01 復讐の刃
広さ20間程の静寂の満ちる道場に、すうっと吸い込まれるような呼吸音だけが繰り返し響いていた。
夕闇が落ち、影が長く伸びる時間帯。擦り切れた敷居、使い込まれた木床、壁に刻まれた無数の傷痕。
かつて曾祖父の頃までは、地元でも有名な剣術道場として多くの門下生で賑わっていたらしい。壁には修練生の札をかけるための掲示板や、多くの人物の写真も飾ってあった。祖父の代からは門下生も減り始め、この道場は近所の住民の剣道場として提供を行っていたと聞いている。その名残か、道場内には木刀や防具もいくつか残されている。父も同様に道場として場所の提供を行いながら、夜間に自身の剣術の修練を毎日行っていた。
この道場で幼いころから父の真似事をし、時には厳しい指導を受けながら剣術にのめり込んでいった事を思い出す。母が「さあ、お茶の時間ですよ」と温かな笑顔で茶を運んでくれていたその場所は、今や言葉を失ったように冷ややかに沈み込んでいる。
(……呼吸を整えろ。集中しろ。余計な雑念をすべて削ぎ落とせ)
凛とした暗がりの中、15歳の暁 蓮は木床の上に正座し、黙想していた。
父から受けた指導や修練を思い出しながら、自身の前に置いた刀に目を落とす。
黒髪の前髪から覗く瞳は、光を弾くように深く、寂し気に冷たい。
腰に差したのは、漆黒の拵えを纏った一振りの退魔刀。父の形見であり、あの日、父が命を懸けてでも守り抜いた唯一の遺産「暁月流」の象徴だった。
帯にしっかりと差された刀は、滑らかに静かにスーっと絹擦れの音を響かせる。
左手の親指で鍔を押し、鯉口からわずかに刃を覗かせる。次の瞬間――蓮の身体から重さという概念が完全に消え去った。
木床を蹴る踏み込みの音すら残さず、膝を滑らせるよう重心を移動。
一瞬にして片膝立ちとなり、切先は正面へ鋭く向けられている。
影が爆ぜるような神速の居合。
刃が空を滑り、音を置き去りにするかのような鋭い風切り音が一つ。刀はそのまま空中で円を描くように旋回し、間髪入れずに二打、三打と, 目に見えぬ四方の仮想敵へ容赦なく斬りかかる。
踏み込む足の角度、柄を握る指の力加減、視線の通し方。
すべての所作に隙がなく、無駄がない。隣市にある叔父の家に引き取られていた5年間、周囲が寝静まった夜中にただ一人、血の滲むような修練を愚直に繰り返してきた成果だった。
「……ふぅ」
一呼吸で刀を鞘へ納めると、静けさが道場へ戻ってくる。
蓮は胸の高さまで持ち上げた己の両手を見つめた。
10歳のあの日。我が家に突如として現れた、人間のように言葉を喋る不気味で恐ろしい異形。
父は刀を手に命を懸けて異形に立ち向かい、討ち死にした。そして母は、恐怖にすくむ自分を庇うように抱きすくめ、その背に爪牙を受けて目の前で倒れた。
血の海と化した庭で、母の骸を抱えてただ泣き叫ぶことしかできなかった自分を見下ろし、その異形は嗤うように言った言葉が頭から離れない。
『――まだ力は十分ではないか。時が満ちたときに、再びもらい受けに来るとしよう』
闇の中へ消えていく異形が遺したその言葉。そして、いつの日か必ず再びまみえることになるという予言めいた恐怖。あまりの絶望とショックに蓮の意識は途切れ、気づいた時には病院のベッドの上だった。事件は世間的には「痛ましい連続通り魔事件」として処理された。
退院後は、叔父が身元を引き受けてくれたため中学卒業までを隣町で過ごした。
その頃には事件は過去のものとされ、話題に上がる事すら無くなっていた。
だが、あの言葉は呪縛となって蓮の魂に刻み込まれた。
奴は必ず戻ってくる。ならばその時に、己の手で両親の仇を討ち、あの異形を絶ち切る――
それだけが、この5年間、血を吐くような修練を蓮に続けさせてきた唯一の衝動だった。
高校進学を機に「実家のあった街に戻りたい」と叔父・健一郎に頭を下げ、この想い出と呪縛の詰まった家へ戻ってきたのは、叔父が事件以降も守ってくれた暁家の土地に、今も残された道場があるためでもあった。
ここでなら時間を気にせず、誰にも邪魔されずに復讐の刃を研ぎ続けることができると考えていた。
「……!」
ふと、身体の深部が冷たく引きつった。
5年前、あの恐ろしい異形の気配を間近で浴びて生き残った代償。蓮の身体には、奴らと同種の存在が放つ特有の「気配」を過敏に感知する不快な感覚が備わっていた。
皮膚をチクチクと刺すような冷気。そして、腐敗臭に似た黒いモヤの匂い。
(……そう遠くないな。いつもの感じとは違うが…)
蓮は手際よく腰から刀を外すと、黒い長尺の刀袋へと滑り込ませた。
「……父さん、母さん。行ってくるよ」
誰もいない無人の道場へ静かに呟き、静まり返った我が家をあとにした。




