02 襲われる少女
夜の風は、初春の冷たさを孕んで肌を刺した。
街灯の数が減り、古い家屋が立ち並ぶ旧市街の路地裏。湿ったアスファルトを踏みしめ、暗がりの中へ足を踏み入れると、急激に周囲の空気が重く澱み始めた。
(……なんだ、この空間は……?)
遠くを走る車の音も、風が木々を揺らす音も、すべてが遮断された不自然な静寂。空間の境界が水面のようにぬらぬらと歪み、呼吸すら苦しくなるような圧迫感が漂っている。
10年前の惨劇の夜に残された異形の気配の残滓が、周囲の異常な変容を過敏に告げていた。
「……くっ……!」
奥の行き止まりの路地から、押し殺した少女の苦悶の声が届く。
蓮は眉ひとつ動かさず、静かに地を蹴った。影のように闇と同化しながら疾走する。
走りながら、手慣れた所作で肩に掛けた刀袋の結び紐を解く。中から漆黒の拵えを滑り込ませるように抜き取ると、空になった刀袋を左腕で抱え直し、右腕はいつでも抜刀できるよう柄頭へと添えた。道場で稽古に打ち込んでいたそのままの姿――黒の居合着に身を包んだ佇まいが、夜の闇に深く溶け込む。
路地の角を曲がった瞬間、視界が開ける。
そこにいたのは、赤と白の鮮やかな巫女服に身を包み、肩口から血を流して壁に背を打ち付けている少女だった。
彼女の足元には、空間を固定するように明かりを放つ何枚もの護符。手に握りしめているのは霊力を帯びた一基の弓。
そしてその眼前には、爪牙をぎらつかせる巨大な蜘蛛の異形がとどめを刺さんと迫っていた。
(……助けるべきか…?)
見知らぬ他者に肩入れするなど、両親を奪ったあの異形への復讐のためだけに生きる自分にとっては無用なリスクでしかない。
(……だが)
絶体絶命の状況下、恐怖に膝を震わせながらも死を覚悟して敵を睨み据える少女の瞳。
それが、10年前のあの日――自分を庇って倒れた母の姿と、嫌でも重なってしまった。
(――チッ!!)
舌打ちひとつ。蓮の身体が制動を無視して加速する。
鎌のような前足を高く掲げ、少女の首を刎ね飛ばそうとした異形の懐へ、目にも留まらぬ踏み込みで潜り込む。
左腕に抱えていた空の刀袋を素早く背後へ放り投げると同時に、柄を押し出して鯉口を緩め、右腕の腕力を完全に抜く。
異形が自らの真下に現れた影に気づいた時には、すでに死の宣告は下されていた。
――光すら吸い込む、無音の一閃。
踏み込みの圧すら殺した神速の居合。
放たれた一撃は異形の巨躯を斜めに一直線へ切り裂く。
叫びを上げる隙すら与えずに黒い煙と灰に変えていく。
「待って……あなた、一体……」
背後で少女が荒い呼吸のまま、困惑と驚愕の混ざった声を漏らすのが聞こえた。
だが、蓮は一度も振り返らなかった。流れるような所作で血振りをし、静かに鞘の中に刀を納める。
空中から落ちてきた刀袋を正確に受け止め、蓮は足を止めることなく夜の闇の奥へと足を進め、消えていった。
残された赤白の巫女服姿の少女――東雲葵は、去り行く背中を呆然と見送っていた。
結界を張り、護符で怪異をこの空間に引きずり降ろして弱体化させなければ攻撃すら届かないはずの存在。それを、ただの刃の一撃で滅殺してみせた圧倒的な手練れ。
男性退魔師の正装である袴姿とは異なり、黒の居合着を纏っていたが、その身のこなしから葵は「自分を助けにきてくれた東雲一族の誰か」だと疑わなかった。




