選ばれた男
初の連載となります。
ご意見、ご感想等いただけますと、五体投地して喜びます。
昭和十六年の冬、片桐義雄は飛行場の端で、九七式戦闘機の発動機音を聞いていた。
格納庫から押し出された機体は、朝の薄い光のなかで白く息を吐いている。
整備兵がプロペラの前から退き、手を上げた。
「始動します!」
義雄は機体の左側へ回り、操縦席を見上げた。
九七戦は、小さく軽く、無駄のない機体だった。
機首に据えられた空冷発動機は、機体全体に対して大きく見える。主翼は細く、胴体は必要なものだけを収めたように短い。
起動車が接続され、プロペラが回り始める。
最初はばらばらだった爆発音が、次第に一つの連続した響きへまとまっていく。
義雄は機体に手を触れなかった。
触れなくても、外板の細かな揺れと排気音の間隔で状態が分かる。
右下側のシリンダーだけ、わずかに音が遅れている。
「一度、止めてくれ」
「異常ですか?」
「右下側の点火栓を見たい」
整備兵が発動機を止めた。
しばらくして、指定した点火栓が外される。電極の色が、隣のものとわずかに違っていた。
「よくこれがわかりますな」
「音が違った」
「音、ですか」
「音だ」
義雄は、それ以上説明しなかった。
機体は、故障を言葉で伝えてくるわけではない。
いつもと違う音や振動を返すだけだ。
それを異常として受け取るか、気のせいとして流すかは、人間の側にかかっている。
整備が終わると、義雄は操縦席へ滑り込んだ。
左手をスロットルへ置き、右手で操縦桿を握る。両足をフットバーへ乗せ、左右の踏み代を確かめた。
発動機を始動し、回転が安定するのを待つ。
義雄はスロットルを少しだけ開いた。
機体が前へ出る。
方向舵と左右のブレーキを使い分け、機首を滑走路へ向けた。
地上では機首が高く、正面が見えにくい。
義雄は機体を小さく蛇行させ、機首の左右から進路を交互に確かめた。
滑走路へ正対する。
スロットルを押し開く。
発動機音が一段高くなり、機体が前へ出た。
義雄は操縦桿を軽く前へ倒した。
尾輪が浮く。
機首が下がり、滑走路の先を見通せるようになった。
プロペラの反トルクで左へ振られようとする機首を、右フットバーを踏んで押さえる。
機体を滑走路の中心へ置いたまま、速度が乗るのを待つ。
操縦桿をほんの少し引いた。
主輪が滑走路を離れる。
九七戦が空中へ浮き上がった。
操縦桿を引きすぎれば、機首は上がるが速度を失う。
義雄はスロットルを維持し、操縦桿の引き量だけで上昇角を整えた。
高度が取れたところで、右へ旋回する。
操縦桿を右へ倒す。
左右の補助翼が逆向きに動き、右主翼が下がる。
同時に右足でフットバーをわずかに踏み、機首の横滑りを抑える。
旋回へ入った機体は、そのままでは高度を落とす。
義雄は操縦桿を少しだけ引き、昇降舵で機首を支えた。
スロットルは戻さない。
旋回半径を小さくしたいからといって、操縦桿だけを引けばよいわけではない。
機体は速度を失い、やがて失速する。
補助翼で機体を傾ける。
方向舵で機首を旋回方向へ合わせる。
昇降舵で高度を支える。
スロットルで、その姿勢を維持するための力を与える。
四つを別々に操作するのではない。
同時に、わずかずつ動かしていく。
九七戦は操縦桿の動きに敏感だった。
余計な入力を加えれば、すぐに姿勢へ現れる。
だから扱いやすい。
そして、扱いやすい機体ほど、操縦者の雑さを隠してはくれない。
義雄は操縦桿を中央へ戻し、左足をわずかに踏んで機首の振れを止めた。
機体が水平へ戻ったところで、操縦桿を少し前へ倒す。
旋回で失った速度を取り戻すためだ。
義雄は空の上で、何度も同じ操作を繰り返した。
旋回。
上昇。
降下。
射撃姿勢。
機体を急に動かすのではなく、発動機の力を残したまま次の操作へつなげる。
訓練を終えると、義雄は場周へ入った。
飛行場を見ながら高度を落とし、最後の旋回を終えて滑走路の延長線へ機首を向ける。
スロットルを絞る。
速度を確かめながらフラップを開き、降下角を整える。
操縦桿を前へ押しすぎれば降下が速くなり、引きすぎれば速度が死ぬ。
義雄はフットバーを細かく踏み、機首を滑走路へ合わせた。
接地寸前で操縦桿を引く。
主輪が地面へ触れた。
操縦桿を引きつけ、尾輪を下ろす。
速度が落ちるにつれて、方向舵の効きが弱くなる。
義雄は早めに機首を整え、左右のブレーキを使いすぎないよう減速した。
