プロローグ:月影の一閃
常世の闇と現世を分かつ結界の中は、粘着質な死の匂いに満ちていた。
街灯の光すら届かない歪んだ裏路地。そこに存在している空間そのものが水面のように揺らぎ、アスファルトの地表には赤黒い粘液がへばりついている。
「くっ……!」
東雲葵は荒い息を吐きながら、背中を冷たいコンクリートの壁に打ち付けた。
白と赤を基調とした巫女服の肩口は大きく裂け、朱色の血が白い肌を伝って滴り落ちる。激痛に視界が明滅するが、手に持つ弓を落とすことだけはせぬよう、限界を迎えつつある握力で握りしめ手は震えていた。
目の前には数本の歪な足を生やした巨大な蜘蛛のごとき形相の怪異が蠢く。
その中央に浮かぶ醜悪な顔面が、嘲笑うように嗤う。
(……迂闊だった……! 結界を広げすぎたせいで、護符がもう……)
5年前のあの日から、自分の胸を苛み続けている冷たい罪悪感。
『私たちのせいで、あの家族は……私たちが死なせてしまった…』
その家族への罪悪感と一族の失態を贖うため、東雲の血を引く退魔師として、誰にも知られず怪異を払い続ける覚悟を決めた。しかし、葵は今夜が初陣である。罪悪感に囚われ、何としても怪異を討ち果たすという強い心情から深追いをしてしまっていた。これまで退魔師見習いとして、何度か討伐補佐としての実践は経験している。だが邂逅したこの怪異はこれまでのものとは威圧感が違っていた。圧倒的な死の気配。焦りと使命感が、彼女の判断を鈍らせていた。
怪異が鎌のような前足を高く掲げる。
壁に追い詰められたことで間合いは詰まりすぎている。今から矢を番えても、弦を引くより先に体を切り裂かれるだろう。
(ここまで、なの……?)
葵は歯を食いしばり、迫り来る死の爪牙を涙ながらに睨みつけた。
瞬間。
――ザッ、と。
静寂を切り裂いて、暗い路地の先から駆けるような足音が響いたと思うと、怪異の鎌が振り下ろされる直前、葵と怪異のわずかな隙間に、ぬっと漆黒の影が割り込む。
黒い前髪を揺らし、月夜に美しく黒く映える一振りの拵えを携える一人の少年の背中。
「……なっ!?」
葵の悲鳴にも似た驚愕を置き去りにして、少年は左手で刃の鯉口を静かに切った。
怪異の雄叫びと葵の呼吸音、それ以外の無音の死空間に、少年の衣服が擦れる微かな音が加わる。
刃が光を吸い込む。
鞘から放たれたのは、踏み込みの踏圧すら感じさせない、完全な無音の一閃。
視界が一瞬真っ白に染まった。
剣鳴すら遅れてついてくるほどの、恐るべき超神速の居合。
「――え?」
葵が瞬きをする間すらなかった。何が起きたのかも瞬時には理解が出来なかった。
すれ違いざまに振り抜かれた刀の軌跡に沿って、怪異の巨大な巨躯が斜め一直線にズレる。
切り口から溢れ出したのは血ではなく、漆黒の煙。怪異は自分が何に斬られたのかすら理解できぬまま、絶叫を上げる暇もなく、振り上げた腕が地に付くと同時に黒い灰となって夜の空気へと霧散していく。
沈黙が訪れた。
少年は息ひとつ乱さず、そのまま流れるような所作で血振りをし、静かに鞘の中へ刀を納めた。
そのまま一度も振り返ることなく、黒い刀袋を肩に掛け直すと、夜の闇の奥へと足を進める。
「ま、待って……! あなた、一体……!」
葵が血の滲む肩を押さえながら必死に声を上げるが、少年は立ち止まらない。
怪異が消滅したことで葵が張っていた結界も消失し、街の街灯の光が淡く差し込んできた。
少年が路地裏の角を曲がる直前、ちらりと見えたその横顔は、夜空に残る冴え渡った月のように冷たく、どこか壊れそうなほどに寂しげだった。
葵はただ呆然と、誰もいなくなった闇を見つめることしかできなかった。
「葵! 大丈夫か!?」
背後から駆けてきたのは、葵を探していた退魔師たちだった。
「怪我はそこまで酷くはないな……待て、この残滓は……まさか、初陣でこのレベルの怪異を一人で討ったのか!? よくやったな!」
先輩たちの称賛の声に、葵はすぐに答えることができなかった。
自分が倒したのではない。自分はただ死を待つだけで、見知らぬ少年に救われたのだと告げることすらできず、ただ少年が消えていった角を見つめ続けていた。
(あの凄まじい剣技……あんな刀を使う退魔師なんて、聞いたことがない……)
仲間に抱えられながら、今目の前で起こった衝撃的光景をずっと思い返していた。
冷たい夜風が、葵の頬を撫でて吹き抜けていく。
それが、すべての始まりだった。




