香りがする香油を薄く塗られる。自分ではそこまでしなくてもいいのではないかと思ったが、マリーたちは当然のことのように手を動かしていた。
最後に着せられた夜着も、普段使っているものとはまるで違う。薄く柔らかな生地で仕立てられ、襟元もいつもより大きく開いている。
鏡に映った自分の姿を見て、クリスティアーナは落ち着かない気持ちになった。
今夜、ジェラードと夫婦になる。
契約結婚を結んだ時からわかっていたことだった。子どもを残すために自分はここへ嫁いできたのだから、これは義務だ。
それでも、いざその時が近づいてくると緊張する。
怖くないと言えば嘘になる。
けれど、嫌ではなかった。
ジェラードはこれまで一度もクリスティアーナを粗末に扱わなかった。魔法が使えなくても責めず、体が弱っていることにも嫌な顔をせず、元気になるまで待ってくれた。
(ジェラード様のお役に立てるなら……)
子どもができれば、この結婚の目的を果たすことができる。
それだけではなく、残された時間の少ないジェラードに家族を残すことができるのだと思えば、クリスティアーナはそのことを嬉しいとさえ思った。
夫婦の寝室で待っていると、しばらくして扉が開いた。
入ってきたジェラードは、ベッドの端に座っていたクリスティアーナを見るなり、わずかに眉を上げた。
「ずいぶん緊張しているな」
「……わかりますか?」
「それだけ固まっていればな」
からかうように言われたが、いつもの軽い口調だったので、クリスティアーナは少しだけ肩の力を抜いた。
ジェラードは隣に腰を下ろしたものの、すぐに触れようとはしなかった。
「怖いか?」
「……少しだけ。でも、ジェラード様ですから、大丈夫です」
「そうか」
「はい。だから……私、頑張ります」
そう言って、クリスティアーナは決意を固めるように小さく頷いた。
ジェラードは一瞬、黙った。妙に真剣な顔をしている彼女を見つめ、わずかに口元を緩める。
いったい何をそんなに頑張るつもりなのか。おそらく本人にも、よくわかってはいないのだろう。
そんなクリスティアーナを、ジェラードは可愛いと思った。
ジェラードはクリスティアーナにいつもよりゆっくりとした口調で話しかけ、少しでも力が抜けるように気を遣う。
そのことが、クリスティアーナにはありがたかった。最初に触れられたときこそ体を強張らせたものの、クリスティアーナが戸惑えば待ち、怖がれば安心させるように声をかける。思っていたよりも、ずっと穏やかな夜だった。
翌朝、クリスティアーナが目を覚ますと、カーテンの隙間から柔らかな朝の光が差し込んでいた。少し体に疲れは残っていたが、思っていたほどつらくはなかった。
むしろ昨夜、最後まで優しくしてくれたジェラードのことを思い出し、胸の奥が少しだけ温かくなる。
(赤ちゃん、できるといいな……)
それから二人は、ほとんど毎晩のように同じベッドで眠るようになった。子どもを授かるためなのだから当然のことなのだと、クリスティアーナもわかっている。
でもジェラードはいつも優しかった。少しでも疲れていれば無理をさせず、寒くないかと気遣い、朝になれば体調まで尋ねてくれる。時には他愛のない話をしてクリスティアーナを笑わせた。
そんな夜が重なるうちに、クリスティアーナはまるで本当に愛されているような気がしてしまう。もちろんそんなはずはない、と思う。この結婚はジェラードが跡継ぎを残すための契約であり、自分はそのために選ばれた妻にすぎない。それでも、優しく名前を呼ばれたり、眠る前に髪を撫でられたりするたびに、胸の奥がくすぐったいほど幸せになる。
「なんて図々しいの……わたしったら。これは契約結婚で、子どもを作るためよ。貴族のくせに魔法も使えないわたしが愛されるわけがないじゃない」
隣で眠るジェラードを見つめながら、クリスティアーナは自分に言い聞かせるように呟いた。
けれど、その頬には自分でも気づかないほど柔らかな笑みが浮かんでいた。
そんなある日の午後、辺境伯邸の前に一台の馬車が勢いよく停まった。
扉が開くなり、鮮やかなブルーのドレスをまとった若い令嬢が降りてくる。
「お兄様はいる?」
出迎えたメイドが慌てて頭を下げる。
「旦那様は領地の視察に出ていて、夕方までお戻りになりません」
「いないの?」
ナタリーは露骨に不満そうな顔をしたが、すぐに何かを思い出したように目を細めた。
「じゃあ、お兄様と結婚した女は?」
「奥様でしたら、庭園の東屋で本を読んでいらっしゃいますが……」
「庭園ね」
「ナタリー様、お待ちください。まずは奥様にお取り次ぎを――」
「そんなの必要ないわ」
令嬢はメイドの横をすり抜け、そのまま庭園へ向かって歩き出した。
彼女の名はナタリー・ポマード。亡くなったジェラードの母の姪にあたり、ポマード子爵家の令嬢だ。幼い頃からジェラードを「お兄様」と呼び、辺境伯邸にもたびたび出入りしている。
「まったく、私に何の相談もなく結婚するなんて信じられない。どんな女なのよ」
そう吐き捨てるように言いながら、ナタリーは庭園へ歩いていった。
一方その頃、クリスティアーナは何も知らず、東屋で静かに本を読んでいた。
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