06 帰郷と壁
桜の舞い散る坂道を、蓮はひとり静かに歩いていた。
私立鳳条学園の校門へと吸い込まれていく生徒たちの群れ。真新しい制服に身を包み、弾んだ声で笑い合う新入生たちの姿は、今の蓮にとって遠い異国の出来事のように映る。
5年ぶりに足を踏み入れたこの街、鎮市。
かつて過ごした記憶が残る家は、今は静まり返り一人で暮らすにはもったいないほどに広すぎる上に、過去を思い出して懐かしむこともできない。
登校風景の華やかさも、春の柔らかな日差しも、胸の奥で固く閉ざされた氷を溶かすことはない。
周囲の生徒たちが楽しげに挨拶を交わす中、蓮は誰とも目を合わせず、ただ視線を前方に固定したまま校門を通過する。ガラス張りのメディアエリアが朝日を反射する本館を抜け、教室へと向かう。
「暁くん!? やっぱりそうだよね。久しぶりだね!」
教室に入ると、同じクラスになった女子生徒が再会を懐かしむように声をかけてきた。あの日を迎える前に、小学校で何度も顔を合わせたことはある。だが、今の蓮にとって彼女の名前すらもう覚えてはいなかった。
蓮は足を止めることも、相手の顔をしっかり見ることもなかった。ただわずかに目線を向け、顎を引くだけの最小限の会釈を返し、そのまま通り過ぎて窓際のいちばん後ろの席へと腰を下ろす。
「……え?」
声をかけた女子生徒は、あまりの素っ気なさと冷ややかな反応に戸惑いを隠せず、差し伸べかけた言葉を失ってその場に固まった。気まずそうな、どこか怯えたような表情で口を噤み、逃げるように友人たちのもとへ戻っていく。
(……これでいい)
蓮はカバンから教科書を取り出し、机の上に整然と並べた。
過去を懐かしむつもりもなければ、誰かと馴れ合うつもりもない。己の目的は、家族を奪ったあの異形を討ち果たすことだけだ。あいつは去り際に言った——「再び訪れる」と。
周囲に冷ややかな壁を作り、誰も近づけさせないのは己を守るためであり、何より無関係な人間をあの惨劇に巻き込まないための必然だった。
だがふと、あの雨の夜の路地裏の光景が脳裏をよぎる。
(怪異は……俺以外の人間も襲う……)
それまで怪異は自分だけを狙う存在だと思っていた。だからこそ、見知らぬ人間が襲われているのを目撃したあの瞬間、激しい葛藤が蓮を襲ったのだ。
『助けるべきか……?』
自分が介入すれば、その人間に正体を知られ、余計な危害や災厄を引き寄せかねないという思考が一瞬足を止めさせた。
——だが結局、身体はすぐに動いていた。あの時の母のように、目の前で誰かが命を落とすのを見過ごすことなどできなかったからだ。
(巻き込みたくはない。……だが、見捨てることもできない。なら絶対に、俺の正体を知られるわけにはいかない)
相手の顔すら確かめず無言で立ち去ったのは、冷酷さゆえではない。それしかその人間を守り、遠ざける術がなかったからだ。
深く静かに息を吐き出し、蓮は窓の外の平和な校庭へと視線を向けた。
午前中の授業は、教員の挨拶や今後のシラバスの説明などが淡々と続いた。
チャイムが鳴り響く中黒板に向かう教員の声を聞き流しながら、蓮は窓の外の風景に無感情な視線を投げかける。渡り廊下やグラウンドを移動する生徒たちの姿。ふと、三組の前の廊下で、友人たちに囲まれて歩く黒髪の少女の姿がかすかに目に入ったが、蓮の瞳には一切の情動も浮かばなかった。ただの風景の一部として、彼の意識を掠めて消えていくだけだった。
昼休みになり、周囲の席が机を突き合わせて賑やかな歓声に包まれると、蓮は無言で席を立った。購買へ向かう者、食堂へ走る者をすり抜け、本館と校舎をつなぐウッドデッキの椅子に腰を下ろし過ごした。
午後もまた、退屈で平和な日常が過ぎ去っていった。
放課後を告げるチャイムが校内に鳴り響くと同時に、蓮は誰よりも早く荷物をまとめ、鞄を手に席を立った。
部活動の勧誘に沸き立つ廊下の熱気を置き去りにして、下足箱で靴を履き替え、左手に本館のガラス張りの壁面、右手にグラウンドを見渡す道をひとり歩く。校門に至るまでにも部活の勧誘は続いており、終始賑やかな通路を足早に進んだ。勧誘のために在校生たちが声をかけてきても、視線をそらし人込みを縫うように帰途についた。
学園の喧騒が遠のき、人通りがまばらになった夕暮れ時。
茜色に染まり始めた街並みを歩いていた蓮の足が、ふとピタリと止まった。
肌を刺すような、粘着質で冷たい不快感。
首筋の皮膚が逆撫でられるような、死の匂いを含んだ異様な気配が漂い始めていた。
(……この気配の位置は……)
蓮の漆黒の瞳が、深く、鋭く細められる。
春の平和な日常の裏側で、暗く蠢く異形の気配。
黒髪を夕風に揺らしながら、蓮は無言のまま、鞄を持つ手にそっと力を込め、今来た道を急ぎ戻っていった。




