07 結界
放課後の賑わいから離れ、敷地の奥に位置する弓道場へ向かうにつれ、葵の足取りは無意識のうちに重くなっていた。
手に持った弓袋を握り直す。弓道部への入部を心に決めていた葵は、今日、自宅から愛用の和弓を持参していた。
この学園の武道施設は、まるで武道館を思わせる八角形の重厚な建築となっている。一階に柔道場と剣道場を構え、その二階部分が体育館となっている。葵はその奥にある弓道場へと足を進め、扉を開けようと鞄を持ち直した。
だが、弓道場の引き戸に手をかけようとしたその瞬間——葵の肌に、ちくちくと刺すような冷たい戦慄が走った。
(……この空気、まさか……!)
あの雨の夜の路地裏で感じたものと酷似した、生臭く禍々しい気配。
葵は瞬時にブレザーのポケットから数枚の護符を取り出し、空間へ向けて滑らせるように投げ放った。
「——展開」
空中へ躍り出た護符が蒼白い光を放ち、周囲の空間を歪めていく。
東雲家に伝わる【認知阻害・亜空間展開結界】。周囲の一般人に中の異常を察知させない「認識阻害」にとどまらず、同じ場所に一般人が足を踏み入れても干渉し合わない「亜空間」を切り取る高度な術だ。現実世界への破壊や影響を完全に遮断できる反面、結界の広さと耐久性は使い手の精神力と護符の数に強く依存する。
結界が完全に定着した直後、弓道場の空気に亀裂が入った。
射場の奥、的に向かって伸びる射道の闇から、ぬらぬらと黒く光る異形の体躯が這い出てくる。鋭い鎌のような脚を無数に生やした、百足を思わせる禍々しい異形・穢獣。
穢獣は葵の姿を捉えると、甲高い不快な威嚇音を響かせ、射道を一直線に猛スピードで這い寄ってきた。
(来る……!)
葵は即座に弓袋から弓を取り出し、素早く弦を張って矢を番えた。
凛とした呼吸とともに引き絞り、放つ。
過ちなく放たれた破魔の矢は異形の外殻を撃ち抜き、黒い体液を撒き散らさせた。だが、異形はひるむことなく距離を詰めてくる。
(くっ……!ここだと避けれない……!)
安土に向かって一直線に伸びる射道は遮蔽物がなく、射手にとっては直線的な攻撃しか仕掛けられない。接近を許せば、弓という長尺の武器では近接戦を捌ききれないのだ。
葵は瞬時に判断した。足を止めれば詰む。
術力を込めて護符を追加で展開し、亜空間結界の範囲を隣接する体育館へと拡張させながら、葵は弓を片手に全力で走った。
扉を閉ざし、広大な体育館の中央へと逃げ込む。
一階に柔道場と剣道場を擁するこの体育館の体積は大きい。しかし、それは同時に——死角が増えることを意味していた。
夕暮れの赤い光が窓から差し込む体育館の天井やステージの裏。空間のあらゆる暗がりから、先ほどの異形と同種の個体が二体、三体、四体と這い出してくる。
(一匹だけじゃなかった……!?)
四方を異形に囲まれ、葵は体育館の中央で弓を構えたまま呼吸を乱した。
広域に及ぶ亜空間結界の維持に精神力を削られ、肩口の傷がじんじんと熱を帯びて体力を奪っていく。
上空から一体が襲いかかり、背後からもう一体が鎌を振り下ろす。
葵は即座に転がって回避し、振り向きざまに一枚の護符を放って簡易の壁を作ったが、異形の無数の鎌から繰り出される激しい打撃に破魔の結界がひび割れていく。
(護符が……もう持たない……!)
四方からの挟撃。逃げ場はない。
息が上がり、膝が震える。葵が破魔の矢を極限まで引き絞って覚悟を決めた、その時だった。
体育館の高窓から斜めに差し込む強い夕陽の中、入口の扉が勢いよく蹴破られた。
穢獣は葵への攻撃を止め、急に開かれた扉の方へ注意を移した。
逆光が射し込む扉の前に、ひとりの人影が立っている。
背後からの強烈な橙色の光によって顔立ちや表情は完全に漆黒の影へと没し、ただその輪郭だけが鋭く浮き上がっていた。
漆黒のシルエットのまま、少年は一歩、体育館の中へと踏み出す。
顔は見えない。だが、纏う圧倒的な冷気と殺気、そして黒髪の輪郭が、葵の記憶を激しく揺さぶった。
葵は息をのんだ。
(あの時の……『黒の退魔師』……!?)
正体を隠すように夕光を背に負った少年は、顔の判別を完全に拒んだまま、群がる穢獣たちの前に静かに立ちはだかった。