機体を格納庫の前へ戻すと、若い整備兵が駆け寄ってきた。
「中尉、調子はいかがでしたか」
「悪くない」
「ドイツへ行かれるそうで」
義雄は返事の代わりに、左手首の時計を見た。
精工舎の時計だった。
文字盤もケースも、特別なものではない。
ただ、長く使っている。
撃墜されかけた日も、着陸に失敗した日も、機体を壊して整備兵に叱られた日も、この時計は変わらず時を刻んでいた。
義雄は手袋の甲で硝子を拭おうとして、やめた。
飛行服の内側から柔らかな布を出し、汗と埃を丁寧に拭う。
正しく動いているものを、わざわざ雑に扱う理由はなかった。
その日の午後、義雄は呼び出された。
事務所へ入ると、航空本部から来た少佐が机の向こうに座っていた。
「片桐中尉。ドイツへ行ってもらう」
「視察ですか」
「戦技および機体運用の視察だ。向こうの戦闘機へ乗り、戦技担当者とも意見を交換する」
義雄は黙っていた。
「不満かね」
「いえ。ただ、私より適任がいるのではありませんか」
少佐は机の上へ数枚の書類を並べた。
「君の報告書だ」
そこには、過去の訓練飛行と射撃の記録があった。
『旋回中、操縦桿に細かな抵抗が出た。機体は旋回可能だったが、これ以上の追従を要求すべきではない』
少佐が、その一文を指で叩いた。
「ほかの者は、何秒で敵機を撃墜したかを書く。君は、機体がどこで嫌がったかを書く」
「嫌がった、というのは私の表現です」
「その表現が必要なのだ」
少佐は書類をめくった。
「ドイツでは、我々とは違う考え方で戦闘機を使っているらしい。向こうの機体が速いから見てこい、という話ではない。なぜ速さを生かせるのか。なぜ旋回戦に付き合わずに勝てるのか。それを見て、持ち帰ってもらう」
「帰国後、部隊に教えろと」
「そうだ」
「私が人に教えるのは得意ではないと、ご存じでしょう」
「知っている」
少佐は即答した。
「だが、君は実際に飛んで見せることができる。口で教えられないなら、機体に教えさせればいい」
義雄は、少佐の顔を見た。
「ドイツの戦闘機へ乗るのですか」
「Bf109に乗る機会がある」
義雄は、わずかに眉を動かした。
写真で見たことはある。
低い機首。
細い胴体。
小さな主翼。
しかし、写真は機体の大きさを伝えてはくれない。
その後、義雄は日本を発った。
長い旅の詳細を、彼は後になってもあまり語らなかった。
彼が最初に強く覚えているのは、ドイツの飛行場へ立ったときの冷たい空気だった。
そして、格納庫の前へ置かれたBf109だった。
そのそばには、整備兵とパイロットたちが立っていた。
そのうちの一人、革の飛行帽を小脇に抱えた大柄な男が、Bf109へ歩み寄る。
義雄は、彼を見上げた。
日本にいるかぎり、片桐義雄は背の高い男だった。
整列すれば前列の頭越しに後ろまで見渡せる。軍帽をかぶれば、さらに大きく見えた。
ところがドイツでは、義雄の目線はたいてい相手の胸元にあった。
見上げるほど大きな男が、あの小さなBf109に身体を折りたたむように収まる。
大柄なパイロットは翼へ足を掛けた。
まず脚を入れ、次に肩をすぼめ、最後に頭を屈める。
入ったというより、収まった。
いや、収められた、と言ったほうが近い。
大柄な身体が、狭い操縦席のなかへ消えていく。
風防を閉じると、外から見えるのは、その向こうにある顔だけだった。
義雄は、機体とパイロットを見比べた。
Bf109は、写真で見るより小さかった。
小さいというより、空気を押しのける面積そのものを削り落としている。
翼端から翼端までの幅が短い。
胴体は細く、操縦席の周囲にはほとんど余裕がない。
それでも、その小さな殻のなかへ、発動機と燃料と武装と、一人の人間が詰め込まれている。
義雄は翼へ足を掛けた。
操縦席へ身体を押し込む。
左手をスロットルへ置く。
右手を操縦桿へ置く。
両足でフットバーの位置を確かめる。
操縦桿を動かすと、補助翼と昇降舵がわずかに動いた。
方向舵の操作感も、九七戦とは違う。
同じ飛行機でありながら、手足へ返ってくる感触が違う。
義雄は、狭い操縦席のなかで身じろぎした。
スロットルを見た。
この小さな機体が、どのような飛び方をするのか。
それを知るには、操縦桿を握るしかない。
左手首では、腕時計の秒針が静かに進んでいた。
精工舎の時計は、まだ義雄の腕にあった。
読んでいただき、ありがとうございます。
当外伝は、別途連載中の本編をより楽しんでいただくための前日譚となります。




