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目が覚めても、まだ彼女はそこにいた。
机に伏したまま横目で見やると、今日の彼女は本だけではなく、ノートと鉛筆を広げていた。
勉強をしているらしい。
細い指で鉛筆を動かしながら、時折こちらを気にするように視線を揺らしている。
(……見てんのか?)
そう思った瞬間、視線が合った。
彼女は、はっとしたように顔をそらす。
だが、それで終わりではなかった。
また少しだけこちらを見る。
何か言いたそうにして、また逸らす。
その繰り返しを、小さく何度も続けている。
(なんだこいつ)
木賊はゆっくり顔を上げ、軽く息を吐いた。
別に睨んでいるわけでもない。
何かした覚えもない。
「……悪い、邪魔したか?」
そう口に出そうとして、
音が消えた。
喉は動いたはずだった。
言葉の形にもなったはずなのに、どこにも届かない。
(ああ、そうだったな)
ここは、そういう場所だった。どう伝えればいいのか、一瞬だけ迷う。そのときだった。
彼女が、はっとしたように動きを止めた。こちらの声が消えたことに気づいたらしい。一瞬の沈黙のあと、彼女は慌てたように視線を泳がせた。
ノートを閉じる。
鉛筆を置く。
髪を触る。
意味もなく椅子を引き直す。
やけに忙しない。
(なんだよそれ)
木賊は思わず笑ってしまった。さっきまで、あんなに静かだったのに。凪いだ水面みたいに本を読んでいた少女は、今や小動物みたいに落ち着きなく視線を泳がせている。
彼女は笑われたことに気づき、さらに顔を赤くする。
(なに笑ってるんですか、って顔だな)
だが、声は届かない。だから、縮こまることしかできないらしい。そこで木賊は、ふと思いついたようにカバンを開いた。中から取り出したのは、ほとんど使われていないノートと鉛筆。
ノートを開き、荒い字で殴り書く。
『ジャマしたか?』
そのまま彼女の前へ差し出した。ノートを見て、一瞬固まる。声ではない。
けれど、確かに“言葉”だった。
木賊は何も言わない。ただノートを持ったまま待っている。怒っているわけでも、急かしているわけでもない。
彼女はゆっくりノートを受け取った。鉛筆を握る指先が、少しだけ震えている。紙の上に、小さく文字を書く。
『いいえ』
それだけ。
木賊はそれを見て、軽く頷いた。しばらく沈黙が落ちる。すると彼女は、少し迷うように視線を落とした。
ペン先を紙に置いては離す。一度何かを書きかけて止め、黒く塗りつぶす。それを何度か繰り返したあと、ようやく文字を書いた。
『どうして、ここにいるんですか』
差し出されたノート。
文字は小さく、どこか頼りない。木賊はそれを見て、わずかに眉をひそめた。鉛筆を取り、少し強めに書く。
『いちゃ悪いかよ』
短く、荒っぽい字。ノートを返すと、凪原の動きがぴたりと止まった。すぐにノートを引き寄せ、慌てたように書き始める。
『ち、違います』
一行だけ書いて止まる。
しばらく空白。
それから、少しずつ書き足す。
『迷惑、とかじゃなくて』
『私のそばは……』
そこでまた止まる。
ペン先が迷う。
『ほら、こんな感じなので……』
言い切らないまま、ノートを差し出してきた。木賊はそれを読んで、少しだけ肩の力を抜いた。やはり、この空間は彼女の影響らしい。
鉛筆を走らせる。
『静かだからいいんだ』
それだけ書いて返す。彼女はその文字を見て、しばらく動かなかった。
ゆっくりペンを持つ。
『音が、ぜんぶ消えるの』
一度止まる。
『気持ち悪く、ないですか……?』
最後の文字だけ、少し小さい。
木賊はそれを見て、少しきょとんとした。そして鉛筆を取る。
『全く』
一拍置く。
『むしろ寝やすくて助かる』
凪原は、その文字を見て目を丸くした。次の瞬間、口元がわずかに緩む。慌てて手で隠すが、隠しきれていない。
肩が小さく揺れる。
何か言おうとして、でも聞こえなくて、さらに顔を赤くして、もじもじと視線を泳がせる。
木賊は頬杖をつきながら、その様子をぼんやり眺めた。
音はない。
けれど。
賑やかだな、と木賊は思った。




