0ページ 左 その2
目が覚めたとき、そこにはもう誰もいなかった。
あの女子の姿も、あの異常な静けさも、まるで最初から存在しなかったかのように消えている。
図書室にはいつものざわめきが戻っていた。 ページをめくる音、椅子の軋み、小さな足音、外の喧騒。
――音は、正常だった。
さっきまでの出来事が嘘みたいに思えるほど、世界は元通りだった。妙にすっきりした寝起きだけが、現実感として残っている。
ふと、あの横顔を思い出す。
本に目を落としたまま、微動だにしなかったあの姿。 当たり前のようにそこにいて、まるで最初から“音が存在しない場所”の一部みたいだった。
「……なんだったんだ、あれ」
わからないまま、木賊は立ち上がる。けれど、不思議と悪い気分ではなかった。図書室を出ると、廊下の音が少しだけうるさく感じた。
そして翌日。
木賊は、再びイライラを抱えながら校舎を歩いていた。家を出る前から、それは始まっていた。
朝、リビングで義父がいつものように声をかけてくる。
「大河くん、おはよう。今日もいい天気だよ」
柔らかい声。 困ったような笑顔。
悪い人ではない。 むしろ、気を使っているのが分かるくらいだ。
「うるせぇよ。話しかけんな」
吐き捨てるように言ってしまう。
義父は怒らない。少しだけ驚いたような顔をして、それからいつも通り困ったように笑う。
「そうか……じゃあ、気をつけて学校行くんだよ」
その声が、妙に耳に残る。
――なんで、そんな顔するんだよ。
胸の奥がまたざわつく。自分が悪いのは分かっているのに、苛立ちだけが溜まっていく。ただ、気まずそうに笑うだけのあの表情。それを見るたび、胸のどこかが妙に重くなった。
(なんで、怒らねぇんだよ)
そう思ってしまう自分にも、また苛立つ。
登校中も気分は晴れなかった。駅前の通りで、他校の不良に絡まれているクラスメイトを見かけた。声をかけたのは、ほとんど反射だった。
「おい」
それだけ。
その瞬間、相手の視線がこちらに向いた。 面倒な火種の匂いがする。案の定、すぐに絡んできた。言葉の応酬は長くなかった。拳が飛んできて、それを返した。返されたら、また返す。
気づけば、短い乱闘になっていた。どちらが勝ったかなんて興味はない。
ただ一つだけ。
殴り合っている間だけ、頭の中の雑音が少し遠のいた気がした。
気がつくと、クラスメイトの姿はもうなかった。助けたのか、巻き込んだのかも曖昧なまま、ただその場に立っていた。
周囲の視線が、少しだけ痛かった。
学校に着いても、それは変わらなかった。廊下ですれ違う生徒は、目を合わせようとしない。 会話の途中で、空気が途切れる。 絡まれていたクラスメイトが居たが、目が合うと縮こまるように顔を下へ向けた。
別に驚きはしない。もう慣れている。
昼過ぎ。
生徒指導に呼び出された。朝に起きた喧嘩の件だろう、とすぐに分かる。昼休みいっぱい使って説教を受けた。暴力はどうとか、俺はお前の心配をしているんだとか。 当たり障りのない言葉で話しかけてくる。
(……うるせぇな)
適当に返事をして、そのまま部屋を出る。親まで呼ばれると面倒なので、放課後までは大人しく過ごした。
これからどうしようか、と木賊は考える。帰るのも、外で時間を潰すのも面倒だ。
そして、昨日の出来事を思い出す。
何もない空間。音がないだけで、あんなにも呼吸が楽になるとは思わなかった。不思議な出来事だった。
今日も、いるのだろうか。
自然と足は図書室へ向かっていた。
扉を開ける。視線が一瞬だけ集まる。そして、すぐに逸らされる。椅子の軋む音。 小さなざわめき。誰かが距離を取る気配。
(気にすんな)
そう思いながら、無言で奥へ進む。
あの席。
昨日と同じ場所。
そこに、彼女はいた。
昨日と同じように本を開いている。動かない。喋らない。 ただ、そこに存在しているだけみたいだった。
木賊は何も言わず、そのまま席に近づいた。そして、昨日と同じように机に突っ伏す。机がわずかに揺れた。
その振動で、ほんの一瞬だけ彼女の手が止まった気がした。
(……気のせいか)
気にせず、目を閉じる。音は、そこになかった。外の世界のざわめきも、誰かの声も、遠くへ消えていく。ただ、静かだった。
その静けさに沈むように、木賊は再び眠りへ落ちていった。




